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1990年から旅したヨーロッパのイロイロな街を、写真と文章で紹介していきたいと思います。


by KaZoo

バークレー滞在2日目。朝方5時頃やっと眠くなってきた。いい感じで熟睡していると、8時頃に突然ドアをノックする音がした。サービス係のオバさんだ。せっかくイイ感じで眠りについていたのに、全く小さな親切・大きなお世話。おかげで僕はそれ以上眠れなくなった。中途半端だ。昨日チェック・イン時、フロントの男が朝食はフロント脇のテーブルに用意してあって、各自自分で取りにいってそれぞれの部屋で食べるようにと言っていた。

何となく朝飯って気分でもない。まずはミネラル・ウォーターを飲んで気分をシャキッとさせる。さすがに朝はちょっと冷える。昨晩エアコンのヒーターを入れておいて正解だったようだ。シャワーを浴びた後、備え付けのコーヒー・マシンでコーヒーを入れる。インスタントっぽいから芳醇とは言えないけど、ないよりはマシ。コーヒーの香りが、ボケ〜ッとした頭をスッキリさせてくれるのがちょっと嬉しい。

2日目の今日はジックリ大学構内キャンパスを歩こうと考えている。1975年当時も歩いたけど、ほとんどは忘れている。その後は学生会館の購買部で、Tシャツなど自分用のお土産を何点か買う予定。それが済めば、昨日は混んでいたTelegraph Ave.の韓国料理店で「♪真っ赤に燃えた〜♫」(美空ひばりの『真っ赤な太陽』のメロで)キムチなどで、美味しい昼飯を食べようと密かに企んでいる。

11時ちょっと前にホテルを出た。昨日は曇り空だったけれど、今日は撮影日和ピーカンの天晴パレな超・快晴。それだけでも気分は断然違う。トラべロッジを出て、道路工事で相変わらず渋滞が続くUniversity Ave.を大学へ向かってさかのぼる。朝っぱらというほどの時間ではないけど、所々道ばたにホームレスが寝そべっているのがちょっと気になる。1975年当時はホームレスなど見かけた記憶がない。良くも悪くも、日本も・アメリカも・世界も・変容し続けているのだ。

大学西側の正面入り口Springer Gatewayからキャンパスに入る。5月後半、昨日もそうだったけど卒業生の姿が今日もやたら目につく。なぜかアジア人系の卒業生が多いような気がした。とりあえずキャンパスをウロウロ歩き回って、東側丘の上にある大きなスタジアムCalifornia Memorial Stadiumまで行こうと考えた。Springer Gatewayのある西側から、奥まったCalifornia Memorial Stadiumまではダラダラ続く坂道。そんなに緩やかでもない。

青々と繁るたくさんの木々と、緑フカフカなだだっ広い芝生。このノンビリとした平和な風景は変らない。まさに僕の記憶にあるバークレーだ。中には寝転んでいる学生もいる。いや待て、こんな時間から寝転んでいるのは、学生じゃなくてホームレスかもしれない…?まぁ、何であれ「Peaceful Feelin‘」のどかでイイんじゃない。

道は緩やかだけど、徐々に勾配がキツくなっていく。学生たちは若いから、こんな坂道など何でもないだろう。だけどオッサンにとってはちょっと辛い。キャンパスにいるのは学生だけではない。年齢を重ねた教授とかスタッフだっている。そんな足腰に自信のない人のために、キャンパス内を巡る「Bear Transit」というバス・サービスが使えるとガイドブックには書いてある。

確かにSpringer Gatewayからしばらく行った場所に、Bear Transitのバスが駐まる停留所があった。バスは学生や職員は無料。だけど、大学関係者以外は有料で$1〜$1.50取られる。僕は歩き始めたばかり。まだ元気に満ち溢れている。バスに乗るほど疲れてもいない。ということで汗をかきながらも、ひたすらスタジアムに向かって歩き続けた。

キャンパスを歩いていると、所々で鉛筆のように尖った建造物が目に入る。あれはセイザー・タワーSather Tower(別名カンパニーレ)。北イタリア「水の都」ヴェネツィアの、サン・マルコ広場に建つ鐘楼をモデルに1914年建てられたという。以前ヴェネツィアには2度ほど訪れている。言われてみれば確かに、サン・マルコ広場に建っていた鐘楼に似ている。タワー最上階からベイ・エリアが眺められるというけど、僕は少々高所恐怖症なところがあるから興味はない。

California Memorial Stadiumまで登ってきた。さすがに息は切れる。Tシャツは汗ばんでいる。でも、気持ちはスゴくいい。さて、この後どうするか…?学生会館の購買部はTelegraph Ave.側で、東側の正門セイザー・ゲートSather Gateの近く。腕時計を見ると12時ちょっと過ぎ。朝飯は食べてないから腹も減ってきた。今日のランチは韓国料理と決めている。頭の中はほとんどキムチ色で真っ赤っ赤になっている。

まずは学生会館の購買部でショッピング。今度は下り坂でちょっと楽。ダラダラと歩き始める。木々を抜けて吹いてくる風が、汗ばんだ体に心地いい。ふっと足下を見る。Wow〜!何と、カラフルな熊の足跡が歩道にプリントされている…!そんな遊び心に思わずニンマリ。全く嬉しくなっちゃう、イイね・イイね…!

そういえば似たような足跡、僕はドイツ北部のメルヘン街道ハーメルンでも見ている。ハーメルンのは足跡ではなく、笛吹き男についていったネズミたち。観光コースの歩道に、白色でクッキリネズミの姿が延々と描かれていた。一方こっちはUCバークレーのマスコット熊の足跡。そういえば、さっきスタジアムのそばに大きな熊の像が建っていたっけ…!

セイザー・ゲートまで下りてきた。門のでは卒業衣装を着た学生とその家族たちが、昨日同様に記念写真を撮っている。これがなかなか終わらない。僕としてはなるべくなら、アジア系の卒業生と家族を写真に収めたくないから、彼らの撮影が終わるのを待つしかない。それにしても中国人やインド人、アラブ系の学生が意外と多いので驚く。

ということで、帰国後調べてみて分かった。UCバークレーの学生の大多数がアジア系か白人で、黒人やラテン系(中南米系)の学生は極端に少ないのだそうだ。特にアジア系の学生数は年々増加しているという。はたして、その中に日本の留学生たちは、どのくらいいるのだろうか…?興味あるところではある。

バークレーは地理的にシリコン・バレーにも近く位置し、IT系やコンピューター分野でも多数の大企業から出資を受け研究&開発を行っている。化学に関する研究は世界的に知られ、100人以上のノーベル賞受賞者を輩出。周期表元素の中でも原子番号97番の「バークリウム」及び98番の「カリホルニウム」の名称は大学名に由来するという。

ちなみに第2次世界大戦当時、物理学部教授だったロバート・オッペンハイマーやノーベル化学賞受賞者のグレン・シーボーグを筆頭に、UCバークレーの多くの学者が原子爆弾開発計画である「マンハッタン計画」に携わったそうだ。

セイザー・ゲートで写真を撮っていると、僕の足下を昨日も見た物体が現れた。ノロノロとしたスピードで、チョロチョロとどこかに向かっている。物体は60cm×40cm×40cm位の箱形。ラジコン・カーの4WD車で使用されているような頑丈なタイヤを装着。そして、ユラユラ揺れる長いアンテナとオレンジ色のフラッグをはためかせている。

周囲を見回しても、操作している人間の姿は見えない。自動操作で動いているのだ。対岸のサン・フランシスコでは、地上走行型のドローンを使い、お腹を空かせた人々に料理を配送するサービスがあるという。きっと似たようなものだろう。自走するBOX型のフード宅配自動ロボットか。さすが先進的な大学町バークレー。旅人をこんな先進技術で驚かすとは…!

学生会館内のグッズ・ショップに入った。まずは紺地に黄色で熊のシルエットが入ったTシャツ($19.99)を1枚。続けてグレーのアンダー・アーマー製のヨット・パーカー($64.99)。これが思ったよりも高かった。値札をよく見て買えばよかったけれど、いつもの悪い癖が出て勢いで買ってしまう。さらにシンプルなブルーのベースボール・キャップ($25.00)。それぞれ1つずつ購入して大満足。

何となくもう少し買いたい気もしたけど、キリがないので店を出る。デイパックに今買ったものを詰めるとパンパンになった。支払いは今回の旅用に持ってきた、スルガ銀行発行のVISAデビット・カード。口座には20万円ぐらいしか入ってないから、仮に盗難やスキミングにあっても被害は少なくて済む。いつも使っているANAVISAカードは使用を極力控えることにした。

Telegraph Ave.を下る。もう頭の中は昼飯でいっぱい。ほとんど真っ赤っ赤のキムチ色になっている。朝飯抜きだから完璧に腹減り。Dwight Wayとの交差点までやって来た。目指す韓国料理店は、2ブロック先の右手建物内。口の中では唾液の分泌が「パブロフの犬」のようにドバドバと始まっている。店の前に立つ。あらら、閉まっている…?Wow〜!水曜日は定休だなんて、ざけんなょ〜!と怒ってもしようがない。頭の中が真っ赤っ赤から、どんどん褪色して白色に変わっていく。母は「白ける」とはまさにこのことだ。

さて、困った。昼飯に何を食べようか…?そういえばShattuck Ave.University Ave.が交差する辺りに、たしか博多ラーメンの「一風堂」があったはず。よしっ、昼飯はラーメンだ。ということで元気を取り戻しDwight Wayを歩き始める。道の両側には雰囲気のいい家々が建ち並ぶ。1975年当時もきっと家は並んでいたと思うけど、僕の記憶には家のことなどこれっぽっちも残ってない。僕は気に入った家を見つけると、写真を撮りながらゆっくり歩いた。

Shattuck Ave.に出て、右に曲がってしばらく行くと「NIKKO」という寿司屋があった。熱燗1本と軽く寿司って昼飯もいいな…!突然頭の中はラーメンから寿司屋に変わってしまう。急遽宗旨替えして寿司屋のドアを開ける。真っ昼間から熱燗。これがイイんだなぁ…!店は最近開店したようで、なぜかHot Sakeがサービスで$1と割安になっていた。

席について注文すると、すぐに味噌汁が出た。ワカメがちょろっと少しだけの淋しい味噌汁だけど、やっぱり日本人。味噌の香りを嗅ぐとホッと心が落ち着く。マグロの握りといなり寿司を頼んで何となくお腹も満足。で、料金は$10.93。こういう時は小食だから割安で金もかからない。店は見た目に中国人経営って感じ。と言って、それが悪いというわけではない。

Shattuck Ave.をしばらく行くと、BARTDowntown Berkeley駅。昼間ってこともあるのだろうけど、駅の周囲はたくさんの人が集まっていた。昨日はすぐにホテル探しを始めたから、駅内をジックリ見てなかった。明後日またサン・フランシスコへ行く時にBARTに乗るから、ゆっくり駅構内の様子を見ておこうと考えた。

北ドイツ、ハーメルンの話は、以下のブログからご覧ください。

095「ドイツでは“笛吹き男”じゃなく“ネズミ男”と言う…!」

https://kazoo66.exblog.jp/25656012/

247「笛吹き男の街に、雰囲気のいい木骨造りの家並みがあった…!」

https://kazoo66.exblog.jp/27898115/


# by 1950-2012 | 2019-07-14 09:26 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

1975年当時、BART(サン・フランシスコ湾岸を走る地下鉄)の「Downtown Berkeley」駅近くに、キーストーンKeystoneという名のLIVEハウスがあった。確かこの辺りだったかな…?と思う場所に行ってみたけど、予想通り「跡形も名残も」全く残ってなかった。誰かに聞けばよかったのかもしれないけど、聞いたからって「消滅」を再確認するだけのこと。虚しいことはしない方がいい。

考えてみれば、あれからもう44年も経っている。消えてしまって当然だ。そういう僕だって、淋しいかな、だんだん「跡形も名残も」(=頭髪に限って言えば)昔の面影などこれっぽっちも残ってない。遅かれ早かれ頭髪だけでなく心も体も存在も、跡形&名残も残さず、この世とあっさり「Tschüss!」(=サラバ)する運命にある。

