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1990年から旅したヨーロッパのイロイロな街と20世紀末の下北沢を、写真と文章で紹介していきたいと思います。


by KaZoo

2000年5月1日。僕はオランダの画家フェルメールの生まれ故郷デルフトDelftから列車でアムステルダムAmsterdam中央駅に向かっていた。そして列車がアムステルダムの1つ手前の駅で停車。その時にアラブ系と思われる数人グループによる巧みな盗難事件に遭遇。不運にも貴重品などが入ったショルダーバッグを奪われた。その時ショルダーバッグに入っていたのはパスポートやクレジットカードや現金。そして航空券とユーレイルパス。さらに買ったばかりのフィルムカメラやビデオカメラなどなど。思わず落胆してしまった。

盗まれて最も困るのはパスポートだ。何たって外国でパスポートは自分自身を証明する唯一の公文書。パスポートがなければ旅は続けられない。僕は盗難直後でかなり落ち込んでいたけれど、元気を奮い起こしデン・ハーグDen Haagにある日本領事館に電話して指示を仰ぐことにした。通常ならパスポートは申請した翌日に再発行される。だけど盗難された今日5月1日の業務はとっくに終了している。僕が領事館に行けるのは明日5月2日だ。

だけど5月3日から日本も在外日本領事館も連休に入ると言われた。ということは連休明けまで業務はストップするので、パスポートの再発行はかなり遅れることになる。そうして領事館の担当者は「連休が明ける5月8日に再発行したパスポートをお渡しできます」と受話器の向こうで事務的に言うだけ。何とこれから6日間も待たなければならない。僕としては忌々しいことがあったアムステルダムからすぐにでも逃げ出しかった。

これから6日間も待足されることが分かって考え込んでしまう。とにかくパスポートがないから原則としてオランダを出ることは許されない。アムステルダムにはもう1分1秒たりといえども滞在したくない。すでにホテルは3連泊の予約をしてある。ということで4日以降パスポート再発行の5月8日まで、僕は本意ではないけど他の街で過ごすことを考えた。

本当はガイドブック『地球の歩き方』を見て次の街を検討したかった。だけど肝心のガイドブックもショルダーバッグの中に入っていたから今は手元にない。全くの無い無い尽くしで最悪な状況。帰りの航空券も紛失している。それも気になってしかたがない。今すぐ東京の旅行代理店に電話して、帰りの航空券はどうなるのか聞きたかったけど時差が7時間ある。日本はまだ夜だ。全く苛立つことばかりでイヤになってしまう。

とにかく今は何もできない。明日の朝早く起きて一心不乱に連絡しまくるしかない。こんな最悪な時は気分をガラリと変えるしかない。ということで以前1997年春に行った和食店の与一に行き、熱燗をたっぷり飲んで元気を取り戻そうと考えた。だけどその前にやらなければならないことが1つあった。それは明日2日の夕方に会って、一緒に夕食を食べる約束をしたオランダ人女性の友人Jクンに連絡することだ。

僕は日本を発つ前、メールでアムステルダムに着いたら電話すると約束していた。だけど彼女の電話番号を書いたメモもショルダーバッグの中に入れたまま。きっと今頃モミクチャにされ道端に捨てられているだろう。とりあえず彼女が以前働いていたホテルの和食レストランへ行って誰かに電話番号を聞いてみようと思った。だけど彼女が働いていたのはもう数年も前になる。もしかしたら今は誰も彼女を憶えていないかもしれない。

といっても今の僕には、それ以外に彼女の電話番号を知る方法が思いつかない。僕はトラムに乗り以前彼女が働いていたというホテルのレストランに向かった。何だか相変わらず気分は晴れないままだ。こんな時に盗んだヤツらに似ているアラブ系の人間の顔を見ると、僕は意味なく身構え異常反応してしまいそうになっている。今は絶対に感情をコントロールする必要がある。そうしないと、もっと危険な目に遭うかもしれない。

僕はいつも以上慎重に行動するよう自分に言い聞かせた。まずはトラムに乗って窓の外に流れるアムステルダムの街風景を見て気を紛らわす。やがてトラムはホテル近くの電停に停車。行ってみると和食レストランはちょうどランチタイムが終わり、スタッフ全員が休憩している時間だった。僕は客でないことを丁寧に告げ、レストランの日本人スタッフに以前ここで働いていたオランダ人女性Jクンのことを聞いてみた。

「あの〜、お忙しいところすいません。以前ここで働いていた僕の友人で、Jという名のオランダ人女性ですが、どなたか彼女の電話番号をご存じないでしょうか…?」

すると幸運にも彼女の電話番号を知っている人がいた。僕は早速ホテルのクロークでテレフォンカードを買い彼女に電話してみた。

電話は通じたけどあいにく留守電だった。ということで僕は現在自分が泊まっているホテルに電話してほしいとメッセージを日本語で残し電話を切った。こんな時に日本語ができる現地の友人がいることはとっても助かる。彼女はライデン大学で日本語を勉強し、卒業した後しばらく日本で働いていたことがある。だから日本語が堪能なのだ。僕たちの出会いは彼女が日本にいる時で、下北沢の居酒屋に常連の連れとして来店した時からだ。

何にしてもJクンの連絡先が分かったので安心してホテルに戻った。そして明日2日の朝からやることと、連絡すべき場所を紙に書いて整理する。そうやって準備を整えていくと次第に気分も落ち着いてきた。そうこうする内に夕食時間となった。できれば以前行ったことのある居酒屋の与一へ行きたいと思ったけど場所はうろ覚え。たどり着けるかどうか自信がない。肝心のガイドブックがないから場所も電話番号も分からない。

泊まっているホテルのスタッフに聞いてみたけど与一は知らないと言う。困った。場所が分からない。ホテルを出てどうしようか考えながら歩いていると、運よく日本人観光客の女の子2人が向こうからやって来た。僕は事情を説明し彼女たちのガイドブックを見せてもらう。思った通りガイドブックに与一の電話番号と場所が載っていた。電話番号と場所が分かったので一旦部屋へ戻り、ホテルでもらった地図でおおまかに場所を確認。これで大丈夫だ。

ちょっと道を間違えたけど何とか与一にたどり着いた。そして美味しい熱燗と和食で荒んでいた心も安らかになる。貴重品のほとんどを失って落ち込んでいたけど、実は不幸中の幸いというか、僕は予備のクレジットカードを大きなリュックの底に隠しておいた。とりあえずこれが1枚あっただけでも本当に助かる。盗まれたVISAカードも運よく、直後にアムステルダム中央駅の警察から電話して即刻使用不可にすることができた。神は僕を見捨てない。

夕食から戻りホテルの部屋で冷静になって考えた。今泊まっているアムステルダムのホテルは明後日3日までの予約。問題はその後5月4日からパスポートが再発行される8日まで。真剣にイロイロ考えている時に、以前テレビで見た『うさぎのミッフィー』の作者ディック・ブルーナさんの住む街がユトレヒトUtrechtだったことを思い出す。そうだ、こうなったらユトレヒトがいい…!こうして僕のユトレヒト行きが決まったのだ。

パスポートが再発行される5月8日は早めに日本領事館に行きたい。ということで4日から6日まではユトレヒトに3連泊。翌7日は領事館のあるデン・ハーグに1泊するのがベスト。そうして盗難があった翌日5月2日、午前中早めに領事館に行った後、僕はすぐアムステルダムに戻って旅行代理店でホテルを予約した。その後カメラショップを探し、ローライフレックスのコンパクトカメラを購入。カメラだけでもあれば精神的には復活できると思ったのだ。

といっても予想外の無駄遣いになったことは事実。何だかとても口惜しい気がする。気合を入れて買った新品カメラのパッケージを開けるとマニュアルが入っていた。当然だけど日本語の解説文はない。入っていたのはオランダ語とフランス語とドイツ語とイタリア語とスペイン語の4カ国語だけ。肝心の英語のマニュアルがないのにはちょっと驚いた。とはいえマニュアルが完全に読めなくてもカメラは何とか操作できる。ということでカメラを手にしてファインダーを覗く。フィルムを入れずに何度かシャッターを押す。その瞬間に今まで起こったイヤなことは全て忘れた。何とも気分転換の素早いB型人間だと思う。

翌日の夕方は約束通りJクンと数年ぶりに会って一緒に食事をした。久々に日本語が話せて僕の気分も落ち着く。そして5月4日いよいよアムステルダムからユトレヒトへ移動。中央駅到着後インターナショナルと書かれた切符売り場を覗く。実は日本領事館でパスポート再発行の手続きをした時に、係の女性領事館スタッフから「ユーレイルパスはユトレヒトの駅で買えるかもしれないわよ…!」と教えてもらっていたのだ。僕はそれを確かめようと思い、窓口カウンターの女性に問い合わせてみた。すると「パスポートさえあればいつでもレイルパスは買えますよ…!」と言われ、思わず声を出して大袈裟に喜んでしまった。

ユーレイルパスがいつでも買えることが分かって元気が出てきた。確かユーレイルパスは紛失しても再発行はできないとガイドブックに書いてあった。だけど現地ヨーロッパでレイルパスが買えることについては書いてなかったと思う。もしも買えることが分かっていたら、僕はこんなに落ち込まなくてもよかったはず。何はともあれ今の僕は敗者復活戦の出場者みたいなもので、何よりもしぶとく必死に勝ち抜かなければならないのだ。

予約したユトレヒトのホテルは中央駅のすぐ近くだった。アムステルダムの日本語が通じる旅行代理店に予約を頼んだからちょっと割高。自分で歩いて探せばよかったけど、何たって身分証明書となるパスポートも頼みの綱のガイドブックも手元にない。それに気落ちしてホテルを探す元気もなかった。ホテルは旧市街とは反対側なのでちょっと不便。旧市街へ行く時はいちいち中央駅の中を抜けて行かなければならないのが面倒だった。

ホテルにチェックインした後、中央駅を抜けユトレヒト大学のある旧市街方面へ向かう。しばらく歩くと街の中心を流れる運河にぶつかった。運河周辺は木立に覆われひっそりと静か。何とも雰囲気があって落ち着く。運河脇の道路から階段を下りた水辺にカフェがテーブルを出している。何とも涼やかで居心地がよさそうな感じだ。アムステルダムでも運河周辺の風景は見ていたけどユトレヒトではまたちょっと違う感じがする。

運河脇の道路に黄色い看板が見える。何だろう…?そう思って近づいた。すると看板には下方を指す真っ赤な矢印の脇に「coffeeshop No Name?」と書かれている。たぶんこの下にコーヒーショップがあるってことだ。コーヒーショップと言っても日本のように真面目に珈琲豆を商っている店じゃない。オランダの「Coffeeshop」は合法的にマリファナなどソフトドラッグを扱っている店なのだ。普通の喫茶店は「Koffiehuis」と表記されるらしい。

確かにコーヒーショップの前を通ると、何だかマリファナ独特のヨモギの葉っぱを燃やしたような匂いがした。外国で日本人が迂闊にマリファナなどの薬物に手を出すのは違法。日本の法律に触れるらしい。といってどこかで日本の警察がいつも見張っているわけじゃない。だから捕まることはないのだ。観光でオランダにやって来てマリファナを吸っている観光客は、日本人に限らず決して少なくはないはずだと僕は思っている。

街をブラブラして面白い風景に出会った。ある洋品店の楕円形の看板が白と黒の猫だった。そして猫の看板の下に、何と真っ白なウエストハイランド・ホワイトテリアのような犬が僕の方をジッと見ていた。看板の白黒ブチ猫と本物の真っ白い犬。その対比が何となく面白いので写真を1枚パチリと撮った。こんなどうでもいいことでも僕は幸せになってしまう。ここ数日間イロイロ嫌なことがあったからこそ、ニャンコとワンコに癒されてしまうのかもしれない。

ユトレヒト初日の夕食は駅ビルに入っている鉄板焼き店にした。働いている女性スタッフはほとんどがフィリピン人。全員が和服っぽい制服を着ていた。だけどその制服の丈が妙に短くてツンツルテンの浴衣のように見える。帯はマジックテープで簡単に止められる作り。その帯も異常に胸高に締めているせいで、日頃から着物を見慣れている日本人の僕にとっては、何だかアニメとか漫画の「バカボン」のように見えてしまう。

鉄板焼きコーナーの男性コックも妙だ。眼鏡をかけた若い中国人の男は、野菜や肉をドンドン焼いて出来上がるたびに笑顔で「召し上がれ〜!」と変なイントネーションで言う。不思議な日本語の響きはくすぐったく僕は妙に落ち着かなかった。こんな変な日本語を誰が教えたのだろう。こういう時は「どうぞ温かい内にお召し上がりください…!」とか何とか言った方がいいのだ。妙な制服と日本語が気になって、結局僕は2度とその店に行くことはなかった。

翌日の夕食はまたまた「今日は」という妙な名前の和食レストランに行き、何となく雰囲気のいい店だったので残りの2日間も通い詰めた。寿司カウンターの板前は香港出身の陳さんという40代くらいの人。何となくウマが合うので陳さんと英語でイロイロ話をした。彼は寿司の技術を東京で学んだという。陳さんも以前アムステルダムのトラムで、アラブ系っぽい数人グループに囲まれ財布を盗まれたことがあると言った。東洋人は狙われやすいのだ。

パスポート再発行前日の5月7日、僕はユトレヒトから日本領事館のあるデン・ハーグに移動した。この街は前回1997年春にも偶然訪れている。あの時はオランダ到着直後。ライデン駅のツーリスト・インフォメーションでホテルを探してもらったけど、観光シーズン真っ只中でホテルはどこもフルブッキング。結局イロイロ探して最後に見つかったのが、デン・ハーグが最寄り駅となる海のそばに建つアトランティック・ホテルだった。

その時はデン・ハーグ駅で列車を降りてTAXIでホテルに向かっただけ。だから街を散策したってわけじゃない。明日は待ち望んでいたパスポート再発行の日。予約した駅そばのホテルと同じビルに和食レストランがあり、夕食時に板前さんから恐ろしい話を聞いた。彼は以前クルマを路上駐車し、30分ほどで戻ってくるとタイヤ、ホイール、カーステレオを一瞬で盗まれたと言った。犯人はアラブ系のグループらしい。全く油断も隙もあったものじゃない。

明けて5月8日午前11時。再発行されたパスポートを手に入れ、すぐに列車でユトレヒト中央駅に戻る。そして新しいユーレイル・グローバルパスを買い求め、ドイツのケルン行き国際列車に飛び乗って忌々しいオランダを後にした。列車が国境を越えてドイツに入った途端、僕は不思議に気分が少しずつほぐれていくのが分かった。今まで何度もドイツを旅してきたせいだと思う。ドイツに入ったら一瞬にして緊張感が解け自然と心が和らいだのだ。

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# by 1950-2012 | 2025-11-18 01:10 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

20011228日、英国ロンドン・ヒースロー空港経由でスコットランドの首都エディンバラEdinburghに到着。初めてのスコットランド。顔には出さないけど僕はかなり興奮していた。今回は年末年始の休暇を利用し、首都ロンドンLondonまでグレートブリテン島を北から南へ一気に下る旅程。もちろんその途中には、僕の青春時代の憧れThe BEATLES誕生の地リヴァプールLiverpoolに立ち寄ることだけは決めてある。といってリヴァプールのホテルは予約してないから確定とは言えない。

ホテルは到着当日のエディンバラが2連泊。次に向かう北スコットランドの中心都市インヴァネスInverness30日と大晦日と元日の3連泊。そして最終到達地ロンドンには帰国前の3連泊を予約してあるだけ。インヴァネスからロンドンまでの4日間は全く未定。といってもリヴァプールでは2連泊したいから、正確に言うとインヴァネス後の2日間がまだ決まっていないことになる。今のところイングランド北東部の古都ヨークYork2連泊が第1本命。

エディンバラ到着は思ったよりも遅い時間になった。予約したホテルはウェーヴァリー駅と旧市街に近くて便利なカールトンホテル。お金がちょっと勿体ないけど、空港から街の中心部まではTAXIを使う。ロンドン乗り換えでちょっと疲れている。できるだけ早くホテルの部屋に入ってくつろぎたかった。チェックインを済ませて部屋に入る。TVをつけたら『ハリー・ポッター』の原作者であるJ.K.ローリングさん結婚のニュースが流れた。へぇぇ…?