キーストーンではグレートフル・デッドのジェリー・ガルシアがよく演奏していた。当時の新聞の広告欄で、僕も何度かガルシアの名前を見ている。僕がバークレーにやって来る1年前の1974年9月1日。キーストーンでジェリー・ガルシアのライブ録音があり、それがCD化され名盤としてファンの間で有名になっている。簡単に手に入るものなら一度聞いてみたいと思う。

僕がキーストーンで見たライブは、ホーン・セクションが特徴のファンク・バンド「タワー・オブ・パワー」だった。タワー・オブ・パワーは隣町オークランドで結成され、1970年にレコード・デビュー。バリトン・サックスをフィーチャーしたノリノリの曲に、僕は思い切りブッ飛んでノメリ込んだ。1980年代タワー・オブ・パワーは、サン・フランシスコ出身のヒューイ・ルイス&ニュースのホーン・セクションとしても活躍したというから、僕は知らずにそっちでも彼らを聞いていたかもしれない。

昼飯も無事に食い終わった。ちょっと歩き疲れてもいる。ということで一旦ホテルに戻ろうと考えた。ふとUniversity Ave.の先に手作りビールが飲めるブリューワリーがあると、ホテルに置いてあったガイドブックに載っていたのを思い出す。店の名前は「Triple Rock Brewery」。ドイツを旅してビールをタップリ飲んできた僕としては、これを逃すわけにはいかないと考えた。

Triple Rock Brewery1986年にバークレーのダウンタウンに誕生。アメリカ最古のブリュー・パブだというのでちょっと気になる。僕はドイツを旅している時、店内にビール醸造設備のある店を見つけると必ず入って1杯飲むことにしていた。さてさて、バークレーの手作りビールはどんな味だろう…?期待で生唾が出てしまう。

ドアを開ける。店内は思ったよりも広い。昼時だけど結構客は入っていた。早速カウンターに行って注文。イロイロ種類があるようでちょっと悩む。軽めのビールがいいと言うと、ピルスナー・タイプを奨められた。ピルスナーはドイツで何度も飲んでいる。アルコール度数の強いヤツは、昼間からだとちょっとキツいからピルスナー辺りがちょうどイイだろう。

この店が誕生した頃、住民はビール工場が近所にできることに反対だった。バークレー市当局も、工場地帯にブリュー・パブを作ることを勧めたのだそうだ。しかし、手軽に地ビールを楽しめる場所にこだわったオーナー兄弟は、何度にもわたって住民を説得し、ダウンタウンでのブリュー・パブ開業の許可を得たという。すばらしい、めでたし・めでたし…!

Triple Rock Breweryでは、ビールの種類だけでなく、食事メニューも充実しているから、平日の昼間から立ち寄って軽くビール&ランチをしていく人も多いそうだ。僕も席に着いてゆっくりビールを飲む。と、その前に写真を撮っておくのを忘れそうになった。ドイツではいつも飲む前に写真を撮るのが習慣だった。だから家にはやたらと、ビールの写真が溜まっている。

僕が座った席から、ヘッド・ブリューワーがビールを仕込んでいる様子がガラス越しに見える。テレビではメジャー・リーグ中継の真最中だった。サンディゴ・パドレス対アリゾナ・ダイヤモンドバックス戦。アリゾナの投手は日本の平野。中継ぎで1回を無得点に抑える。いいぞ、平野〜!頑張れ、平野〜!メリケンなんかに負けるな、平野〜!グビグビッ、プファ〜ッ、くぅぅぅ〜、ウマいっ、ウマいぞ、平野〜!

店を出て宿泊先トラベロッジに向かう。Martin Luther King Jr. Wayの向こうにガソリン・スタンドがある。クルマで旅してるわけじゃないから、ガソリン・スタンドに用事があるわけじゃない。ガソリン・スタンド敷地内に、小さなコンビニのような店があるのに気づいた。これは便利。早速覗いてみる。まずはミネラル・ウォーターを買う。さらに旅先で野菜不足が心配だから、濃縮タイプの野菜ジュースV8も買う。

トラベロッジに戻り、夕食まで部屋でウダウダしようと考えた。まだ2日目だというのに、数年前に較べすぐに歩き疲れてしまう。この前に旅したのは6年前2013年初夏。あの時はドイツとデンマークとスウェーデンを、レイルパスを持って3週間かけて歩き回った。今回の旅が、もしアメリカでなくヨーロッパだったら、僕は1週間と言わず3週間近くレイルパスを持ってヨーロッパの街々を流離っていただろう。鉄道が便利に使えないアメリカは僕向きではない。

テレビをつけた。チョコマカとチャンネルを変える。なぜか女子大のソフト・ボール中継をやっている。アメリカでは女子ソフト・ボールの人気が高いようだ。冷蔵庫から馬鹿でかい、昨日セブンイレブンで買ったバドワイザーの缶入りを取り出し、ウダウダ飲みながら女子ソフト・ボール観戦をする。しばらくするとウトウトお昼寝タイム。前夜から早朝にかけて眠れなかったせいか、さすがに短い時間だったけどグッスリ爆睡できた。

さて、夕食時間。酒を軽く飲んで、ちょいと腹がふくれるくらい食べたい。などと考え、イソイソとホテルを出る。6時を過ぎていたけど、まだまだ明るく日は落ちない。だからといって薄着で外に出ると、日が落ちたら急激に気温が下がり一発で風邪をひいてしまう。そういう意味で、ノース・フェィスのゴア・テックス製黒ジャケットはもしかしたら大正解かもしれない。

僕がこのジャケットを気に入っている点は、機能性だけでなくインナーの左内ポケットにある。この内ポケットが、首から下げたコンデジ(ルミックスLX-3)を入れるのにちょうどいいサイズなのだ。写真を撮りたい時サッとカメラを出せ、辺りに妙なヤツがいる時など即座にスポッと内ポケットにカメラが収納できる。今回はアメリカということで、夜は極力出歩かないことに決めた。結構臆病なのだ。ヨーロッパだったら、もっと楽しく夕景&夜景を撮るのに。

さて、どこへ行くか…?実は昼間Telegraph Ave.からShattuck Ave.に出る時、途中のDwight Wayで和食店を1軒見つけてある。店の名は「武蔵」。ちょっと気恥ずかしいネーミングだけど、通りから見た感じは悪くなかった。そんなに近くはないけど、旅に出たら歩くしかない。いつもの通りだ。そして旅の後半、僕の足はパンパンに張って筋肉痛になる。そのために、今回もちゃんと湿布剤を持ってきている。

店に入った。1人だから空いているカウンター席の隅っこを選ぶ。応対してくれた女性が、きちんとした日本語を話してくれたので、それだけでもちょっと安心する。ヨーロッパの和食店でもそうだけど、まずは日本酒の熱燗を頼む。僕は日本人に多い、何でもかんでも「とりあえずビール!」という考え方の人間ではない。のっけから、日本酒の熱燗や芋焼酎のお湯割りやウィスキーの水割りで始めるタイプなのだ。

熱燗が届く前に品書きに目を通す。思ったよりもイロイロあるので嬉しくなる。さて、何を食べるか…?そういえば日本を発ってから酸っぱいものを食べてない。ということでキューリの酢の物。動物性タンパク質も取っておきたい。ということで牛肉の串焼き。サッパリ系もイイな。ならばと冷や奴。後は、う〜ん、茶碗蒸しもいいかな…?まずは、そんなところから始める。

店はほどほど混んでいた。客の傾向としては、見た目は日本人のようだけど、話している言葉は日本語ではない。たぶん日系人とか韓国系中国系のアジア人だろう。カウンターの中には、日本人のような顔をした板前が2人。話しかけてこないので、こっちからも話しかけない。実は日本人のように見えて、外国ではそうじゃないってことが多々ある。

僕は本来おしゃべりではない。他人と話をするのは嫌いではない。でも、話が噛み合ないと辛くなるので、なるべくこちらからは話しかけないようにしている。そんな性格だから海外に出ると、日本語はもちろん、必要な時以外は他人と全く会話しないで数日過ごすってこともある。だからと言って、見ず知らずの人と話すのは決して苦手ではない。

適度な和食で偏屈な胃袋を満足させて店を出た。そこそこに食べて$39.60。チップを含めて$45払う。まだ日は完全に落ちてない。気温はホテルを出た時より確実に下がっている。ほろ酔い気分の頬に当たる風が気持ちいい。Shattuck Ave.を渡る。所々にホームレスが寝そべっていたりするから気は抜けない。

しばらく歩くと「STARVING MUSICIAN」という名の楽器店があった。何と「腹ぺこミュージシャン」とは面白いネーミング。音楽に飢えているミュージシャン御用達の店ってわけか…!店内にはたくさんエレキ・ギターが飾ってあった。と言って、僕が演奏できるのはドラムだけ。しかもそんなに上手ではない。弾けはしないのに、どういうわけかエレキ・ギターが気になった。

聞いてみるとそろそろ閉店時間。でも、入ってイイよと言われる。酔っていたからかもしれない。図々しく入店してしまう。奥にドラム・セットもあった。そのそばにスティックがたくさん置いてある。家にスティックはすでに20本以上ある。今、必要か必要でないかと言ったら、決して必要とは言えない。でも、気になる。

イロイロある中から「VATER POWER 5B HAND SELECTED HICKORY Made in U.S.A.」というのが、何となく指にシックリきた。値段は$8.99。リーズナブルな価格。よしっ、これだ、買っていこう…!我が青春の思い出の地バークレーでスティックを買うなんて、何か愉しいではないか…!などと、ほくそ笑む。なんともチープな幸せ。

部屋に戻って、薄めのウィスキー&ウォーターをチビチビやりながらくつろぐ。その内と思っていたけど、この夜も全然睡魔が襲ってこない。気づくと3時を回っていた。チャンネルを回していると、カルロス・サンタナが映し出された。Wow、サンタナのLIVEだ〜!過去に何度も聴いた曲が、ドデカいTVモニターで見られるなんてツイている。早速ヴォリュームをちょっと上げる。

確かサンタナはサン・フランシスコ出身のグループ。ギタリストのカルロス・サンタナ(Carlos Santana)を中心として、1966年、サン・フランシスコで結成された「サンタナ・ブルース・バンド」が前身。その後「サンタナ」と改名。1969年にコロムビア・レコードと契約、そして同時期ニューヨーク州のウッドストックで開催されたロック・フェスティバルに出演。

映画『ウッドストック』で初めてサンタナを見た時、ハッキリ言って僕は超・ビックリした。それまで見たことも聞いたこともない演奏だった。僕は体の奥底からズンズンズキズキと強烈に揺さぶれた。彼らの熱いラテン・ロックのリズムはスゴかった。映画『ウッドストック』で僕が他にブチのめされたグループは、ジミ・ヘンドリクスとスライ&ファミリー・ストーンぐらいだ。

カルロス・サンタナにはJorgeホルヘという実弟がいて、彼もギタリストで、同じく気合いの入ったラテン・ロックの「Malo」というグループを結成していた。僕はMaloの方も好きだった。その後、ホルヘ・サンタナはソロ・アルバムを出す。ピンクの女性水着のボトムをアップしたジャケットはSEXYで、曲も軽快でノリがよく結構気に入っていたアルバムの1枚だ。

サンタナの演奏を聴いている内に、眠気はどこかへ行ってしまった。大丈夫。しばらくすれば、上の瞼と下の瞼がこっそりランデブーするはず。ウィスキーの水割りを薄めに、もう1杯作ってグビリと飲んだ。くぅぅぅ〜、イイねっ…!僕はこういう自堕落な過ごし方を、ここのところマジ忘れていたような気がする。ちょいとそこのオッサンたち、こいつはFuck’nRoll〜!だゼェ。



# by 1950-2012 | 2019-07-10 09:24 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

カリフォルニアの大学町バークレーにはノース・フェィスの本社がある。もちろん僕は以前からそのことを知っていた。確か僕が初めて訪れた1975年頃、街のどこかでノース・フェィスのロゴ・マークを見たような記憶があるのだ。今回の旅に、僕はノース・フェィスのゴアテックス製黒のジャケット、インナーに着る黒のベスト、さらに黒のデイパック、ノース・フェィス愛用3点セットを持ってきたのだ。

ノース・フェィスのゴアテックス製ジャケットは、僕が記憶している限りでは、2004年春デンマークとスウェーデンを旅していた時に着ていた。ということは、その前に買っているだろうから15年以上になる。僕は物持ちがいい方なのだ。今回の旅は5月下旬。季節的にゴアテックスのジャケットではちょっと暑過ぎるなと思ったけど、僕は敢えてこのジャケットを着ていくことにした。