ニュースは他にもシドニーの山火事。そしてパキスタンとインドの紛争。さらにエリック・クラプトンの再婚と続く。あの名ギタリストのエリック・クラプトンが、赤ん坊を入れたバスケットを手に半ズボンで街を歩く姿が TV画面に映し出され僕は驚いた。どう見たって「ギターの神様」と言うよりも「普通のオッサン」という感じにしか見えない。まぁ、それでイイのだろう。とにかく海外に出ると新鮮なニュースばかりで面白くなってしまう。

他には欧州共通通貨€ユーロ導入についてのニュース。ヨーロッパを旅する僕としてユーロは何とも気になる。ちなみに200112月の時点で、イギリスとデンマークとスウェーデンはユーロを共通通貨として導入する予定がないという話。ノルウェーはEUにも加盟してないから共通通貨ユーロとは無関係。何だか欧州連合EUEuropean Unionでまとまっているように見えるヨーロッパではあるけど、各国それぞれにイロイロな事情があって決して一枚岩とは言えないみたいだ。まぁ、それでイイのだと思う。僕個人としてはヨーロッパのどこでも使える共通通貨€ユーロがあったらとっても便利で楽なんだけど、そうそう旅人の思い通りになるわけもない。

旅行の間に読もうと思って出発前に文庫本を買った。イギリスを旅するからと選んだのは、高尾慶子さんが書いた『イギリス人はおかしい』と『イギリス人はかなしい』の2冊。高尾さんは1972年に渡英し現地で結婚と出産。その後に映画監督リドリー・スコットのハウスキーパーとして働いていた女性。1冊目は機内で軽く読んでしまった。長らくイギリスで暮らした彼女の辛辣な批評が大変に面白い。これからイギリスを旅する人には絶対オススメの文庫本と言ってもいい。これを読んでイギリスを旅すれば、どんな事が起こっても焦らないだろうし、感情的にもならないで済むと僕は勝手に思っている。

例えば文庫本に英国の公共交通機関がまともに、つまり鉄道が時刻表通り動くことがないと書いてあった。僕はそれが本当かどうか信じられなかった。何たってイギリスは産業革命の国であり、紳士淑女の国であり、近代文明である鉄道発祥の国なのだ。まさか鉄道が時刻表通りに走らないなんて到底考えられない。そう思っていたけど、実際に本に書いてあることを信じるのに時間はかからなかった。全く高尾慶子さんが指摘した通りだったのだ。

エディンバラ連泊2日目。午後7時過ぎに夕食のためホテルを出た。ガイドブック『地球の歩き方』のオススメは、飲食店が多く並んでいるという新市街のローズストリート。僕はウェーヴァリー駅の上に架かるノースブリッジを渡った。左手の岩山の上にはライトアップされたエディンバラ城が美しく夜空に映えている。何とも素晴らしく美しい姿だ。ローズストリートに到着した。確かにガイドブックの言う通りパブやレストランがズラ〜ッと並んでいる。

ちょっと軽くビールなど1杯飲みたい雰囲気だけれど、今はまずは食事が先。いい感じのレストランはないか探しながら歩く。ガイドブックに1軒だけ和食店が載っているけど、ちょっと遠いので行くのは諦めた。ローズストリートをズンズン先に進む。雰囲気のいいパブは何軒かあっても、なぜか入ってみたいレストランは1軒も見当たらない。さらに行くと赤紫色にライトアップされた、アヴァンギャルドな雰囲気のガラス張りの店があった。え、これは何だ…?

僕は妙にド派手な看板に惹きつけられた。何と「SUSHI」と書かれている。何とエディンバラの中心街に、あるはずがないと思っていた寿司店があったのでビックリ。見ると看板にはカタカナで「ソワ!」と書かれている。あれ、待てよ「ソワ」ってどういう意味…?今まで見たことも聞いたこともない日本語だ。店内を外から覗いてみると、日本の回転寿司店のように寿司がベルトの上をクルクル回っている。なるほど、回転寿司の店なのか…!

確かに回転寿司の店ではあっても何だか妙な感じがする。見た目には斬新過ぎて不思議で面白いけれど、せっかくの寿司がヒッチャカメッチャカだったらと考えてしまう。とりあえずパスして他の店を探すことにした。それからしばらくローズストリートを歩いたけど、結局は入りたい店が全く1軒も見つけられない。諦めて来た道を戻ると例の妙に派手な看板が目に入ってくる。うむ、ソワ!SUSHIか。これも何かの縁。土産話にしてやろうと思って入店する。

こうなったら店の名前が多少変でも、寿司さえ食えたら問題ない。仮に出てきた寿司があまりにもひどかったら即刻店を出ればいいだけ。覚悟を決め自動ドアの前にチョコンと立った。当然だけどドアがグィ〜ンと開く。店内は寿司店っぽくない内装。やたらコズミックにサイケデリックにブッとんでいる。店内中央にはオープンキッチン。それを取り囲むように正方形のカウンターがあり、見覚えのあるベルトが寿司を乗せユッタリ回っている。

何だか店内装飾がまるでSF映画のセットのように見える。見るだけなら面白いけど僕は食事をするために入ったのだ。ROCKミュージックが大きな音でガンガン強烈に流れている。といっても僕はROCKミュージックが好きだから音が大きくても気にはならない。そんな異次元っぽい空間の中を、ベルトに乗った寿司の皿が無機的にクルクル回り続ける。そんな呆然と立ち尽くす僕に店の若い女性スタッフが気づいてくれた。

すぐに空いている若い板前のチーフらしき男の前のカウンター席に案内される。これで準備は整った。僕は誰にも聞こえないように心の中で江戸っ子っぽく啖呵を切っていた。

「てやんでぇ〜、べらぼうめ〜、こちとら東京の一流店で、寿司なんざ飽きるほど食っちゃってる粋なお兄いさんなんだ。きちっとした仕事をしねぇと、難癖つけちゃうから覚悟しておけってんだ、えぇ、この紅毛碧眼野郎の、べらぼうめぇ〜!」

まずは若い女性スタッフに笑顔で熱燗を頼む。そうして回転する皿を眺めつつ、目の前のスコットランド人であろう板前の仕事ぶりをじ〜っと観察する。きっと板前は嫌味な客だと思っただろう。板前は左ぎっちょで、貝印ブランドの柄と刃が一体となったステンレス製の柳刃包丁を器用に使っている。だけど巻物を切る包丁の切れ味がよくない。何と1本切っては水にさらし、また次を切っては水にさらしている。ふふふふ、トーシローめぇ…!

果たしてこの若い板前は、包丁を毎日ちゃんと丁寧に研いでいるのか…?ちょっと聞いてみたいけど、僕は英会話がそんなに流暢というわけでもない。さらに相手を怒らせてしまい、柳刃包丁で撫で斬りにされるのも恐ろしい。ということで大人しく静かに観察する。とにかく今は腹が減っている。ということで回っている寿司皿を取る。醤油を小皿に取りパクッと一口食べてみた。Wow、何と寿司にはワサビが入っていない…!

ワサビは各自小皿に取って、醤油で溶いて食べるのがソワ!SUSHIのスタイルらしい。これはイギリスだけでなく、台湾とか中国辺りの回転寿司でも同様らしい。ということで「郷に入っては郷に従う」ことにする。ワサビを小皿にとって醤油で溶き箸の先にちょっと付けて舐めてみた。あららら、ワサビ独特のピリッという爽やかな辛さがない。これは僕の知っているワサビとは全く違う。急にガクッと気落ち。しかたがない。ここは日本じゃないのだ。

熱燗の2合徳利を女性スタッフが持ってきた。熱々で手に持てない徳利だ。ペーパーナプキンを巻いてお猪口に静かに注ぐ。外国では食事時といえども工夫と忍耐が求められる。それにしても徳利が熱過ぎる。とはいえ酒は本物のようだから何とか我慢。とりあえず熱燗を飲んでホッと人心地つく。店内ではロボットみたいな未確認物体がゆっくり通路を回っている。酒やビールなど飲み物を運ぶワゴン型ロボットだ。何とも未来っぽい…!

僕はベルトを回っている寿司皿を適度に取り、時には目の前の板前にマグロの刺身などを注文して食事を進めた。基本的に寿司は及第点で満足。すると僕は急にエディンバラで妙な店名の回転寿司店に入ったことを、帰国してから日本の友人たちに言いたい衝動に駆られた。といっても口頭で説明するのは面倒。ここは「百聞は一見に如かず」ということで、店の女性スタッフの了解を取り、数枚パチリパチリと証拠の店内写真を撮らせてもらう。

店を出てからも何だか店名が気になっていた。果たして「ソワ」とは一体どういう意味なのだろうか…?疑問が氷解したのは数日後。ガイドブックのロンドンのページを見ている時、何とあの「ソワ!SUSHI」の文字を見つけたのだ。店名はカタカナの「ソワ」ではなく、ローマ字の「yo」となっていた。僕は勝手に「ソワ!SUSHI」と見間違え、さらに思い込みでカタカナ読みしていたのだ。全く何という早とちりだろうか。

僕が見間違えたのにはそれなりの理由があった。それは店名ロゴマークの小文字アルファベットの「y」の交差する2本の線がちょっと離れて隙間があり、何となくカタカナの「ソ」に見えたし、さらに「o」の方もやや角張って左下が少し開いていたから、どうしたってカタカナの「ワ」に見えてしまうのだ。たぶん「yo」を「ソワ」と読み間違える日本人は僕だけではないだろう。帰国して友人に写真を見せたら、ほとんどみんな「ソワ!SUSHI」と読んだ。

といって「ソワ寿司」という店名も悪くない。突然美味しい寿司を食べたくなって気持ちがソワソワしちゃうからソワ寿司。何だか気分が出ていていいと思ったりする。だけど「ソワ」という言葉がはたして日本語にあるのか…?電子手帳の『広辞苑』で調べてみた。何と驚いたことに「そわ」という言葉があったのだ。

そわ【岨】ソハ:山の切り立った斜面。がけ。きりぎし。そば。

平家物語(9)「─の谷、生田の森、山の─、海の汀(みぎわ)にて射られ斬られ

て」。日葡「ソワノカケジ」

あるにはあったけど、まさか「山の切り立った斜面」では回転寿司店っぽくない。だけど元々が「ソワ」ではなく「yo」なんだから問題ない。これでイイのだ。とにかく平家物語まで出てきたのにはちょっとビックリ。それじゃ「yoSUSHI」の「yo」とはどういう意味なのだろうか…?どういう気持ちで「yo」と名付けたのだろうか…?

例えば大工の棟梁が「よっ〜!」と言って片手を挙げる。あの威勢のいい挨拶から取ったのだろうか…?ひょっとしたらネーミングを考えていたオーナーが、日本を訪れた時に日本人の寿司職人が常連客に「よっ〜!」などと、元気よく挨拶しているのを見たのかもしれない。僕は勝手にそう思うことにした。とにかく旅に出ると妙な物や事や人に出くわす。だから旅はやめられない。

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# by 1950-2012 | 2025-11-16 01:28 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

ガイドブック『地球の歩き方』に「北ドイツの真珠」と紹介されている街ツェレCelle。初めて訪れたのは2000年春。2度目に訪れるのは2013年初夏。13年で街はどれくらい変わったのだろう…?そう思っていたけど元々の記憶が曖昧だったせいか、僕は変化をさほど感じることができなかった。僕個人の記憶力の衰えがあろうとなかろうと、ドイツの街は日本のようにすぐ姿を変えることがない。変わらないことの素晴らしさがドイツの街にはある。

初めて訪れた2000年春、駅に到着した後まずは旧市街の中心部でホテルを探した。だけど気に入ったホテルが見つけられなくて駅へ戻りかける。その途中にフェルステンホーフという歴史的な宮殿を改造した老舗ホテルを見つけ、聞いてみると空室があったので1泊した。そして再訪の今回2013年初夏。前回同様ホテルの予約はなし。もしもいいホテルが見つけられなかったら、またフェルステンホーフに駆け込もうと考えながら旧市街に向かう。

ガイドブック『地球の歩き方』最新版で、フェルステンホーフの宿泊料金が何と「シングル€125〜」と高くなっている。これでは希望予算オーバーだ。旧市街をウロウロ探せば必ず納得のできるホテルが見つかるはず。今まで何とかなった。だから今回も何とかなる。根拠のない確信が僕にはあった。駅前から続くバーンホーフ通りを大きなリュックを引きずりながら歩き出す。何となく覚えているような、覚えていないような風景にちょっと懐かしさを感じた。

それにしても13年経つと哀しいかな、僕の記憶もかなりイイカゲンになっている。やがて前方に橋が見えてきた。橋の手前を右に曲がれば前回泊まったフェルステンホーフ。とにかく今は旧市街に向かって前方へズンズン進むだけ。橋を渡ると旧市街。やっぱり何だか見た目は全く変わっていない。旧市街は昔のままのようだ。変わっていなくてホッと安心してしまう。といって今はホテルを探すことが先決。昔を懐かしんでいる時じゃない。

ガイドブックに載っているホテルは、以前泊まったフェルステンホーフを含め4軒。まさかそんなに少ないわけはない。ホテルはもっとそれ以上あるはず。まずは市庁舎手前のツェラーホーフから聞いていこうと考えた。だけどガイドブックに「シングル€75〜」と書いてある。ちょっと高い。希望予算の€70以内がベスト。他を当たってダメだったら戻って来よう。可能なら€60くらいが嬉しい。何たって今回は3週間の長旅だから希望予算は守りたい。

旧市街の東端にインターシティホテルがある。ガイドブックに「シングル€70〜」と載っているからギリギリ希望予算に近い。たった€5のために頑張ってしまう。端から見れば愚かしく見えるかもしれない。だけど僕は一旦決めたことは守らないとイヤな性格。根はイイカゲンでテキトーなのに、変な所はマジで堅いから自分でもおかしいと思う。といいつつ突発的に方針を大胆に180度変えてしまうことも多々ある。全くよく分からない。

木組みの家々が美しく建ち並ぶ街路を行く。家並みは歴史に彩られ素晴らしい雰囲気だけど路面は石畳みの舗装。大きなリュックのキャスターが、石畳みの凸凹でちょっとバランスを崩し不安定になってよろけてしまう。何とかインターシティホテルに辿り着いた。1階レセプションの若い女性スタッフに聞くと空室はあるった。だけど宿泊料金を聞くと「€125です」と表情も変えず言う。げげ〜っ€125…?ダメだこりゃ…!

もしも€70だったら僕は即OKするつもりだった。だけど€125じゃ話にならない。憤懣やるかたなしという表情でホテルを出る。さて、どうするか…?ここまで来る途中にBorchersというホテルもあったけど、入口が分りにくかったので空室があるか聞かなかった。同じ道を戻るのも何となくイヤだ。もっと他にもあるはず。それでもなかったらBorchersかツェラーホーフ、さらにはフェルステンホーフで聞いてみようと考えた。

インターシティホテルの前はNordwallという環状道路。昔の城壁の北側の部分ってことかもしれない。道沿いに行くとアム・ヘーレントーアというホテルを発見。ガイドブックに「シングル€70〜」と出ている。とにかく当たって砕けろだ。ホテルは今のところ1軒しか聞いていない。ドアを開けると小さなレセプションにマダムが座っていた。僕が英語で「空室はありますか…?」と聞くと、マダムは「はい、あります…!」と笑顔で答えてくれた。

マダムの優しい雰囲気がとっても好感触。料金はシングル朝食込みで€70。希望通り予算内で思わず笑顔がこぼれる。とはいえ即決する前に部屋を見せてもらう。鍵を借り階段を上がってドアを開けた。部屋は階段で2つに分かれ、階下のベッドルームは広くて快適で居心地もよさそうだ。入口ドア左手にあるバスルームも清潔。これで朝食込み€70なら充分納得。思わずフフフフと笑い声が小さく出てしまう。

すぐ階下のレセプションに戻り、親指を立てて笑顔で「Gut〜!」とマダムに答えた。それから宿帳に名前と住所、そして生年月日を書き込む。するとマダムが急に「私も同じ1950年生まれよ…!」と嬉しそうな顔で言った。僕はちょっと驚いた後すぐマダムにとびっきりの笑顔を返す。偶然だったけど同年生まれということで不思議な親近感が生まれた。何はともあれ僕は素晴らしいホテルに遭遇できたことを大いに喜んだ。

何だかまだ運に見放されていない感じがする。旅はまだまだこれからも続くから、この運のよさは続いててほしいと願う。そういえば初めてツェレを訪れた前回も、僕は偶然だったけど和食店を経営する日本人に出遭っている。彼は僕と同年代で札幌出身。僕は小学生の間だけ札幌西区の琴似で育っているから、同郷ということでイロイロ話が盛り上がった。ツェレって街は何だか不思議に縁とか絆を感じさせる街だ。

部屋に入って大きなリュックを開け荷物を整理し始める。室内が2層に分かれているってことで何となく気分転換できて面白い。いい部屋に当たったことに感謝。イロイロ落ち着いたところでデイパックを担いでホテルを出た。まずは旧市街のツェルナー通りから歩き始める。左右の家並みはまさに「北ドイツの真珠」と呼ぶにふさわしい。といってもツェレと同じぐらいに素晴らしい街並みを、僕は今までドイツのイロイロな街でたくさん見ている。