理由は旅立ち数週間前から調べていたサン・フランシスコの気温と天候。サン・フランシスコは太平洋に面して、霧が出やすく気温も高くない。最高気温も時に20℃を割ることがあり、朝夕の最低気温は10℃近くにまで低くなる日もある。それを知っていたから、用心のためにゴアテックス製ジャケットが重宝すると考えたのだ。

さらに旅立ち当日、自宅のある横浜方面はメチャクチャな悪天候で傘もさせないほどの土砂降りだった。飛行機に乗る前に、雨に濡れて風邪をひくわけにはいかない。という理由でゴアテックス製ジャケット着用を決意。最初はもっと軽めのジャンパーにしようと考えていたのだけど、ゴアテックス製ジャケット結果オーライだった。

インナー用ベストは何年も前に旅のために買ったものだ。財布やパスポートやレイルパスなど、すぐに取り出す必要のある貴重品を身につけておくためだ。これはいつ買ったか記憶が定かではないけど、たぶん2000年春のフランス、ベルギー、オランダ、ドイツを3週間かけて旅した時よりも前だったと思う。

デイパックもいつ頃買ったか記憶が定かではない。旅に使い出したのは、2000年春オランダのアムステルダムに向かう列車で、貴重品の入ったショルダーバッグを盗まれた次の旅からだ。実はこのデイパックには愉快な思い出がある。それは2005年秋、ドイツ西部の古都アーヘンから南部の大都市ミュンヘンに向かう時のことだ。

僕はケルン中央駅で、ミュンヘン行きICE(インターシティ・エクスプレス)に乗り換えるためプラットフォームを急いでいた。ミュンヘン行きはケルンに9時46分到着で9時54分発車。乗り換えにあまり時間がなかった。僕はプラットフォームを、重たいリュックを引きずりながら急いで歩いた。グズグズしてると乗り損なう。早めにミュンヘン行きが来るホームに行って、どの辺に1等車が停車するかも確認したい。その時、突然背中の方から声がかかった。

「あの〜、日本人ですか…?」

若い女性が、片言の日本語で僕を突然呼び止めたのだ。外国で外国人に日本語で話しかけられたら、僕は絶対に身構える。スリや置き引きや詐欺師など、こっちを油断させようとする悪いヤツらが多いからだ。僕は振り返らなかった。前を向いて先を急いだ。振り返ると相手の罠にまんまと落ちる。外国では呼び止められても、知らんぷりしてる方が賢明なのだ。

「あの〜、すいません、セキさんですよね…?」

名前を言われたので急に立ち止まった。えっ、どうして…?なぜ僕の名前を知っているのだ…?振り返って女性の顔を見た。一瞬、誰だか思い出せなかった。でも、見たことがあった。

「アンディです。ジョアンのクラブで働いていたアンディです。覚えてません…?」

「え〜っ、あぁ、アンディか…!」

思い出した。赤坂の乃木坂通りに、昔よく行っていた外国人女性のいるバーがあった。ママがカナダ人で名前がジョアン。アンディは日本滞在が長く、日本語もかなり上手で小柄なフランス人女性。笑顔が可愛かった。確かパリに兄弟がいて、休暇を取るとよくパリに帰っていた。もしもパリでアンディに出会ったら、僕は驚かなかっただろう。そしてアンディだとすぐに分かったと思う。でも、そこはドイツ、ケルン中央駅だ。

「僕は今朝までアーヘンにいて、これからミュンヘンに行くんだ」

「あ、私もアーヘンに住んでいるの。これから私は仕事。今、ケルンのベルリッツで働いているの」

「へぇ〜!あっ、ごめん、これからミュンヘン行きに乗らならないといけないんだ。ちょっと急いでいるんだ。時間がないからごめん。またどこが出会おう、じゃぁね…!」

確かに時間はなかった。もう少しアンディと話をしたかったけど、しかたがない。列車に乗り遅れるわけにはいかない。でも、やっぱり信じられない。こんな場所で偶然彼女に出会うなんて。全く世の中はドラマチック。

しかし、地図を見れば納得できる。アーヘンはドイツで最も西にある。ベルギーとオランダ両国の国境に近い。アーヘンから近いベルギーはフランス語圏。国際列車もパリからブリュッセル、そしてワロンの中心都市リエージュを経てアーヘン、ケルンへと走っている。

アンディがパリから来てアーヘンに住み、ケルンで仕事を見つけたとしても何の不思議はない。彼女は母国語のフランス語と英語、さらにドイツ語と日本語が話せる。もしかしたらスペイン語とイタリア語も話せるかもしれない。でも、まさかケルン中央駅のプラットフォームで呼び止められるとは…?全く、ははは、度肝を抜かれた。

ミュンヘン行き列車に乗って、デイパックを隣席に置いて一息入れた。あらら、ははは、何と愚かな…!僕は白のマジックインキで、デイパックに大きく「Seki」って書いていたのだ。だから、アンディは「もしかして…?」と思って呼び止めたのだろう。でも、彼女も驚いただろうな。まさかケルンで僕と出遭うなんて思いもしなかっただろう。そんなことがあって、帰国後、僕は黒のマジックインキでデイパックの「Seki」って文字を塗り潰した。

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話は変わって、帰国後調べて分かったことがある。バークレーはノース・フェィス誕生の地ではなかった。ノース・フェィスが誕生したのは1966年で、ベイ・エリア対岸のサン・フランシスコだった。山岳で登山が難しい北側の壁面のことを指す「North Face」が社名の由来。独特のロゴはヨセミテ国立公園のハーフドーム北壁をモチーフにしたという。

1966年ストア・オープニングの日に、サン・フランシスコを代表するグループであるグレートフル・デッド(Grateful Dead)のジェリーガルシアとボブ・ウェアが演奏したという。スゴい、実にスゴい…!ってまぁ、グレートフル・デッドを知らない人にはどうでもイイ話かもしれない。

その後ノース・フェィスは、製造拠点とオフィスをサン・フランシスコから、ベイ・エリア対岸の大学町バークレーのTelegraph Ave.に移す。さらに1969年、Telegraph Ave.から同じバークレーの湾岸に近いFifth St.に移転。現在同じ通りの1238番地には、ノース・フェィスのアウトレット・ショップがあるとガイドブックには載っている。

Fifth St.に移転した当時、ショップの隣ではRockバンドがけたたましい音をがなり立てながら練習をしていたそうだ。そのバンドこそが、僕の大好きなクリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(Creedence Clearwater Revival略称:CCR)だったという。本当かね…?思わず興奮。もしも本当だったら、スゲェ〜なぁ〜!

クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルは、特徴あるディープなサウンドから、サザン・ロックのプロトタイプ、スワンプ・ロックの元祖的存在と思われていた。でも本当は南部出身ではなく、都会的でお洒落なベイ・エリア出身だったのだ。

僕が好きな彼らの曲と言えば、例えば「Proud Mary」「I Put A Spell On You」「Suzie Q」「Bad Moon Rising」「Down On The Corner」「Travelin' Band」「Have You Ever Seen The Rain」などなど。できれば自分のバンドでやってみたい曲がたくさんある。彼らの曲はストレートで、ドラムとしても小技が必要なくて叩きやすいのだ。

と言ってもドラム担当の僕は、リズムをキープするだけで精一杯だから歌ったりはできない。歌ったりしたらすぐにリズムが乱れてしまう。ということで歌えないストレスは、カラオケ店に行った時などに晴らすようにしている。でも、カラオケ店はあまり好きじゃないから、ストレスはグジュグジュと溜りに溜まる一方である。

ちなみに僕の得意曲は、エリック・バードン&ジ・アニマルズの『BOOM BOOM』だ。これは元ザ・スパイダースの釜萢さん(ムッシュかまやつ)もよく歌っていたから知っている人も多いだろう。元歌はブルース・シンガーのジョン・リー・フッカー。ちなみ釜萢さんは、僕と同じ青山学院大学中退で血液型はB型らしい。どうでもいいことだけど、ムッシュとの共通点が2つもあって何かとってもホノボノ嬉しい。



# by 1950-2012 | 2019-07-06 06:15 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

ホテルにチェック・イン後、デイパックを担いでホテルを出た。大学へ向かうUniversity Ave.は何だかやたら混んでいた。あちこちで工事をしているからだ。横断歩道を渡る時、歩行者用信号がちょっと複雑で躊躇してしまう。赤から青に変わって白色の歩行者サインが現れるのはいいのだけど、しばらくするとすぐにカウント・ダウン表示に変わってしまう。これが分かりにくいのだ。

信号にはパネルが貼ってあり、歩行に関することが表示されている。1番上の段は横断OKを意味する白い歩行者マーク。その下に「START CROSSING Watch For Vehicles」の文字。2段目が歩行を注意する真っ赤な手のサインがあり、さらに「FLASHING」と「DON’T START Finish Crossing If Started」の文字。3段目は「STEADY」と書かれ、歩行停止を指示する真っ赤な手のサインと「DON’T CROSS」。そして4段目には「PUSH BUTTON→TO CROSS」の文字。

何となくは分かるのだけど、青信号でカウント・ダウンされるのが気になって横断しにくい。とりあえず周りの人間の行動を見て真似るのが賢明と考え、僕は注意深く観察しながら歩くことにした。慣れるしかない。どうせ歩いているヤツだって、クルマを運転しているヤツだって、すべてがマトモってわけじゃない。何たって今は外国にいるんだ。そして僕は異国人。少し余分に注意して、危険をなるべく避けるようにするのが賢明なのだ。

BART駅のあるShattuck Ave.を越すと大学が近づく。1975年当時、僕は住んでいたEllsworth Ave.や、大学から南に伸びるメイン・ストリートのTelegraph Ave.を中心に動いていたから、トラベロッジのあるダウンタウン周辺のことはあまりよく分かってない。それなら今回もTelegraph Ave.周辺でホテルを探せばよかったのだけど、料金やロケーションなど合うものがなかったのだ。

大学前の通りはOxford St.。さすが大学町、アカデミックな道路名だ。Oxford St.を右に折れると「BAMPFA」という、大きなホールというか斬新なデザインの美術館のような建物が現れた。さらに進むと左手には陸上競技用のフィールドと野球場がある。陸上競技フィールドの角、Bancroft Wayを左に曲がる。この辺りまで来ると記憶が何とか甦ってくる。

バンクロフト…?そういえば映画『卒業』で、ミセス・ロビンソンを演じていたセクシーな女優は、確かアン・バンクロフトだった。さらに、娘エレ−ヌ役のキャサリン・ロスが通っていた大学がUCバークレーという設定のはず。エレーヌは大学近くのアパートメントに住んでいた。

ダスティン・ホフマン演ずるベンジャミンが、南カリフォルニアからクルマでやって来て、エレーヌの部屋を訪れるけど留守だった。ベンジャミンのドアを叩く音があまりうるさいので、隣の部屋に住む大学生が訝しげに顔を出す。その大学生役が、まだ売れてない頃のリチャード・ドレイファス。なぜか映画『卒業』とバークレーは、僕の頭の中で一緒くたになっている。

リチャード・ドレイファスは19471029日、ニューヨークのブルックリンでロシア系ユダヤ人の家庭に生まれた。僕より3つ年上。彼が映画デビューしたのは、196720歳の時。身長は165cmというから僕とほぼ同じ。そして僕がアメリカにやって来る2年前の1973年、映画『アメリカン・グラフティ』で主人公のカート役を演じ脚光を浴び始めるのだ。

などと、どうでもいいことばかり頭に浮かんでくる。1ブロック過ぎたら「Ellsworth Ave.」という道路標示が目に入った。思わずプファ〜ッ!と涙腺がゆるみ出す。我が青春のEllsworth Ave.なのだ。ドキドキしながら道を右に曲がる。そのまままっすぐ数ブロック行って道の左側が、44年前に住んでいたアパートメントのある場所だ。果たしてあのアパートメントはまだあるのか…?まさか、もう44年も経っている。あるはずもないだろう。

Channing Wayを渡り、続いてHaste St.を過ぎた。その先がDwight Wayで、交差する十字路の手前左に、僕たちが住んでいたアパートメントがあった。おやぁ、アパートメントのあった場所にこぎれいな建物が建っている…?おぉ、ここだ、確かここがぼくたちの住んでいたアパートメントのあった場所だ…!隣に大きなドミトリーがあるから、絶対にここに間違いない…!