前回訪れた時に入った和食店はどの辺りだろう…?歩きながら探してみた。哀しいかな場所が思い出せない。あの時に彼は数ヶ月後に店を閉めると言っていた。残念だけど店のあった場所さえ見つからない。最近は本当に記憶の低下が著しい。しばらく歩いてはみたけど、やっぱりさっぱり見つからない。市庁舎の前から白壁と煉瓦屋根が印象的な城の方へ向かう。広い庭園を少し行くと城が姿を見せる。城と言っても戦いのためではなく華麗な城館と言う感じ。

休みなくウロウロ歩き続けること1時間。どうしたって足腰が疲れてくる。それに喉だって渇いてくる。ということでツェルナー通り沿いのテラス席で一休みする。座ってしばらく待つと店の女性スタッフが注文を取りに来た。僕は地元産の美味しいビールが飲みたいと頼んだ。するとデュンケル・タイプのStackmanns Dunkelが届いた。グラスを手に取って日差しにかざす。赤いスパークリングワインのようで、グラス上部を覆う泡はきめ細かい。

「あれれ、このグラス…?」

グラスは持ちやすいよう裏側に凸凹が付いて反っている。面白いカタチだ。思わぬ発見に大喜びして写真を撮ってしまう。グビグビッ・プファ〜!何とも香ばしくて喉越しもいい。素晴らしいビールとの思わぬ遭遇に気をよくし大満足でホテルに戻る。ホテル入口の奥に中庭があるのに気づいた。見るとテーブルで宿泊客3人がゆったりビールを飲んでいる。何とも気持ちよさそうだ。

僕はすぐにレセプションに行き、例の同い年のマダムに聞いてみた。

「あのぉ、中庭でビールを飲みたいんですけど…?」

当然OKだ。ということで中庭の空いているテーブルに座ってしばし待つ。マダムがニコニコ笑いながらビアグラスと山盛りピーナッツを持ってきた。ビールはDetmolder Pilsenerで初めて飲む銘柄。柔らかい飲み心地で何とも言えない上品な爽やかがある。帰国後に調べてみて分かった。何でもあのグリム童話『ハーメルンの笛吹き男』で有名なハーメルン近隣の街デトモルトの地ビールだという。

マダムは優しくて親切だけど、ピーナッツがあまりにも多すぎるので僕は困った。小皿にひとつかみでいいのに、何と気前よくドバァ〜ッと大量に盛っているのだ。全部平らげたら鼻血がドバァ〜ッと出るかもしれない。と言いつつも旅先での親切はとっても嬉しい。グラスと皿を返す時、僕はマダムに「Danke Schön〜!」と「öウムラウト」の発音を強く意識して礼を言った。そうしてお金を払おうとすると、マダムは笑顔で「明日チェックアウトの時にまとめてでいいわよ…!」と言う。

夕暮れになってからホテルを出た。そして今まで行ったことのない街の東側へ向かう。東側のアラー川沿いの風景も味わい深いだろうと勝手に期待していた。もしかしたら途中で、探していた例の和食店の場所の記憶が甦るかもしれないと考えてもいた。川沿いには瀟洒な家が建ち並び、木造の橋の近くには雰囲気のいいレストランも数軒ある。夕食はどこにしようかと考えながら周辺をブラつく。昔はこの辺りに川漁師がいたようで川魚専門のレストランもある。

それにしても腹の減り具合が中途半端だ。さっき無理して食べたピーナッツが消化しきれず胃袋に残っているみたいだ。といって何も食べないわけにもいかない。結局Take Away専門の店で缶コーラとピッツァを買い部屋に戻って夕食を済ませた。といってもまだ部屋に篭もるには時間がちょっと早い。再びコンデジカメラをポケットに入れホテルを出た。できればビールをもう少しビールを飲みたいって気分だったのだ。

ホテルのちょっと先に感じのいいレストランがある。カウンター席に座って「ビールだけでもいいですか…?」と聞くと、店主は快く「OK〜!」と言ってくれた。地元のビールはあるかと聞くと店主はCELLER Bierを自慢げに勧めてくれた。ツェレ自慢のビールは軽めのピルスナータイプで上品な味。美味しかった。それから夕暮れ時の街を散歩し部屋に戻ってから、明後日6月14日デンマークで会う約束の友人Jクンの携帯に電話をかけた。

Jクンに電話をするのは今日これで3度目。だけど相変わらず通じない。メッセージの声は確かにJクンだけど、哀しいかなデンマーク語だから何を言っているか分からない。何であれ彼は日本語が分かるから、とりあえず留守電には日本語のメッセージを残した。僕は明後日に国境を越えデンマークに入る。Jクンとはデンマーク南西部の街リーベRibeで会おうとメールでやり取りした。だけど集合時間と場所は決めていない。それがちょっと気がかりなのだ。

仮にこのまま連絡がつかないとJクンに会えないことになる。そうなったらそうなったでしかたがないから、気ままに1人旅を楽しめばいいだけだ。何だか釈然としないけど「また明日連絡します…!」と日本語で言ってから電話を切った。後は明日になって考えればいい。人生なんて成るようにしかならない。後は成るように祈るだけだ。先のことなんか分からない。そう考えて思わず『ケ・セラ・セラ』を口ずさんでしまう。

「♪Que sera sera〜♫ Whatever Will Be, Will Be〜♪」

そして翌朝チェックアウト。マダムは昨日同様優しい笑顔を見せてくれた。だけどビール代のことをすっかり忘れている。僕もビール代のことに気づかずクレジットカードで支払いを済ませた。ホテルを出て駅まで歩いている途中だ。僕はふっとビールとピーナッツの料金を払っていなかったことに気づく。といって駅はもう目の前。今さら引き返すのも大変だ。あぁ、申し訳ないことをしてしまった。マダム、すいません、許して…!

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# by 1950-2012 | 2025-11-14 00:50 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

もうだいぶ前の話だけど、図書館で借りた小説『フェルメールの憂鬱 大絵画展』(望月諒子著;光文社刊)の中に、16世紀半ばベルギーのアントウェルペンAntwerpen(=アントワープ)に関する記述があった。その文章の中に突然「ロートリンゲン」という地名が出てきて僕は驚いた。えっ、ロートリンゲン、どこだっけ…?かなり前になるけど確か何かの本で見たか聞いたか、何となく記憶しているような感じはするけれど、ハッキリとは思い出せない。

だからといって簡単にPCで検索するのも何だか口惜しい。あぁ、喉元まで出かかっているのに思い出せない。くうぅ〜、じれったい…!その小説では当時のアントワープには1500隻も船が出入りし、さらに毎日客を乗せた馬車が200台、毎週2000台の荷馬車もドイツやフランス、そしてロートリンゲンからやって来たと書いてあった。だけど僕が気になったのはアントウェルペン以上にロートリンゲンなのだ。ロートリンゲン、どこだっけ…?

ドイツやフランスと一緒に併記されているから、ひょっとしたら国なのかもしれない。どうしても思い出せない。元々が知識の保有量も少ないし、さらに年を重ねて近年は脳細胞も老化し始めている。だから瞬時に思い出せないのはしかたがない。哀しいけれどアッサリ素直に降参して、すぐにPCで検索してみた。とは言いつつも少しは思い出す努力をしないと、脳細胞はますます退化してしまうから、たとえちょっとの間でも思い出す努力は怠らない。

PC検索したら呆気なく判明した。何と「ロートリンゲン」とは、フランスのロレーヌ地域圏を表すドイツ語「Lothringen」だったのだ。フランス語の「ロレーヌ」という地域は知っていたけど、まさかドイツ語で「ロートリンゲン」というなんて思いもよらなかった。ちなみにロレーヌ地域圏とは、ドイツ国境に近いムーズ、ムルト・エ・モーゼル、モーゼル、ボージュの各県にまたがる広い地域。ナンシーやメッスなどフランス有数の工業地帯でもある。

ローマ人による征服以来、ロートリンゲンではドイツ西部のトリーアとフランス北東部のメッスが主要都市として発達している。モーゼル河畔の街トリーアは以前2002年春に訪れ1泊している。ローマ時代の遺跡が残る歴史に彩られた素晴らしい街だった。メッスも2010年初夏に訪れ1泊した。その時はドイツからベルギーに向かう長旅の途中。実は僕がメッスに立ち寄った理由、それはサンテティエンヌ教会にあるシャガールのステンドグラスのためだった。

13世紀前半までロートリンゲンは神聖ローマ帝国の勢力下にあった。13世紀後半からはフランス王の勢力が浸透し始め、17世紀末まではフランスの支配下に置かれた。イロイロ調べて分かると未知の発見があってますます愉しい。ロレーヌ地域圏は1736年までロートリンゲン公国として、神聖ローマ帝国の領邦国家の歴史を持っていたってことも分かった。何だかモヤモヤがすっかり晴れて気分がサッパリ。やっぱり学習はいくつになっても面白い。