僕たちの部屋は109号室だった。2ベッド・ルームを4人で使っていた。ふぅ〜、44年かけて、僕はこの地に再び帰ってきたのだ…!建物の写真を1枚撮って、しばし感慨に軽く耽る。当然だけど建物は昔と全然違う。思ったほど感激は深くない。この地に立つのが今回の旅のハイライトだったはず。だけど、まぁ、こんなものだろう。元々僕は意味なく感動しない性質なのだと思う。

Dwight Wayと交差する十字路の反対側には、メキシコ人のオッサンがやっているミニ・コンビニみたいな食料品店があった。僕たちはその店で、ビールとか袋入りのラーメンとかポテトチップスを買った。当然だけど、その店もない。店のあった場所には、妙にこぢんまりとした家が1軒建っているだけ。確か店は小さく、こんな規模だったような気がする。

まるで浦島太郎みたいだね…!想定はしていたけど、僕の記憶にある何もかもが変わっていた。当然だ。あの時の僕は24歳で、今の僕は69歳。44年も時は進んでいるのだ。Ellsworth Ave.のアパートメントのあった場所は確認できた。後はブラブラ、昔よく歩いたTelegraph Ave.や大学構内を散策してみようと考える。Dwight Wayを左に曲がれば、この街のメイン・ストリートの1つTelegraph Ave.にぶつかる。

そういえば1975年当時に撮った写真は全部モノクロだった。カメラはニコマートFTNで、装着レンズはケンコーの24mm超広角。撮影時フィルムはISO1600という高感度に設定し、フィルムは自分で現像、いわゆる当時流行りの「増感」ってヤツ。だから画質が粗く、白黒のアクセントが強いハイキーな写真になった。ま。それが僕の狙いでもあった。

手元に残っている写真のすべてがBlack & White。だからなのだろう、きっと僕の記憶も色彩が消えモノクロになっていたのだと思う。その逆に2019年、今のバークレーはデジタル映像っぽい、なぜか妙に鮮明で色彩豊かに見えてしょうがない。Telegraph Ave.にぶつかり、道を大学方面でなく敢えて反対側、オークランド方面に進むことにした。昼時を過ぎている。ちょっと腹が減ってきている。

しばらく行くと、右手に和食店みたいな看板の店を発見。やった、ラッキー!と思ったけど、よくよく見ると店内は空っぽで閉店した直後みたい。そこは数軒の店が集合した大きなガレージのような場所だった。建物の中にはアクセサリー・ショップなどがあり、ハングル文字の店もあった。えっ、ハングル文字、ひょっとすると…?おおっ、やっぱ、韓国料理店だぁ…!そう思った瞬間、口の中でキムチ味のヨダレがダラダラと分泌し始めた。店を覗くとかなり混んでいる。しかたない、次の機会だ。

Telegraph Ave.をもう少し下ってから、大学方面に戻ろうと考えた。通りの反対側に、見慣れた看板が目に入る。おほほほぉ〜、何と「SEVEN ELEVEN」ではないか…!日本にだってたくさんある。そんなに珍しいものでもない。でも、セブン・イレブン発祥の国で見ると、見慣れたセブン・イレブンも何となく一段違って見える。

ちなみに日本にセブン・イレブン1号店が誕生したのは1974年5月。僕がバークレーにやって来る1年前だ。場所は江東区豊洲で、最初に売れたのはサングラスだったそうだ。1975年当時日本でセブン・イレブンはあまり見かけなかったけど、もちろんバークレーやカリフォルニアでは何軒も見かけた記憶がある。

そうだ、ミネラル・ウォーターとビールでも買って帰ろう…!今日から3泊4日、ビールはともかくミネラル・ウォーターはなくてはならない生活必須アイテム。店内に入った。基本的に日本とそう変わらない。ミネラル・ウォーターはすぐに見つかった。まずは1.5リットル入りのペットボトル($2.29)を選ぶ。

次にビールだ。ブランドもサイズも種類がたくさんあって選ぶのが面倒。缶が欲しいんだけど、飲み頃な360ml缶のバラ売りがない。あるのは25オンス・サイズの大きな缶3つが1パックになったヤツ。1オンス=29.6mlだから、740ml入りってことだ。360mlの2倍以上ある。瓶入りもあるけど、これも6本パックで重たそう。

ということで、バドワイザー25オンス缶×3、1パック($6.49)を買う。支払いはVISAデビッドで済ます。ビール3缶とミネラル・ウォーターをデイパックに入れる。さすがにズシリと重たくなった。こんな重いのを担いでウロウロするのも大変。途中どこかで遅い昼飯を食べて、トラベロッジに早く戻ろうと考えた。

Shattuck Ave.を歩いていると、小さなリモコン・ボックスカーが道をチョコマカと勝手に移動していた。これは何だ…?何となく、フード宅配サービスのようなものらしい。さすがアメリカは進んでいるなぁと感心する。ウロウロ歩いてBART駅近くまで戻った。このままだとすぐにホテルに着いてしまう。そろそろどこかいい店を見つけなきゃ。

Shattuck Ave.Oxford St.の間に細い道がある。何とそこに、博多ラーメンの有名店「一風堂」の看板を発見。やった〜!と大喜びをする。どちらかと言うと、博多ラーメンよりも東京風の支那そばがいいんだけど、ワガママは言ってられない。店内を覗くと、ランチ・タイムが終わって閉店中。回転は夕方の5時からだという。はは、あぁ、腹が減ったなぁ…!こうなったら、もう何でもイイや〜!という気分になる。

アイルランド、キルケニーの話は、454「バターがスル〜ッと滑る、そんなバター・スリップという坂道…!」でご覧ください。
# by 1950-2012 | 2019-07-02 08:48 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

たった3泊4日の短い滞在。中途半端に1980年代初頭、日帰りで数時間滞在したとはいえ、やはり僕にとって44年ぶり、我が青春の大学町バークレーなのだ。列車を降りて意味なく気合いが入った。まずはBARTの改札口を出る。すぐそばのエスカレーターに乗ると、ほどなくした地上に出た。あぁ、バークレーだ…!やっと僕は、恋い焦がれていたバークレーに戻ってこられた。

でも、何か浦島太郎状態。BART駅周辺の風景は、僕が記憶している風景とは全く別のものに変わっていた。駅のあるShattuck Ave.は、以前こんなに人が多く華やいでなかった。もっと寂れていたように記憶している。44年も経ってしまったのだ。街の様変わりなら、母国・日本の方がもっと狂的に凄まじいだろう。時のあまりの速い流れに呆然とする。とはいえ感傷に浸っている時ではない。

まずは予約してある宿泊先トラべロッジ(Travelodge by Wyndham Berkeley)を探さなければならない。予約サイトでは、チェック・インは14時となっていた。腕時計を見ると、まだ12時ちょっと過ぎ。チェック・インにはちょっと早いけど、かさばるリュックさえ預かってもらえればOK。後はデイパック担いで街を散策していれば、時間なんてアッという間に過ぎてしまう。

トラべロッジの住所は1820 University Ave.。予約した時点で、場所は大体地図を見て確認してある。トラべロッジはダウンタウンを東西に横断するUniversity Ave.に面している。数ブロック歩くとUniversity Ave.にぶつかった。早速左に曲がる。道はサン・フランシスコ湾に面するマリーナまでゆったりした下り坂。数ブロック過ぎた。そろそろ見えてもおかしくはないはず。思っていたより距離があるので若干不安を覚える。そろそろなんだけどな…?

太い通りにぶつかった。道路標識を見ると「Martin Luther King Jr. Way」。なるほど、あの有名な公民権運動家マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の名を冠した通りか…!思わず「I Have A Dream〜!」とつぶやく。ドイツ語なら宗教改革者のマルティン・ルターだ、などとまた独り言。そろそろ地図を見て一旦確認しておいた方がよさそうだ。

何だ、この先だ…!確かに、道路左側に「Travelodge」の看板がチラッと見える。駅から近くもないけど遠くもない。中途半端な距離。でも、大学近くのホテルはどこも3万円近辺で高かった。だから場所が分かりやすくて、大学やBART駅からも遠くないトラべロッジを選んだのだ。トラべロッジはホテルというよりも、駐車場が敷地の真ん中にあるモーテル・スタイル。

受付のフロントを覗くと、人がいるようには見えない。入り口脇のブザーを押してからドアを開け中に入った。すぐに奥から一見インド系のフロント・マンが顔を出した。予約してある旨を言い、続けて自分の名前を告げる。書類を見て確認。OKだ。次にパスポートとクレジット・カードの提示。

部屋にはもう入れると言う。助かった。部屋は1階の101号室。フロントの隣部屋。そして、カード・キーを渡される。朝食はフロントに用意されるから、自分で取りにきて部屋で食べてほしいと言われる。これでチェック・インはOK。ひとまず部屋に入ってくつろぎたい。さぁ、今から3泊4日のバークレー生活が始まる。

バークレーはサン・フランシスコ湾東岸に面する人口約10万人の大学町。1960年代には学生運動が起こり、ヒッピー文化の発祥の地としても知られる。バークレーという街の名は、18世紀アイルランドの哲学者、ジョージ・バークリー(George Berkeley)に由来するという。ジョージ・バークリーは1685年3月12日、首都ダブリン西郊の街キルケニーに生まれた。

実は200012月末から2001年1月初旬にかけ、僕はアイルランドを旅し、ジョージ・バークリーの故郷キルケニーに1泊している。その時に偶然泊まったゲストハウスが、まさに「Berkeley House」だった。ジョージ・バークリーは「存在することは知覚されることである」(To be is to be perceived.)という基本原則を提唱したとされる。きっとあのゲストハウスも彼の名声にあやかって命名されたのだと思う。

大学UCバークレー(University of California, Berkeley)は州立大学であり、1868年に設立された。UCバークレーはカリフォルニア大学 の発祥地であり、10大学からなるカリフォルニア大学システムの中で最も古い歴史を持っている。ちなみに10大学とはバークレー校の他に、デイビス校、サン・ディエゴ校、サン・フランシスコ校、サンタ・クルーズ校、サンタ・バーバラ校、ロサンゼルス校(UCLA)、アーバイン校、リバーサイド校、マーセド校がある。


僕が初めて訪れた1975年頃、今のような便利で詳しい情報満載のガイドブックや旅行情報誌はほとんどなかった。雑誌『宝島』はすでに出版されていたけど、若者のファッションや文化を掘り下げた『Made In U.S.A.カタログ』は、僕が帰国してすぐ後の出版だったし、雑誌『ポパイ』や『ホットドッグプレス』が定期刊行されたのも数年後。とにかく、若者向けのアメリカ情報が少ない時代だった。

1975年頃の普通の日本の若者たちの多くは、フリスビーもスケートボードもダウン・ジャケットも知らなかったと思う。僕はたまたま親戚が鎌倉にいて、稲村ケ崎辺りのサーファーたちと面識があったので、当時のアメリカのファッションや文化にはちょっと知識があった。それでも、現地カリフォルニアに来たら、あまりの新鮮な情報の多さに面食らってばかりいた。

それから44年後。今や情報はインターネットですぐに手に入る。仮に日本の辺鄙な山村に住んでいても、地球上のニュースはほとんど世界同時に共有できる時代。とにかく時代はドンドン先に進んでいる。現在は先端だって思っている人間だって技術だって、すぐに過去のものになってしまうこともある。

話を2019年現在のバークレーに戻そう。101号室のドアを開けると、キングサイズ・ベッドがあるゆったり大きな部屋。居心地はよさそうだ。壁のテレビは今時の薄型ビッグサイズで見やすそう。バス・ルームも広く使いやすそう。収納スペースもOK。まぁ、及第点。宿泊代3泊で地方税や宿泊税を加算して6万円は超すのだ。何だかんだで1泊2万円以上なら、この設備と広さで当然だと思う。

リュックを開け、荷物を整理してほっと一息つく。クローゼットには備え付けの金庫(貴重品入れ)があった。ダイヤルで4桁の数字を選択し、後はLOCKボタンを押すだけでOKっていうヤツ。開けるときは選択した4桁を押すだけ。やってみると、とっても簡単。でも僕はこういうのを信じてない。と言いつつ、4桁の数字を入れて、空っぽの金庫はちゃんLOCKしておく。

貴重品に関しては、僕なりの保管スタイルがある。でも、金庫は金庫で使用しているように見せておく必要がある。たった4桁の数字。過去にフランスだったかどこかで、この形式の金庫を開けられ貴重品を盗まれた話を聞いた。用心に用心を重ねて当然なのだ。備え付けの金庫はとりあえずの期間ダミーにする。これが僕の考え。1〜2日様子を見てから、金庫を使うかどうか判断するつもり。でも、たぶん使わないだろうと思う。

デイパックにカメラ2台を入れて部屋を出る。まず向かうのは大学方面。以前8週間住んでいたEllsworth Ave.辺りだ。トラベロッジの隣は自転車屋。そういえば昔、僕は中古の自転車を買った。あの自転車屋は、確かShattuck Ave.沿いにあったと記憶している。

僕が買ったのはハンドルが「Y」の字をした、ハーレー・ダビッドソンのチョッパー型に似たクルーザー・バイシクルだった。メーカーはアメリカのSchwinn。自転車を手に入れ、僕は湾岸のバークレー・マリーナや隣町オークランドのレイク・メリットまで足を伸ばした。帰国時、自転車を日本に持って帰りたかったけど、輸送費がかかるのでしかたなくアパートの他の日本人に売った。今でもそれが残念でならない。



# by 1950-2012 | 2019-06-28 17:46 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

5月20日(月)旅立ち当日の天気はあいにくの雨天。それもかなり大荒れ。首都圏の公共交通機関に影響が出るほどだった。何てこったい…?久々の旅立ちだというのに。これも日頃の行いのせいなのか…?僕はよほど神に見放されているようだ。それもそのはず、どっちかと言うと無神論者なのだから、天気の神様だってイイ顔してくれるはずもない。

旅立ちの数週間前から、現地サン・フランシスコの天候と気温は調べていた。着るモノは何を持っていくか…?サン・フランシスコは東京よりも曇りの日が多く、気温も想像以上に低い日が続いていた。5月中旬でも日中の最高気温は20℃前後。朝晩の最低気温は10℃近くまで下がる。

ということで、今まで何度も旅に着ていったノース・フェィスのゴア・テックス製ジャケット、ポケットが便利な同じくノース・フェィスのインナー用ベストを持っていくことにした。そしてデイパックもノース・フェィス。すべて10年以上前に買ったものでカラーはっ真っ黒。だからって別に、ノース・フェィスに義理がある訳じゃない。

窓の外から忌々しい雨音が聞こえる。カーテンを開けた。地面を機銃照射するような雨脚。ひでぇ〜!一瞬にして気が萎える。こんな激烈な雨の中を、僕はリュックを引きずりながら歩かなければならない。こんな横殴りでは絶対ビッショビッショに濡れる。家からバス停の間、そしてバス・ターミナルから最寄り駅の相鉄線・鶴ヶ峰駅の間。覚悟をしておいたほうがよさそうだ。

余裕を持って早めに家を出た。横殴りの雨は、傘をさしてノロノロ歩く間抜けな人間をせせら笑い、雨粒を叩き続けてくる。僕はビショ濡れになりながら歩いた。リュックやデイパックは専用カバーをかけたから大丈夫だけど、下半身のジーンズの方はほとんど濡れ鼠。ヤバい…!一番気になるのは、濡れたままで体温を奪われること。飛行機に乗る前に風邪などひくわけにはいかない。

横浜行き列車に乗り込んで、すぐにリュックとデイパックのカバーを外した。悪天候だってのに、車内の空調がムダにききすぎている。濡れたジーンズから、どんどん体温が奪われいく。全く、何だかなぁ…?横浜でJR駅構内にあるカフェに入った。まずはコーヒーを飲んで体を中から温める。ノース・フェイスのジャケットを濡れたジーンズに覆い被せる。足下が徐々に温まってきた。身体ヌックリdeホッと一安心。

離陸は悪天候のため50分近くの遅れ。だけど現地時間5月21日午前11時前に、何とかサン・フランシスコ国際空港に無事到着。日本を発ったのが同日午後5時頃だったから、何となく半日分得した気分。と言っても日本に帰ってくる時、時間は帳尻が合わせられるから本当は得も損もない。

さぁ、面倒くさい入国審査だ。と言って、別に後ろ暗いことがあるわけじゃない。ESTA(電子渡航認証システム)はPCを操作して事前に取った。これは航空機でアメリカ合衆国へ入国・通過する者に対し、米国出入国カードをアメリカ合衆国への渡航前に、インターネットのウェブサイトで電子申請することを義務付けたもの。1975年当時は当然だけど、こんな面倒くさいものはなかった。

ESTAがあるから入国は簡単かと思ったけど、そうでもない。E—チケットと似たような機械が僕を待っていた。まずは他人のやり方を見て覚える。パスポートを読み取り機にかざして操作。指紋などを採取したらOKのようだ。何だか分からないまま入国カウンターに向かう。

パスポートを提出。係官に顔を見比べられた後、再び指紋を採取させられる。ひょっとしたら、さっきのやり方が間違っていたのかもしれない。顔写真も撮られる。そんなこんなで入国審査もパス。後は預けたリュックを持って、目的地バークレー行き地下鉄BARTに乗るだけ。ただ、そのティケットの買い方に若干の不安があった。

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出国ゲートからBART乗り場に向かう。あらかじめガイドブックの空港案内で調べ、BART乗り場が出国ゲートから近いことは分かっている。表示に従って歩く。ちょっと遠かったけど、何とかBART乗り場にたどり着いた。さぁ、これからが正念場。大げさに言うほどのことでもない。普通の地下鉄に、普通に切符を買って、普通に乗るだけのことなのだ。でも、意味なく気合いが入っている。

乗車料金はPCで検索して調べてある。サン・フランシスコ国際空港から目的地バークレーまでは$10.03。券売機「BART TICKETS」の前に立つ。当然だけど、PCの画面で見たのと同じだ。右手上部に、行き先別の乗車料金がアルファベット順に表記されている。再確認のため、目的地「Downtown Berkeley」を見る。「10.03」の数字が見えた。OKだ。

行き先別乗車料金表示の下に、紙幣挿入口が今か今かと僕のドル札を待っている。料金は中央画面左側のボタン、例えば料金を増やしたい時は「Add」のボタンで、もしも減らしたいなら「Substract」のボタンを押して増減する方式。これがやたら面倒で、難儀する人が多いとPCから情報を得ていた。

ティケットの料金をピッタリにする必要はない。多少多めに払って、余った分はまた足して使えばいいのだ。BARTに乗るのは今日と3日後、バークレーからサン・フランシスコのダウンタウンへ移動する時。そして帰国する26日、ダウンタウンからサン・フランシスコ国際空港まで行く時だけしかない。

いちいち何度もボタン操作するのも面倒。どうせティケットはまた使うのだ。20ドル札を機械に挿入。そして画面に「Print 20」と表示が出ている左側のボタンを押した。これでOK20ドル分のティケットがゲット。何だ、案ずるよりオノヤスシだ…!と不適に笑う。小さく今日の日付と$20が印字されたチケットを手に改札口へ向かった。

ティケットを自動改札機に入れる。閉じていたバーが開く。プラットフォームにはすでに列車が停車していた。僕が乗る路線は「Pittsburg/Bay Point-SFO線」で、サン・フランシスコ湾の地下トンネルを走ってオークランドに入る。それから「MacArthur」駅で「Richmond」行きに乗り変えるだけ。目的地「Downtown Berkeley」駅は、そこからたった2駅。

僕はできるだけ真ん中に近い車両に乗り混んだ。そして、目つきや挙動の怪しそうなヤツのいない、でも周適度に乗客のいる席を探して座った。これで一安心。座った席はドアから近く、大きな路線図が見える。さりげなく乗換駅を確認できるよう、最適な席が選択できたってわけだ。後は長旅の疲れから、居眠りなどしないよう注意するだけ。近頃は電車に乗ると、すぐに眠たくなるから要注意。

列車が走り出した。車両は古く窓がくすんでいる。車窓風景がクッキリ見られないのが残念。30分ほど走ると、ダウンタウン中心部の「Powell St.」駅に到着。3日後に宿泊するホテルはこの駅の近く。その後2駅通過して、列車はいよいよサン・フランシスコ湾の海底トンネルに入る。

空港からクルマでバークレーに向かうなら、映画『卒業』でダスティン・ホフマンが真っ赤なオープン・カーを運転して渡ったベイ・ブリッジで湾を越えることになる。思い出した。1960年代にヒットしたオーティス・レディングの『ドック・オブ・ザ・ベイ』という曲。あの歌の中に、確かサン・フランシスコ湾という言葉が出てくる。

「♪I left my home in Georgia Headed for the ‘Frisco Bay〜♬」

オイラはサン・フランシスコ湾の波止場に座って、波が押し寄せては去っていくのを、何もすることなくただ眺めている。故郷のジョージアから、サン・フランシスコ湾を目指して出てきたのはいいけれど…って感じだったかな。ということはあの歌、サン・フランシスコ在住ではなく、黒人の人口比率が多いオークランドにやって来た男の気持ちを歌った曲かもしれない、などとどうでもいいことを考えてしまう。

そうこうする内、列車は地上に出た。すぐに「West Oakland」駅に停車。この3つ先が乗換駅の「MacArthur」だ。心の準備はOK。当然居眠りなんて出やしない。結構緊張してる。そして「12th St./Oakland City Center」駅、さらに「19th St./Oakland」駅に停車。ここで気づいた。2つ駅の隣のプラットフォームには、さっきから「Richmond」行きが平行して走っている。焦ってはいけない。乗り換えは当初の予定通り「MacArthur」駅と決めている。

乗り換えて2駅目がバークレー。ちょっと興奮してきた。ここへ来るまで44年かかった。と言うと、実は嘘になる。1980年代初頭、僕は短時間だったけどバークレーを訪れている。1975年に友達になった日系人ボブ・カクの家に泊めてもらい、その時バークレーに日帰りしている。とはいえ日帰り。たった数時間のこと。ほとんど記憶に残っていないと言ってもいい。



# by 1950-2012 | 2019-06-24 17:36 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

2019年連休前、僕は「バークレーに行くぞ!」と心の中で叫んだ。でも、できることなら金をかけたくない。ということで、サン・フランシスコ1都市だけの安いツアーを探すことにした。本当はツアーなんてイヤだけど、この際だからサン・フランシスコのホテルに泊まって、バークレーには地下鉄BARTに乗って日帰りしようと考えた。BART=正式には「Bay Area Rapid Transit」。僕が初めてバークレーを訪れた1975年頃はすでに開通していた。

安いツアーはある。でも乗り継ぎがあって、サン・フランシスコ到着は夜。サン・フランシスコは知らない街ではないけど、夜間にホテルまで自分で移動するのはちょっと面倒。TAXIを使えば簡単だけど、それもなんだか勿体ない。さらに格安ツアーとはいえ、できることならマイルだって貯めたい。ということでスター・アライアンス系の航空会社で選択。

5月後半に19万円「サン・フランシスコ7日」というツアーがあった。機内泊が1日あるからサン・フランシスコには実質5泊。航空会社はユナイテッド。スター・アライアンス系だからマイルも貯められる。空きがあるか確認。するとすぐに返信がきて、総額で30万円以上になると分かった。うむ、安くない…!だったら全日空のサン・フランシスコ直行便を探してみよう。

全日空で調べていたら、5月21日成田発/5月26日サン・フランシスコ発の往復便が14万円と判明。これは安い。早速航空券をゲット。次にバークレーのホテルを検索。可能なら大学から続くメイン・ストリートであるテレグラフAve.に近いホテルが希望だけど、宿泊料も高く思い通りのホテルが見つからない。

希望予算としては1泊1万円近辺。今までヨーロッパを旅してきた時、僕はいつも€70プラスマイナス€10を基準としてホテルを選んできた。バークレーではイロイロ探した結果、大学からそんなに遠くなく、しかもBART駅からも便利なホテル「Travelodge」に決めた。宿泊代は3泊で$532.95($1=111.51として¥59,429)。これに地方税や宿泊税が加算されるから6万円は超す。1泊2万円以上は予算オーバーだけど、だからと言ってロケーションや治安が悪かったり、浴室が共同とか狭い部屋はイヤなのでこれでOKとする。