かつてロートリンゲンの主要都市だったメッスMetz。僕が訪れたのは2010年初夏の6月中旬。この時の旅は1月近く前の5月下旬スイスのチューリヒから始まった。その後リヒテンシュタイン、オーストリア、チェコ、ドイツを巡ってフランスに入国。さらに旅はベルギー、オランダと続く。8カ国を37日間で巡る鉄道旅。僕は旅立ち前に30日間有効のユーレイルパスを購入したけど、旅の前半7日だけは面倒だけど切符を買って旅を続けた。

メッスにはドイツ西部ザールブリュッケンSaarbrückenから列車で入った。ホテルはPCで検索して駅近くの便利なMODERNEを予約。部屋代はシングル1泊€5937日間の長旅で可能な限り節約したい僕にとっては嬉しい金額だった。ガイドブック『地球の歩き方』にメッスは載っているけど、街の地図もなく紹介記事もたった半ページ。これではお目当てのシャガールのステンドグラスがあるサンテティエンヌ教会までの道筋が分からない。

地図がなくて不安だけど、ないものはないのだとあっさり諦める。ということで旅立ち前に僕はPCから簡単な地図をプリントアウトした。だけど心許ない地図だから不安は消えない。ホテルにチェックイン後デイパックを担いで街に出た。地図を見ながらしばらく行くと、道路脇に2つの方角を指し示す「CENTRE POMPIDOU」と「CENTRE VILLE」と大きな看板。左に行くとポンピドゥーセンターで、右に行くと旧市街ということだ。

ポンピドゥーセンターは2010年、パリにある総合文化施設ポンピドゥーセンターの分館としてメッスに開館したばかり。僕が目指すのはCENTRE POMPIDOUではなく、サンテティエンヌ教会のある旧市街CENTRE VILLEだ。ということでプラプラ写真を撮りながら進む。やがてちょっと雰囲気のあるタナール通りに出た。アーケードのある歴史的な建物が大きな広場を囲むように建っている。

広場は1314世紀の面影を残す回廊があって何だかイタリアっぽい。昔この辺りにはヨーロッパの商人で賑わう「交換広場」と呼ばれるマルシェがあって、多くの両替店が軒を連ね繁盛していたという。残念だけど2010年この時の僕は、メッスがかつてロートリンゲンの中心都市であったという歴史を全く知らない。知っていれば何とかもっとメッス旧市街を愉しめたはずだ。さらにメッスがかつてアウストラシアという国の中心都市であったともいう。

ちなみにアウストラシアAustrasiaとは「東方の土地」って意味。メロヴィング朝フランク王国の北東地域のことで、現在のフランス東部やドイツ西部、さらにはベルギー、ルクセンブルク、オランダから構成されていたらしい。その後アウストラシアは1736年まで、ロートリンゲン公国となり神聖ローマ帝国の領邦国家として存続する。当然だけどこの貴重な知識も帰国後に分かったこと。知らないってことはとっても哀しいことなのだ。

しばらく歩いて僕はとうとう道に迷ってしまう。プリントアウトした地図には残念ながら細かな通りの名前はほとんど載っていない。だから自分が現在いる場所さえも確認できない。さてと、どうしたものか…?困った時は誰かに聞くのがベスト。といって誰に聞いたらいいのだろうか…?フランス語なんて片言の挨拶しか分からない。相手がフランス語しか喋らない場合はどうしようもない。とりあえず来た道を戻るのが賢明。ということで今来た道を戻った。

身なりの確かそうな人を見かけたら、僕は地図を見せて聞いてみるつもりだった。たとえフランス語しか話せなくても、地図上のサンテティエンヌ教会を指させばきっと何か教えてくれるはず。そう思っていると運よく初老の男性が向こうからやって来た。僕は早速地図を見せて聞いてみた。まずは挨拶から。笑顔と片言のフランス語で失礼のないよう心がける。続けて地図を見せ英語で質問する。知りたいのは細かな道筋ではなく大まかな方角なのだ。

こんな時は大袈裟なジェスチャーが役立つ。僕はラジオCMの演出家でもあるから、他の普通の日本人に比べたら多少は大袈裟な演技もできる。まずは地図上のサンテティエンヌ教会を指さし、次に身振りを大きくして「こっち…?あっち…?」と聞いてみた。すると男性はたどたどしい英語で親切に教えてくれる。助かった。方角は何となく分ったからもう大丈夫。気分を入れ替え再びサンテティエンヌ教会を目指す。

しばらく行くと道は緩やかな上り坂。左右に続く路地はさすが歴史を秘めた古都という風情を見せ始める。さらに写真を撮りながら歩くと路上に面白いモノを発見。おやぁ、これは何だろうか…?縦長の二等辺三角形の金属プレートが路面に埋め込まれていた。金属プレートには笑った顔のドラゴンが彫られている。道行く人に踏まれて表面はピッカピカだ。ちょっと先にも同じようなプレートがある。まさか、サンテティエンヌ教会への道しるべか…?

メッスは発見がイロイロあって何だか愉しい街だと僕は感じた。辺りを見回すと右手の小道の上に「TAISON」と書かれたアーチ型の看板。えっ、タイソンって、あのマイク・タイソンのこと…?まさか、そんなことはないだろう。看板には小さな文字で「Bienvenue au Village」とも書いてある。確か「Bienvenue」はフランス語で「歓迎」って意味だから「タイソン通りへ、ようこそ」ってことなのかもしれない。道路の右側に「Rue Taison」の説明プレートもあるけど、フランス語のプレートだから僕にはチンプンカンプンだ。タイソン通りがちょっと気にはなるけど、今はサンテティエンヌ教会のシャガールのステンドグラスの方が先だ。

坂道を上がり切ると大きな広場に出た。真正面にはツーリスト・インフォメーションの入った建物が見える。そして左手には壮麗なゴシック様式のサンテティエンヌ教会。尖塔が天空を鋭く切り裂くように建っているのが印象的だ。といっても今は修復工事中だ。それが何とも残念でしかたがない。さらに右手にはフランス国旗を翻す重々しい表情のモーゼル県庁舎。まず僕はツーリスト・インフォメーションに向かう。とにかく今はシッカリとした街の地図を手に入れたいのだ。地図さえ手に入れてしまえば安心できる。後は何があってもさっきのように簡単に道に迷うことがないはずだから。

ツーリスト・インフォメーションで念願の地図をもらって、僕は大満足でサンテティエンヌ教会へと向かった。教会は現在修復工事中で無粋な足場が組まれ、どう見てもフォトジェニックとはいえない姿を晒している。写真を撮りたい僕としてはかなり興ざめだ。だからといって文句を言ってもしかたがない。何であれ必要な修復工事なのだ。教会入口でファサードを見上げると、数え切れないほど見事な細密彫刻で装飾されている。しばし見とれて僕は感動しながら堂内に入った。まずは堂内の天井の圧倒的な高さに驚いてしまう。何とその高さは42m。教会の建物部分は1220年から1522年まで3世紀もかけて完成したという。

内陣左右の色彩鮮やかなステンドグラスが、晩秋の太陽の光を受けて艶やかな彩りを輝かせながら堂内の床を優美に華麗に染めている。まるで夢見心地になってしまう世界。僕はしばし言葉もなく堂内をゆっくり見回した。全く美し過ぎると言っていい。どこまでも聖なる空間が広がっている。サンテティエンヌ教会の自慢は、13世紀から20世紀にかけ多くの芸術家たちが作り上げてきた見事なステンドグラス群だという。確かに僕は堂内に入った瞬間から、たくさんのステンドグラスの美しさにずうっと魅入られぱなしだ。ステンドグラスの総面積はシャガールの3作品も含め、何と6,500㎡もあるというから驚いてしまう。

お目当てのシャガールのステンドグラスは、さて、どこにあるのだろうか…?ゆっくり主祭壇の方に向かって歩き始めた。すると左手の壁の方に何だかたくさんの人が集まっている場所があるのを発見。Bingo〜!きっとあそこに違いない。途端に歩みが速くなり心臓もドキドキしてくる。確かに高い壁の上には深い青を基調とし、中心部を鮮やかな赤で彩色したステンドグラスが2点あった。さらに黄色を背景に使った作品も1点ある。いずれも旧約聖書を題材にしたシャガール独特の図柄だ。お〜ぉ、これこそマルク・シャガール。やっぱり凄い。ただただ美しい…!僕は無言で見とれるだけだ。

早速デジカメでステンドグラスの写真を撮り始める。今回の旅のメインカメラであるオリンパスEPL1を、夜間モードに切り替えて数枚撮ってからチェックしてみた。だけど何だか実物とはちょっと違った色合いになってしまう。いくら何でもこれではちょっと納得できない。ということで光量を少しずつ変えながら写してみた。だけど納得できる写り具合にはどうしてもならない。実際に僕の目に映っているステンドグラスと、オリンパスEPL1の小さなモニターに映る色合いに若干の違いがある。気にしなけりゃOKなのかもしれないけど、このまま納得するのも何だか耐えられない。これがデジカメの限界なのか…?

しばらく腕を組んで考える。このままでは何とも納得できない。ということで、もう1台の使い慣れたデジカメに替えてみた。オリンパスよりもさらにコンパクトなパナソニックLUMIXLX−3だ。夜間など街を歩く時、僕は内ポケットに入れて持ち歩くことが多い散歩専用のカメラとして使用している。コンパクトなデジカメとはいえ、LUMIXのレンズは一応LEICAなのだ。レンズが変われば色合いだってきっと変わるはず。

期待しながら夜間モードに設定し、再度光量を微妙に調整しながら写してみた。そして即座にチェックする。WowBingoBingo〜!期待通り以上の色が出た。やっぱりLEICAのレンズはちょっと違うのかもしれない。さらに他のステンドグラスもLUMIXLX−3をメインに撮っていくことにする。ステンドグラスは当然だけど壁の高い位置にある。カメラを上に向けたまま写真を撮り続けていると、次第に首が痛くなり筋も攣りそうになってしまう。

僕は首の傷もに耐えながらステンドグラスを何枚も写した。当然だけど気分は上々。大満足で思わずほくそ笑んでしまう。これこそ至福の時。といってシャガールのステンドグラスを見るのは、何も今回メッスのサンテティエンヌ教会が初めてではない。何たって自慢をするわけじゃないけれど、過去に僕はドイツのマインツ、フランスのランス、スイスのチューリヒなど3つの街の大きな教会でシャガールのステンドグラスを見ているのだ。

メッスも含め4都市の教会の中で僕が最も魅了されたステンドグラスは、ドイツのライン河畔マインツにある聖シュテファン教会だ。これはハッキリ言って、格別だったと言っていいかもしれない。教会のドーム全体がシャガールの鮮烈な青で彩色され、見る者がまるで深海に引き込まれたような感じにさせられるのだ。マインツはフランクフルト国際空港空港の隣。もしもドイツを旅する人がいて時間に余裕があったら、ぜひ見に行ってほしいと願っている。

実は僕が過去に利用したフランクフルト発のANA帰国便は夕方出発が多かった。だからそれまで時間が余ってしまう。いつからだったかは覚えてないけど、帰国前日の宿泊地として大きな街が苦手な僕は、フランクフルトではなくマインツや他の街を選択することが多くなっていった。そうして帰国便が出るまでの余った時間、聖シュテファン教会に立ち寄ってゆっくり壮麗なシャガールのステンドグラスを見て満喫したのだった。

今日もシャガールのステンドグラスが見られ、僕は大満足で気分よくサンテティエンヌ教会を出た。すると何だかちょっと喉が渇いている。どこかでビールを飲みたい気分。辺りをウロウロ歩くとカフェが集まる広場に出た。すぐに空いているテラス席を見つけビールを頼む。テラス席に座ってしばらくするとジンワリと足元から寒さを感じた。初夏とはいえヨーロッパでは時々気温が急激に下がることがある。温かいコーヒーにすればよかったけどもう遅い。

しばらく我慢して座っていたけど、あまりの寒さに耐えられなくなっていた。すぐにビールを飲み干して広場から出る。ホテルへの帰りはせっかくだからさっき通らなかったルートを選択した。ツーリスト・インフォメーションでもらった地図があるから道に迷うことはない。しばらく行くとまた路面に埋め込まれた二等辺三角形のプレートを発見。こっちのプレートは人通りが少ないせいか、踏まれることも少なく燻し銀みたいな渋い色になっている。

だけどプレートの絵柄はドラゴンではなく時計塔だ。理由は分からないけど何だか面白い。路面に埋め込まれた金属プレートにはどんな意味があるのか…?何だか気になってしまう。さらにしばらく行くと薬局の壁の電光掲示板に目が釘付けになった。何と驚いたことに現在の気温が「16℃」と表示されていたのだ。もう6月も下旬だというのに信じられない低温。元々僕は寒がりだから気温に敏感過ぎるのかもしれない。

ヨーロッパの天候はまるで偏屈ジジイみたいに気難しく、時には女子高生のように気まぐれで先の予測が全くつかない。だからヨーロッパを旅する時は毎度のことながら気温に注意深くなってしまう。旅を楽しく続けるには気難しくて気まぐれな天候と仲よくしなきゃならない。何たって「天気」は「天の神様の気分次第」なのだ。僕は急に寒くなっても大丈夫なように、いつもデイパックに1枚薄手のジャンパーを入れている。

ホテル近くまで戻ってきた。すると裏通りで妙な寿司屋を発見。店名は「eat SUSHI」というから驚く。何だか妙といえば妙と言える店名にしばし苦笑してしまう。店の入口前には出前用ケースを取り付けた数台の紫色のスクーターが駐輪してある。結構デリバリーで繁盛しているのかもしれない。ちょっと気になるのでガラス越しに店内を覗いてみた。まだ開店前で人の気配が全くない。昨日は南ドイツの大学町フライブルクの和食店で、日本人の板前がちゃんと握った寿司を食べたばかり。2日続けて寿司にする…?まさか、それはないだろう。僕はニタッと軽く笑ってその場を離れた。

部屋に戻ってベッドでくつろいでいると居眠りが始まる。今日もシッカリ歩いたからだいぶ疲れているようだ。目覚めて腕時計を見ると夕食時間。ということでホテルを出ていい感じのレストラン求めて街をさまよい歩いてみた。だけど気に入った店がかなか見つからない。結局イロイロ考えたあげく僕はホテル近くまで戻って、例の妙な店名のeat SUSHIに入ることに決めた。何たって脂っこい料理やメニューが読めない店でオタオタするのも嫌だったからこれで正解だと思う。日本でも何度か入ったことのある回転寿司だから、料理も料金も大雑把に分かるしフランス語の分からない僕でも安心だ。

店に入ってフロアスタッフに手を振って合図する。僕はとりあえず空いている隅っこの方の席を選んで座った。目の前を寿司がコンベアに乗ってクルクル回転している。客は今のところ僕以外にはたった1組しかいない。客が少ない店に入ると余計なお世話かもしれないけど、僕は心の中で「何この店は大丈夫か…?」などと要らぬ心配してしまう。外があまりにも寒かったからまずは熱燗を頼む。そうして熱燗で体と心がホッコリしてきたら、目の前を回っている寿司の皿を適当に選んで食べ始める。まずは無難な巻物の皿から。思っていた以上にちゃんとした寿司で安心した。続けてマグロやイカなどの握りの皿を食べる。

落ち着いてから店内を見回した。するとフロアは若者と彼の父らしき2人で仕切っている。そうして調理場の窓からは時々厨房で働いている調理スタッフが顔を出す。だけど板前はどう見たってアジア人という顔立ちではない。たぶん中東か北アフリカのイスラム系って感じだ。これはあまり多くを期待しない方がいいかもしれない。僕は勝手にそう直感した。僕が入店して30分もしない内に店は徐々に混み始める。ひょっとしたらeat SUSHIはメッスで結構人気店なのかもしれない。

お銚子1本目は簡単に空いてしまった。すぐにもう1本追加を頼む。しばらくすると向こうの席の若い女性が割り箸を落とし、拾ってそのまま使おうとしているのが見えた。僕は自分のテーブルにある未使用の割り箸をさっと彼女に渡す。すると輝くような笑顔が返って来た。いつどこでも若い女性の笑顔はオッサンにとって最高の栄養剤だ。意味なく元気が溢れ出る。嬉しくなっていると2本目のお銚子もすぐに空いてしまう。日本酒は旨いけど料金は高い。何たって今回は37日間の長旅だから節約を忘れてはならない。僕はせっかく美味しいワイン生産国のフランスにいるのだ。ここら辺でロゼに鞍替えするのもいいだろうと考えた。