残り2泊はサン・フランシスコで探す。サン・フランシスコでは訪れたい場所が2カ所ある。ひとつは1960年代後半、ヒッピー・ムーブメントの花が咲いたヘイト・アシュベリー地区。もうひとつは坂の街に美しく優雅な佇まいを残す優雅な家々が建ち並ぶパシフィック・ハイツ界隈。

ガイドブックの地図を見ながら、ヘイト・アシュベリーとパシフィック・ハイツへの移動が便利で、なおかつBART駅に近い場所はどこか…?それがホテルの条件。あった…!観光客でごった返すパウエル・ストリートより1つ先の、シヴィック・センターが第1候補。

次にシヴィック・センター近辺の値頃なホテルを検索。ホテルは高いことが分かっていたので、希望金額はちょっと上げて1万5千円以内。シヴィック・センターからメイン・ストリートのハイドSt.をちょっと北に上がって、ユニオン・スクエアの方から続くエディーSt.と交差する場所「テンダーロイン」と呼ばれる地域に、値頃なホテル3つ星のホテルがあった。

ロケーションも便利そう。宿泊代は2泊で$257.58(¥28,722)。そんなに悪くない。最寄駅も遠くない。BARTはサンフランシスコ国際空港に直結しているので帰国時にも便利。ということで早速予約。これで5泊のホテルは簡単に予約終了。

数日後、マリッジ・ブルーみたいな憂鬱に襲われる。旅立ちが近づくと、必ず僕は意味もない憂鬱に襲われる。今回は機中泊も入れて5泊7日、短いとはいえ拳銃の横行するアメリカ。いままで何度か旅したけど、ジワジワと意味なく恐怖が襲ってくる。

バークレーは大学町だ。僕が知っているのは44年前だけど、そんなに治安も悪くないはず。だけどサン・フランシスコは大都市。サン・フランシスコの危なそうな地域とか情報が気になり始めた。僕はテキトーでイイカゲンに見えるけど、結構繊細で臆病で用心深い。

まず「サン・フランシスコ、危険情報」などで検索。まさか…?とは思ったけど、ゲゲッ…!予約したホテルのあるテンダーロイン地区は、何とサン・フランシスコでも筆頭に出るほど危険な地域だという。以下は検索して出てきた怖ろしい情報の一部。思わず体が震えた。

  「絶対に行ってはいけないエリア“Tenderloin(テンダーロイン)”は、日中でもほとんど人が歩いていません。というのも、ここのエリアは、ホームレスに加え犯罪者も多く、ドラッグの売買なども行われているからです。」

  「シビックセンターの周辺には治安が特に良くない“テンダーロイン”という地域があります。ここは犯罪者やホームレスが多く、夜間は違法ドラッグの売買などが行われる危険な地区です。旅行者は昼間でも立ち入ってはいけません。」

  「テンダーロインはサンフランシスコで一番危険な区域と言われています。テンダーロインはステーキの名前です。“なぜサンフランシスコのこの地域がステーキと関係あるの?”と思い調べてみたところどうやら“この地区を担当する警察官にはボーナスが支給され、そのボーナスでテンダーロインが食べられるから”だそう。誰も担当したがらないために、担当させるためのご褒美としてボーナスを出すという事実から見ても、危険度が露呈していますね。初めて立ち入ったテンダーロインはやはり不気味でした。何が出るのかわからなかったので終始警戒していました。」

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などなど、明るく楽しい情報はない。ガイドブック『地球の歩き方』にも注意を喚起する言葉があった。テンダーロインが安全な地区ではないと分かった瞬間、急に血圧が上がる。実際に測ってみたら、ガガガ・ガビィ〜ン!驚く数値が出ていた。心臓も、ドッキンドッキン!高鳴っている。旅立ち前でこれだと、実際にサン・フランシスコに行ったらどうなるか…?怖くなった。

ホテルを変えるしかない。といって予約したホテルをキャンセルするには、予約した2日分の宿泊料と同額のキャンセル料、約3万円近くが取られる。それは勿体ない。でも、命までは大げさとしても、もしかしたらイヤな思いをさせられるかもしれない。事前にそれが分かっていて何もしないというのも愚かしい。

まずは代替ホテルを探す。同じサイトから比較的に安全な地域で、そんなに高くないホテルを選び出す。不便な場所は避けたい。たったの2泊。ユニオン・スクエア辺りも完全に安全とは言えないけど、ダウンタウンの中心部で観光客も多い。BARTのパウエル・ストリート駅も近い。あった、ヒルトン・ホテルだ。2泊で$355.30(=¥39,619.5、税別)はちょっと予算オーバーだけど、納得できない金額でもない。

キャンセル料なんて無駄な出費だけど、生命や精神の安寧の方が優先される。何たってもう若くない。高い血圧が原因で病気になったことは今までなかったけれど、これからは自分の体に何が起こるか分からない。旅立ち前だってのに、まさに「君子危うきに近寄らず」そんな心境になってしまった。


# by 1950-2012 | 2019-06-20 07:57 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

※3−前篇からの続き)

諦めかけていたけど、しばらく待つと古い黒塗りのセダンが停まった。

「どこまで行くんだい?」

若者が聞いた。クルマの中は定員きっちり、見た目高校生のような若者たちが乗っていた。僕が乗れる余地はなさそうに見える。

「モノレまで、行きたいんだけど

「だったら、ここで待っていてもクルマは来ないよ。もっと拾いやすい所まで乗せていってあげるから、さぁ、早く乗って…!」

すると、きらめくようなゴールデ・ンヘアの女の子が、これまたきらめくような笑顔を見せて後部座席のドアを開けてくれた。定員はオーバーだけどアメ車。少し詰めれば、身長165cmの僕が座っても何ら問題ない。僕の横には絵に書いたような金髪のカリフォルニアン・ガール。笑顔が可愛くて、形のいい膝小僧と小麦色に日焼けした長い足。はっきり言って、これほどの幸運はないだろう。

と言っても、気を緩めることはなかった。ノーテンキにクルマに乗ってなんかいられない。そのままどこかへ連れて行かれ、身ぐるみはがされたり、命を取られることも頭のどこかでは考えていた。ただ開き直っていたのか、きらめくようなゴールデン・ヘアに理性を惑わされたのか、とりあえず僕は流れに身を任せようと考えた。

約束通り、若者は僕をヒッチハイクしやすいフリーウェイのど真ん中の道路脇で降してくれた。果たしてこんな所でヒッチハイクなんかできるのか…?一瞬僕は疑った。そして若者たちは、僕を置き去りにしたまま笑顔ですぐに走り去った。こんな場所で待っていたら、もしかして警察が来て捕まってしまうんじゃないかと考えた。すると、すぐにカローラ・バンが僕の前で停まった。

「どこまで行くんだ?」

「モノレだけど

OK、乗れよ! こいつはジョン。オレはデレク…!」

「ハーイ!

「ハーイ、僕はKaZoo、日本人だ。よろしく…!

しばらく行くと、道路脇のスーパー・マーケットの前で親指を立てている女性がいた。彼らはその女性も乗せた。そして数km離れた道路脇でその女性を降ろした。何という、短くて気軽なヒッチハイク。こんなことはアメリカでは普通らしい。前方に「Monterey」と書かれた道路標識が見えた。クルマはフリーウェイを降り、しばらく走って停車した。助手席に乗っていたジョンがクルマを降りる。手を振って向こうに歩いていった。

「へい、KaZoo、前に乗りなよ…!」

この瞬間まで、僕はてっきりジョンとデレクは友達で、一緒にドライブをしているんだと思いこんでいた。知らなかった、ジョンも僕と同じヒッチハイカーだったなんて。僕が驚き顔でいると、デレクは嬉しそうに笑った。1台のクルマに乗り合わせた人間が、運転手以外はみんなヒッチハイカーだったなんて、カリフォルニアでは別に珍しいことではないようだ。

とりあえずモントレーに無事到着。本当にヒッチハイクで来ちまった。驚きだ。まずは今夜泊まるホテルを探さなくちゃ。クルマを降りた周辺をウロウロする。運よくホテルを発見。空室があるか聞いてみる。貧乏旅行だから安ければ安い方がいい。そんなに安くなかったけど予算内で済んだ。まぁ、何とかなるもんだ。

モントレーは1967年6月16日から18日までの3日間、ロック・フェステバルが開かれた街として知られる。20万人以上の若者が集まったロック・フェスには、ジャニス・ジョップリンやジミ・ヘンドリックスが出演。他の主なグループとしては、エリック・バードン&ジ・アニマルズ、ジェファーソン・エアプレーン、ザ・フー、オーティス・レディング、グレイトフル・デッド、バーズ、ママス&パパスなど。当然だけど、僕は4枚組のCDを持っている。

この時、ロック・フェスの主催者の1人であったジョン・フィリップスは、プロモーションのため『花のサンフランシスコSan Francisco(Be Sure to Wear Flower in your Head)』を作曲。その後スコット・マッケンジーによってレコード化された楽曲は大ヒットした。僕も高校時代、ノーテンキによく口ずさんでいたものだ。

夕食後、ホテルのバー・ルームを覗くと空いていた。とりあえず2〜3杯飲んで部屋に戻ろうと考えた。カウンターが開いていたので座る。2つ向こうの席にはオッサンが1人で飲んでいた。バーテンダーと話をしながら飲んでいると、オッサンが1杯ごちそうしてくれると言う。ラッキー!何たってこっちは貧乏人。喜んで申し出を受ける。すでにその頃、オッサンはかなり酔っていた。何度もカウンターの丸椅子から転げ落ちそうになっていた。

バーテンダーは両手を開いて「いつものことさ」と言う。そういえば昔見た西部劇で、酔っぱらって気持ちよく後ろに倒れたカウボーイを見たような気もする。こういう酔い方がアメリカ流なのだろう。3杯目を自分の金で飲んだ。その頃オッサンは、フラフラしながらバー・ルームを出て行った。大丈夫か…?

翌日はモントレーからグレーハウンド・バスで内陸のサリナスへ向かう。そこから鉄道Amtrakに乗って、オークランドまで戻るつもり。オークランドはバークレーの隣町。列車はバークレーに停まらないからオークランドで降りるしかない。たぶんオークランドからはバスが出ているはずだ。列車は1日に1〜2本。うまく時間を合わせないと乗れない。

とりあえずグレーハウンド・バスのバス・ターミナルに行き、バスの時刻とAmtrakの時刻を知ろうと考えた。バス・ターミナルの中に小さなカフェがあった。カフェに入ると、アジア人女性が働いていた。僕の顔を見ると驚いて言った。

「あら、日本人…?」

女性はすぐに僕が日本人だと分ったようだ。何はともあれ日本語が話せるのは嬉しかった。まずはサリナス行きのバスの時間を教えてもらう。続けてオークランド行きのAmtrakの時間も聞く。何となく乗れそうだ。バスが来るまで少々時間があった。何もしないのは手持ち無沙汰。とりあえずビールを頼んだ。

テーブル席の壁やカウンターの上に面白いモノを発見。ジューク・ボックスの選曲が離れた場所からできる機械だ。AKと1〜10のボタンがある。まさにアメリカってデザイン。クローム・メッキ製で真ん丸っちい形が、何だかロボットみたいでカッコいい。こんなの今まで見たことがなかった。ということで写真を数枚撮る。

カフェに新聞が置いてあった。英語の新聞がほとんどだけど、驚いたことに『加州新報』なんて日本語の新聞もあった。カリフォルニアに住む日系人が読むのだろう。手に取ってみたら、活字が今時ではなく、戦前のものみたいだったので驚いた。新聞の発行は数日前。

パラパラと新聞を読んでいると嬉しい記事を発見。驚いた。大関・貴乃花が大相撲で初優勝したことが載っていた。貴乃花は僕とおなじ1950年生まれ。僕も時々テレビで相撲を見て応援していた。同世代である貴乃花の、念願の初優勝を、遠く海を越えたカリフォルニアで知ったなんて、何となく愉快痛快爽快。

グレーハウンド・バスに乗って最寄駅のサリナスに向かう。サリナス周辺はレタスの栽培地域として知られ、広大な畑が広がっていた。小説『怒りの葡萄』の作者ジョン・スタインベックの故郷だという。人口の60%がヒスパニック系で白人は少数。ヒスパニック系人口が全人口に占める割合が、カリフォルニア州の中で最も高い都市なのだそうだ。

のどかな田園風景をボーッと眺めていると気持ちは落ち着く。やがてバスはにぎやかな街の中に入って行く。おぉ、これがサリナスか…!そして、バスは小さな駅の前に停車。さぁ、着いた。まずはAmtrakの切符を買う。2等車だけど一応は指定席。列車が来るまで時間が余った。することもないので街の中を散策する。

商店街に入ると、やたら賑々しくラテン音楽が左右の店から流れてきた。商店の看板の多くはスペイン語。さすが人口の60%がヒスパニック。しばらくウロついて、また駅に戻る。駅前には何台もグレーハウンド・バスが駐車してある。たくさん並んでいるのは壮観。思わず写真を撮ってニンマリ。

列車が到着する時間になった。プラットフォームで待っていると、右手から汽笛が聞こえ、大きな車体の列車が駅に入ってきた。停車すると、ドアを開けてアフロ・アメリカンの車掌が降りてきた。切符を見せると僕の車両を指示してくれる。ほぼ線路と同じ高さのプラットフォームから、階段をエッチラオッチラ3段上がって車両に乗り込む。

デカイ。思ったよりも車両は広かった。自分の席に座る。座席が大きくて高い。僕は足がそんなに長くないから、前の席までかなり余裕があった。初めて見る、そして乗る外国の列車。座り心地は思った以上にいい。そして数時間後、列車はオークランド駅に無事到着。たった2泊3日のカリフォルニアひとり旅。途中でヒッチハイクなどもできて、それはそれなりに内容は濃かったような気がする。


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こうして僕の海外初の「ひとり旅」は1975年2月〜3月の8週間、夢のカリフォルニアから始まったのだ。そして15年後1990年4月下旬。僕はついに念願のヨーロッパへ旅に出る。栗原クンと高校で出会ってから何年が過ぎただろう…?憧れのヨーロッパ最初の寄港地は、ドイツのフランクフルト国際空港。その時から、僕のヨーロッパ「ひとり旅」は始まる。(終わり)


# by 1950-2012 | 2019-06-16 07:42 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

1968年高校3年の頃、隣のB組に転入生が1人入ってきた。名前は栗原クン。僕より2歳年上だった。栗原クンは高校を2年で休学し、ナホトカ経由のシベリア鉄道でヨーロッパへ渡り、さらにアメリカを回って世界をヒッチハイク旅行してきた。そんな強烈な生き方をした高校生が隣のクラスにいた。栗原クンは受験生である僕たち普通の高校生にとって、眩しくて衝撃的な存在だった。

栗原クンは高校在学中に、自分の体験をまとめた本を出した。タイトルは『高校生、世界ひとり歩き』。本は僕たちの周りで一躍ベスト・セラーになった。僕も夢中になって読んだ。読み進む内に、僕もいつかヨーロッパかアメリカを、栗原クンのようにヒッチハイクしながら旅してみたいと思った。

そんな思いが実現する時がやって来た。1975年2月、僕はカリフォルニアへ旅だった。その時24歳。生まれて初めての海外だった。アメリカ到着後旅行会社が手配してくれた、サン・フランシスコ対岸の大学町バークレーのアパートメントに、ツアーで出会った友人3人と住んだ。友人たちはバークレー到着後、イロイロな場所にグレーハウンド・バスに乗って旅立っていった。

僕も旅立ちたかったけど、手持ちの金が少なかった。しかたなくバークレーでブラブラするよりしょうがなかった。と言っても、初めての、しかも憧れのカリフォルニア生活。フリー・プランのツアーは8週間。長いようで短い。アッという間に1月が過ぎる。滞在期間が2週間を切った頃、僕は悶々としていた。ある日、突然思い立った。

「そうだ、遠くでなくてもいい。今から1人でグレーハウンド・バスに乗ってどこかへ行ってみよう。じゃ、いつ行く…?決まってる、明日だ…!」

そう思い立った翌日、僕はカメラなど荷物をまとめ、リュック1つでバークレーのアパートを出た。旅程は2泊3日。それ以上の予算はない。アパートを出て地下鉄BARTに乗り、サン・フランシスコのダウンタウンにあるバス・ターミナルに向かった。バス・ターミナルに着くと、怪しげな男たちがハエのように絡んできた。鬱陶しい連中を避け、何とか一番早く出るバスを探す。行く先はどこでもよかった。

サン・フランシスコの南、太平洋岸にあるサンタ・クルーズ行きがすぐ出そうだった。すぐにティケットを買う。初めてのグレーハウンド・バスの旅。僕は興奮していた。バスに乗り込む。映画『真夜中のカウボーイ』などで、何度も見た憧れのアメリの長距離バス。思った以上に広くデカかった。それが意味なく嬉しかった。

バスはサン・フランシスコを出て、サラトガという田舎町を抜ける。この辺は全くの山の中。初めてのグレーハウンドの旅は快適そのもの。やがていくつもの街を抜け、目的地である海辺の街サンタ・クルーズに無事到着。海辺の街だからか、サンタ・クルーズは何だか明るくて温かい感じがした。

到着後、最初にしなければならないこと、それは今夜泊まるホテル探し。メイン・ストリートを歩いている時、1階にバーのある高そうに見えないホテルを発見。フロントで聞いてみると、運よく部屋は空いていた。料金も高くない。当然即決。その後、街をふらついて写真をたくさん撮る。気分は100%「夢のカリフォルニア」気分どっぷりだった。

その夜は1階のバーで飲んだ。学生たちと一緒に大声で話し、ビールをしこたま飲んで気分上々。バーには地元のサーファーなど若者が多く、UCサンタ・クルーズの学生も多かった。この時、翌日まさかアメリカで「ヒッチハイク」するなんて全く考えていなかった。当初の予定は、かつてジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョップリンが出演した、あのポップ・フェスティバルが開かれたモントレーまで行くこと。そしてまた、グレーハウンド・バスに乗ってサン・フランシスコに戻るつもりでいた。

翌朝起きるとちょっと二日酔い。スッキリ目を覚まそうと、昔の西部劇に出てきそうな楕円形のバス・タブにお湯をタップリ入れてバス・タイム。急ぐ旅ではない。ホテルをチェック・アウトしたら、また街をちょっとブラついて時間を潰し、グレーハウンドのバス停留所へ行くだけ。

カメラ片手にサンタ・クルーズを、写真を撮りながらのんびり歩く。海辺に遊園地がある。朝まだ早かったせいか誰もいない。無人の遊園地はある種不気味。どこからか首輪をつけたワンコが後に付いてきた。昼頃、小さなイタリアン・レストランに入る。店には僕と同じように目が細い、顔立ちがちょっと俳優の小沢昭一さんに似たオッサンが1人。後で聞いたら、韓国からやって来た移民だった。

「日本人か?」

オッサンはニコニコしながら日本語で聞いてきた。

「はい、そうです。日本語、話せるんですか!

「少しネ、少しだけ話せるよぉー」

オッサンは嬉しそうに微笑んだ。不思議だ、同じアジア人同士で、」日本語だと会話も楽になる。僕はビールとスパゲティを頼んだ。しばらくすると、おじさんは僕のテーブルに座って僕に質問をした。今度は英語だ。僕も英語で答える。

「どこへ行く?」

「モントレーです」

「モノレか?」

「いいえ、モントレーです」

「モノレだろ?まぁ、いい。それで、どうやって行くんだ?」

「グレーハウンドで行こうと思ってます」

「ヒッチハイクで行け。そこがフリーウェイの入り口だ。親指立てると、車が停まる」

実は高校時代から、僕はヒッチハイクに憧れていた。オッサンは僕の「やる気スィッチ」をONにしてしまった。行ってみるとフリーウェイ入り口には、すでにヒッチハイカーが何人も並んでいた。僕は列の一番後ろに並び、彼らと同じように親指を突き立てた。数台クルマが通過する。アジア人が親指立てているのが珍しいのか、ジロリと睨んで走っていくクルマが多い。

僕は急いでいるわけではない。仮にヒッチハイクできなかったら、予定通りグレーハウンド・バスでモントレーまで行けばいいだけ。20分位経った頃、セダンがスゥーッと僕の前で停まった。

「どこまで行く?」

「モントレーです」

「モントレー?」

発音が悪かったのか、行き先がうまく伝わらない。

Monterey、モントレーです」

「あぁ、モノレか… !

さっき聞いた、韓国系アメリカ人のオッサンの発音の方がここでは正しいと分かった。

「残念だ、方角が違う。ま、頑張れTake it easy!

最初の1台は去った。そして数分後、今度はオンボロ・トラックが停まった。

「どこまで行く?」

「モノレだけど

今度は躊躇せずモノレと言った。

OK、モノレまでは行かないけど、途中までなら乗せてやる」

Thank you…!」

助手席に乗る。自己紹介して、しばらく運転手と世間話をする。これは僕にとって、初めてのヒッチハイクじゃな買った。その3年前、尾道から広島まで、僕は日本でヒッチハイクを経験していた。でも、外国では初体験。結構簡単にいって驚いていた。フリーウェイをしばらく走った後、突然トラックは測道に入った。そしてまたフリーウェイの入り口付近で停車。僕を降ろしてくれた。

「ここで待っていれば、またすぐにつかまるよ。じゃ、Take it easy〜!」

トラックは走り去った。でも、本当に車はやって来るのか、そして乗せてくれるのか…?疑心暗鬼で待つ。もしも1時間ほど待って拾ってくれるクルマが来なかったら、その時は歩いて街の中心まで行って予定変更でバークレーに戻ったっていい。まぁ、Take it easy〜!ってな感じ。僕は結構お気楽だった。

まさに「♪Sunshine on my shoulder〜♫」な、キラキラと日差しが降り注ぐカリフォルニアの上天気。思わずジョン・デンバーの曲を口ずさんでしまう。クルマは決して多くはないけど、何台かは通過する。でも、止まってはくれない。20分近く経った。ははは、やっぱりダメかな…!覚悟はできていた。もう完全に開き直っている。続けて2曲目を口ずさむ。

「♪Country road take me home〜♫」

全くノーテンキ。僕はカリフォルニアに来てから、いいか悪いかは分からないけど、とにかく性格が少し「イイカゲン」に変わってしまったと思う。


※※→旅日記は[番外1975 California3−後篇]に続く!なお、2019年バークレー&サン・フランシスコの旅日記はただいま執筆&写真整理中。しばらく時間をください。



# by 1950-2012 | 2019-06-12 07:20 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

※2−前篇からの続き)

レンタ・カーを返却する前日。バーに飲みに行きたいと急にセイジが言いだした。僕たちは大学周辺のバーにちょっと飽きていたので、University通りを下ったダウンタウンの方へクルマで向かうことにした。それまで僕たちはダウンタウンの方に行ったことがなかった。いろんな人が「ダウンタウンは怖いから気をつけてね…!」というのでちょっと緊張していた。

University通りでクルマを止める。適当なバーを見つけてドアを開けた。全くの当てずっぽうだ。ちょっとでも危ないと思ったら、すぐに金を払って店を出ようと決めていた。店内をさりげなく観察し座る場所を物色。こういう時は、カウンターに座って様子を見るのがいい。僕たちは空いているカウンター席に並んで座った。

僕の左隣にアフロ・アメリカンの男が1人座っていた。目が合ったので、軽く「ハイ!」と言って、顎を上下に軽く動かし挨拶した。相手もクールに、抑揚を抑えた声で「ハイ」と言って僕に挨拶を返してくれた。僕はスコッチ・アンド・ウォーターを注文。セイジとシゲタはいつものようにビールだ。

水割りを飲みながら、ゆっくり店内を見回した。心の底から安心しきっているわけじゃない。ダウンタウンのバーでは何が起こるか分からない。店内のレイアウトとか他の客、その醸し出す空気を僕は動物的に感じ取ろうとしていた。僕は一見いい加減なように見えるけど、かなり臆病で慎重に繊細に行動を起こすこともあるのだ。

取り立てて危険でもないような気がした。だけど、気を緩めてはいけない。カウンターの反対側にはビリヤード・テーブルがあり、すでに常連客が何人かでゲームを楽しんでいた。すると突然、女が腰を振りながらやって来た。僕に色っぽい目線を送る。女はトイレに消え、続けてジゴロみたいな男が僕に話しかけてきた。