ロゼを頼んだら小瓶ではなく中瓶が出てきた。1人で中瓶はちょっとキツイ。そう思ったけど時間が経つにつれボトルの水位は気持ちよく下がっていく。適度にイロイロ食べて気分もよくなった。それから勘定をして店を出る。料金は想定内だけどやっぱり予算オーバー。明日からもっと節約しなきゃと心に誓う。歩き始めると寒さで酔いが一気に醒めた。今日は6月20日で帰国は7月1日。まだ10日以上もあるから、風邪などひかぬよう注意しなきゃ。そして翌朝はちょっと頭がズキズキしていた。恥ずかしながら久々の二日酔い。そんな状態で朝食後にホテルをチェックアウト。それから列車に乗り7カ国目のベルギーに入った。

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# by 1950-2012 | 2025-11-12 00:14 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

201812月1日と2日、BSで『大いなる鉄路16,000km走破 東京→パリ行き』という番組が放送されることが分かった。第1話は「東京>鳥取・境港>ウラジオストク>イルクーツク>モスクワ」で、昔からシベリア鉄道に興味があった僕はとりあえず録画した。実は高校時代のこと。僕より2歳上の栗原くんが学校を休学してシベリア鉄道に乗り、何とヨーロッパを目指したことがあったからだ。

栗原くんは船でロシアのナホトカまで渡り、シベリア鉄道でモスクワを経由してヨーロッパに向かった。その後アルバイトをしながらドイツなど数多くの国を旅しして最後はアメリカ経由で帰国。僕が高校3年の時に隣のクラスに突然編入されてきたのだ。旅の話だけでもすごいのに、彼は復学して数ヶ月後にヨーロッパ旅の体験を書いた『高校生世界ひとりあるき』という本まで出した。当然だけど僕たち同級生の間ではすごい話題になった。

それから半世紀ほど年月が経って還暦を迎える頃、僕は何だか急に栗原くんの旅のことが気になり始めた。そして昔ドキドキしながら読んだ『高校生世界ひとりあるき』をもう一度読み返したいと思い古本のサイトを検索してみた。すると幸運にも『高校生世界ひとりあるき』が見つかったのだ。古本のくせにちょっと値段は高かったけど、どうしても読みたかったので僕はすぐに注文した。ということで数日後『高校生世界ひとりあるき』は僕の手元に届いた。

何かと知りたい情報がすぐ手に入る21世紀の今ではない。栗原くんが日本から旅立ったのは第二次世界大戦が終わって20年ちょっと後の1960年代半ば。まだヨーロッパの人々も社会も経済も落ち着いていない頃なのだ。旅の情報だって今のように何でも簡単にすぐ手に入ったわけじゃない。それを考えると大変な旅だったと思う。だけど誰も経験していないから、栗原くんにとっては発見だらけの面白い旅になったのかもしれない。

話は変わって番組冒頭に『大いなる鉄路16,000km走破 東京→パリ行き』昭和12年の旅の広告ポスターが映し出された。ポスターには『シベリア経由 一枚ノ切符デヨーロッパヘ 日数約十四日』という漢字とカタカナまじりの広告文があった。それを見て「あの時代は東京から花の都パリまで、鉄路シベリア経由で16日もかかっていたんだ…?」と驚く。さらにポスター下部には以下の日程と都市名が記されていた。

東京・横浜(第一日)名古屋・京都・大阪・三ノ宮・神戸・下関・門司(第二日)釜

山・京城(第三日)安東・奉天・長春(第四日)哈爾賓(第五日)満州里(第六日)

チタ(第七日)イルクーツク・オムスク(第十日)モスコー(第十三日)ストルプツ

ェ・ワルソー(第十四日)ベルリン(第十五日)パリ(第十六日)

ポスターの旅程を見て何ともすごいと思った。番組は現代の東京駅のシーンから始まる。まずは寝台特急「サンライズ出雲」に乗り込み、途中で一旦列車を乗り換えて鳥取県の境港まで移動する。そして境港からはフェリーで日本海を越え、韓国経由でモスクワまでの列車が始発するウラジオストクへ向かう。簡単に飛行機でビュンとウラジオストクまでひとっ飛びしないところが大変に素晴らしいと僕は思った。

ウラジオストク駅プラットフォームのシーンには、さりげなく「9,288km」と距離が表示されたポールが建っていた。これはシベリア鉄道のウラジオストク〜モスクワ間の全長距離。ハッキリ言ってとてつもない。全く呆然としてしまう膨大な距離だ。僕はいつもヨーロッパ直行便に乗るから、シベリアの延々と続く大地を上空から見たことは何度もある。だけど残念ながら地上からシベリアを見たことは過去に1度もない。

飛行機から見下ろしたシベリアの大地は、全く茫漠とした風景ですぐに見飽きてしまうほど何もなかった。強烈に印象に残っているのは、延々とどこまでも広がっている針葉樹林の森。そしてまるで血管のように縦横に這い巡る大小の河川。さらに無機的に大地に直線を描く道路や高圧線だけ。特に真冬の季節に上空から凍てついた極寒のシベリアの大地を見ると、僕はいつだって「絶対に不時着なんかしないでくれよ…!」と心の底で密かに祈るだけだ。

シベリア鉄道の始発地ウラジオストクから終着地のモスクワまで、カメラはシベリア鉄道のロシア号に乗り全長9,288kmを約7日間かけて走破する。それでも昭和12年頃に比べたらはるかに短い日数だ。日本からヨーロッパ主要都市へは、シベリア経由の空路だと都市にもよるけれど大体1213時間。シベリア鉄道に乗ってヨーロッパに行くのは楽しいかもしれないけど、想像以上に長い時間がかかる。たぶん飽きっぽい僕には無理かもしれない。

話は変わって江戸時代の寛政元年。ロシアのオホーツク沿岸からシベリアを横断して、当時の都サンクト・ペテルブルグまで旅をした日本人がいる。それはロシアに漂着して帰国した最初の日本人である大黒屋光太夫だ。鉄道もなかった不便な時代、彼らは馬と徒歩だけでこの過酷な大自然の中を踏破し女王エカテリーナ2世に謁見した。大黒屋光太夫から見たら、現代の空調の整った約7日間のシベリアの旅は快適以上の何ものでもないだろう。

話はまたまた変わって、僕の旅の鉃道走破距離の記録について。今までヨーロッパ鉄道の旅は全部で25回。その全鉃道走破距離をトーマス・クックの『時刻表』で調べ計算してみた。鉄道に乗らなかった回も何度かあったけど、おおざっぱに計算して僕は64,000 km以上を列車で走破している。その中で最も鉄道に乗った距離が多かったのは2010年初夏の旅。何と37日間で6,161km。シベリア鉄道ラジオストク〜モスクワ間の9,288km3,000kmちょっと足りないけど、これが僕の1回の旅での最長距離なのだ。

2010年はスイスのチューリヒ国際空港に降り、列車で近隣の街ヴィンタートゥーアに移動して1泊することから旅が始まった。その後はライン河上流の街シュタイン・アム・ラインからドイツのボーデン湖版の街リンダウへ。そしてリヒテンシュタインの首都ファドゥ−ツで1泊した後、オーストリアのインスブルックでも1泊。それから世界遺産のハルシュタットの隣街オーバートラウンで2連泊。さらにドナウ河畔のリンツで1泊してチェコ国境を目指した。

チェコに入国後まずチェスケー・ブディヨヴィツェに2連泊し、世界遺産のチェスキー・クルムロフに日帰りもした。その後は首都プラハに3連泊。その後ドイツに入国してドナウ河畔の帝国都市レーゲンスブルク、音楽家ワーグナーゆかりのバイロイト、宗教改革の街ヴィッテンベルク、日本の終戦に縁のあるポツダム、フォルクスワーゲン本社のあるヴォルフスブルク、大学町マールブルク、ハイルブロン、シュヴェービッシュ・ハル、フライブルクと巡って、1日だけマルク・シャガールのステンドグラスを見るためフランンスに入国してメッスに1泊。なんとも忙しい旅だった。

それからベルギーに入って、ナミュール、ルーヴェン、首都ブリュッセル、メッヘレン、アニメ『フランダースの犬』で有名なアントワープ2連泊後にオランダ入国。オランダでは画家フェルメールの故郷デルフトに1泊、そしてシーボルトゆかりの大学町ライデン3連泊。その後アムステルダムのスキポール国際空港から、再びチューリヒ国際空港に戻って日本に帰国したのだ。37日間で6,161km走破。とはいえ、やっぱりシベリア鉄道の7日間で9,288kmを考えると大きな顔はできない。列車に乗るのは基本的に好きだけど、やっぱり7日間も列車に缶詰されるのはあまりにも耐え難い。3日ぐらいだったらチャレンジしてもいいけど…。



# by 1950-2012 | 2025-11-10 00:20 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)