「あの女とやらないか?」

えっ、まさかトイレで?咄嗟に「No〜!」と言うのも失礼な気がした。ニヤリと笑って、一応値段を聞いてみた。隣席の男は、相変わらず素知らぬ顔で飲み続けている。ジゴロみたいな男はにやけた顔で「30ドル」と言った。高くはないけど、悪い病気をうつされるのも恐い。セイジとシゲタにも聞いてみた。

30ドルだって、やる?トイレで?」

2人は少し考えた。だけど、彼らも当然No!だ。

「すまないけど、オレたちあまり金を持っていないんだ…」

すると男はディスカウントすると言う。僕はもう一度ニコッと笑いながら「悪いけど、女は要らない、ゴメン…」と静かにもう一度言った。男は両手を軽くあげ、ブツブツ言いながらビリヤード・テーブルの方に帰っていった。僕は隣に座っている男に話しかけた。男は表情を変えずに「オレはリロイだ…」と名乗った。本当に物静かな男だ。

「オレはKaZoo、ヨロシク。日本から来た…」

なぜか分からないけど、リロイは他の客とは違う匂いを持っているように感じた。リロイがボソッと言った。

「以前、日本にいたことがある」

「軍隊?」

「そう、海軍。横須賀にいた」

「へぇー、こっちの2人は横浜だ。横須賀と東京の中間の大きな都市だ。たぶん知っていると思うけど。大きな米軍キャンプもある。僕もアメリカに来るまで鎌倉にいた。鎌倉、知ってる、ビッグ・ブッダのある古い都市?」

「あぁ、1度行ったことがある」

リロイとの間に共通する話題が見つかった。僕はこの時、もしものことを考えていた。何かこのバーで面倒なことが起こったら、誰かを味方にしなければならなくなる。普通ならバーテンとか店の人間が助け船になってくれるけど、ここでは何となくダメなような予感がしていた。下手をすればグルになって、嫌なことが起こらないとも限らない。

だったら恐い所に来なければよかったのだけど、もう来てしまっている以上どうしようもない。リロイだっていざとなればどうだか分からない。だけど、彼は話をしていても冷静だし失礼な感じもしない。僕は勝手に信頼できる男だと決めていた。直感だ。自慢ではないけど、僕の直感はかなりの確率で当たる。もちろん外れることがないわけではない。五分五分だ。

ビリヤード・テーブルでゲームを見ていたセイジが、突然彼らに誘われた。僕はやめておけと言った。賭けになったら、やられるのは目に見えているからだ。セイジは「誘った男が賭けはしないから、ゲームだけやろうと言っているんだ」と言う。しばらくしてセイジとシゲタは、ビリヤード・テーブルの方でワイワイとゲームに入っていった。僕はカウンターでリロイと話を続ける。

リロイの酒の飲み方が面白い。僕が「初めて見た…!」と言うと、彼はグラスを飲み干して、最初からやって見せてくれた。まずスコッチ・ウィスキーが2オンス入る小グラスと、ビールを並々と注いだ大きなグラスを置く。続いてビールを一口飲む。次にビール・グラスの上にウィスキーの小グラスを持って行き、そっと中に落として沈める。すかさず、泡がこぼれないようにビール・グラスを手でしっかり蓋をする。

泡がおさまった頃ゆっくり手を離す。ウィスキーの入った小グラスはビール・グラスの底にピッタリ収まり、2つの琥珀色の液体が優雅に融合する。液体の境目は、おぼろげに陽炎のような穏やかな波立ちを見せている。驚いたことに、ビール・グラスを押さえていたリロイの手は全く濡れてな買った。全くクールなヤツだ。

初めに一口飲むビールの加減が絶妙なのだ。何気なく飲んだようだけど、実はきっちりその量が計算されていたのだ。中の小グラスが動いたり音をたてないように、またビールの泡が立たないように、静かに口に運んでいたのだ。それがリロイの飲み方。その後しばらくして聞いた話だけど、この飲み方を韓国では「爆弾酒」と呼ぶらしい。

KaZoo、お前も飲むか?」

かなり強そうなので遠慮した。酔っぱらってしまっては、この危険地帯から無事に出られる保証はない。セイジたちは嬉しそうにゲームに熱中している。しばらくして、セイジが僕の所にやってきた。顔つきが妙だ。

「どうした?」

「賭けられている」とセイジが情けない表情で言った。

「え、だって賭けはないって言ってたじゃん?」

「オレとあいつの間には賭けがなかったけど、周りのヤツらが勝手にオレたち2人に賭けてたんだ。それでオレが負けたから、みんなにその分を払えと言ってる。どうしよう…?」

セイジの情けない顔がますます情けなくなっていく。彼をゲームに誘った男は、白いダブルのスーツを着た大柄なアフリロ・アメリカンだ。やがてその男が、ステップを踏むように軽い足取りでカウンターにやって来た。スーツの前ボタンをわざと外している。革製のホルスターに刃渡り20cmぐらいの大きなナイフが収められているのがチラッと見えた。やばい…!男は威嚇のために、ナイフをわざと見せているのかもしれない。

参った…!予期していた「まさか」が、本当に起こってしまった。僕は隣に座っているリロイを見た。彼も大体の成り行きは分かっていた。でも、素知らぬ顔をしていた。さて、どうする…?僕だって知らんぷりしたかったけど、逃げ出すわけにもいかない。何たってセイジもシゲタも英語はあまり得意ではない。僕が通訳しなければならないのだ。

僕は覚悟した。最悪は幾らになるか分からないけど、たぶん金で済むはずだ。僕はきわめて冷静に、呟くような感じでリロイに聞いてみた。

「リロイ、どうしたらいいと思う?」

OK、俺に任せろ…!」

リロイは静かに言って、ヤツらが集まるビリヤード・テーブルの方に行った。カウンター席に戻って腰を下ろしたセイジとシゲタは、2人とも顔色を失っていた。まぁ、当然だろう。最悪何かあっても、取られるのは彼らの金だ。しばらくして、リロイがカウンターに戻ってきた。

OK、心配するな…!」

僕はリロイに礼を言った。セイジとシゲタも恥ずかしそうな笑いを浮かべながら、リロイに小さな声で礼を言う。リロイは静かにクールに軽く頷くだけだ。僕はバーを出て行ったほうがいいと思った。セイジもシゲタもそう思っていた。

「これ以上ここにいると、また面倒が起こるかもしれない。君にも迷惑がかかるので、リロイ、僕たちは帰るよ…」

「その方がいい。じゃ、Take it easy, KaZoo…!」

僕はリロイとガッチリ強い握手をして、3人でゆっくりバーを出た。クルマに乗り込んでから、エンジンをかけて発車するまで、誰も一言も声を発しなかった。中でもビリヤードをやっていたセイジが一番緊張していたようだ。クルマが走り出した瞬間、堰を切ったようにセイジが口を開いて勢いよく喋りだした。

「やば〜っ、殺されるかと思った…!」

「助かった〜、カズさん、ありがとう…!」

続けてシゲタも僕に礼を言った。僕もフ〜ッと一息ついた。相手になめられないようにしていたけど、実は僕だってかなり怖かったし緊張していたのだ。下手をすれば、金を取られた上にどうにかされていたかもしれない。たまたま隣にリロイが座っていたからよかったけど、もしもリロイがいなかったら、どんな結末を迎えたか分かりやしない。最悪はサン・フランシスコ湾に、身元不明のアジア人の遺体が3つ浮かんだかもしれないのだから。

※※→旅日記は[番外1975 California3−前篇]に続く!なお、2019年バークレー&サン・フランシスコの旅日記はただいま執筆&写真整理中。しばらく時間をください。



# by 1950-2012 | 2019-06-08 08:25 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

アメリカは自動車がなくてはどうにもならない。長距離を走る鉄道もあるけど、例えば太平洋岸沿いを走るアムトラックは、1975年当時は1日1〜2本しかなかったと記憶している。しかもアムトラックは、他地域への乗り継ぎ路線がほとんどない。ハッキリ言って決して便利とは言えないのだ。他に長距離を結ぶ交通機関といったら、グレイ・ハウンドなど長距離バスがあるだけ。

バークレーで時間をつぶすことが多かった僕は、近隣を走り回る手軽な移動手段が欲しくなった。それで金銭的に余裕があるわけじゃないのに、大胆にも自転車を買うことにした。大学近くのシャタック通りに大きな自転車屋があった。中古でいい。とにかく店に見に行ってみた。僕は身長165cm。足は自慢じゃないけど長くない。学生たちの多くが乗っているロードレーサーみたいな自転車は、足が地面につきにくいから対象外だった。

僕はハンドルが「Y」の字をした、ちょっとハーレー・ダビッドソンのチョッパー型に似た、クルーザー・バイシクルみたいな自転車を選んだ。メーカーはSchwinn。自転車を手に入れてから、サン・フランシスコ湾のバークレー・マリーナや隣町オークランドのレイク・メリットまで足を伸ばした。帰国する時、自転車を日本に持って帰りたかったけど輸送費がかかるので、アパートの他の日本人に売ってしまった。

ある日、同室のセイジがレンタ・カーを1週間借りたいと言った。といっても英語が不得手なセイジ。手続きのほとんどは僕が手助けした。クルマを借りた翌日、仲間4人で北カリフォルニアをドライブしようということになった。50州の1つカリフォルニアといえど、日本の1.5倍ぐらいの広さがある。ドライブと言っても、行く先を決めないととんでもないことになる。

僕たちにはレンタ・カーのオフィスでもらった簡単な地図だけで、他に情報は何もなかった。いい加減なものだ。出発前日、バドワイザーを飲みながら、みんなでどこに行くかあれこれ話しあった。アパートの他の友人からも情報を得た。僕は南カリフォルニアのロス・アンジェルス方面は道が混んでそうだし、これからいつでも行けそうだということで回避したかった。ということで選んだのが北カリフォルニア。こっちの方面は普通、誰も行こうなんて考えないだろうと思った。

まずは州都サクラメントを目指す。広いフリーウェイをグングン走るのはとても気持ちがよかった。映画で何度も見たフリーウェイの風景を見ているだけで、僕は大いに満足した。サクラメントでは州会議事堂や、開拓時代の古い町並みを見た。その後、サクラメントから進路を北へ取り、いよいよ日本人観光客など滅多に来ない地域に入った。フリーウェイは気持ちいいぐらい真っ直ぐ。地平線まで一直線に続いていた。この辺りまで来ると、行き交うクルマはほとんど見ない。

天気が悪くなってきた。時刻も夕方近く。視界も悪くなり始めている。その時だ。突然後方からサイレンが聞こえたのは。ゲゲッ、何だ…?!後を見ると、赤と青のパトカーのシグナルがチカチカと点滅していた。やばい、捕まったぁ〜!この時、クルマに乗っている全員の顔が一瞬にして青ざめた。

僕は以前いろいろな人間から、アメリカで警察に捕まった時の注意を受けていた。許可なく手をポケットに入れていてはいけない。時には正当防衛で撃たれることもあるからだ。もしもポケットから何かを取り出したい時は、相手にポケットの場所が見えるようにし、警察官に許可を確認してから、親指と人差し指2本で免許証やパスポートをゆっくり取り出す。とにかく慎重に丁寧に行動しろと教えられていた。

運転していたセイジは、クルマを路肩に止めてブルブル震えていた。僕は冷静に彼に忠告した。

「あのさ、警察官が来る前に、ダッシュボードの上に免許証とかパスポートを置いておく方がいいよ。ついでに両手も見えるように、ハンドルの上に置いておく方がいい…」

あらかじめ窓は開けておいた。とにかく面倒は避けたい。いくら僕が他の連中より英語がちょっとできるといっても、警察官とこんな形で話をするのは初めてだ。セイジほどではないけど、僕だってやっぱり緊張していた。後方でパトカーが停まる。ドアを開けて警察官が1人降りた。映画で何度も見たように、利き手を銃の上に置いたまま近づいてくる。運転席側ドアのやや後方で立ち止まり、窓越しに車内を見た。怪しい動きをすれば1発ズドーン!だ。

「免許証は?」

警察官の抑揚のない声が聞こえた。セイジはダッシュボードの上の国際運転免許証を指さした。僕は後部座席から警察官に話しかけた。

「僕たちは日本人の観光客です。運転している友人はあまり英語が話せないので、代わりに僕が通訳します」

警察官は軽くうなずき、セイジのパスポートと国際運転免許証を見た。その時イロイロ言われたけど、僕だって緊張している。全て理解できたわけではなかった。とにかくスピードが出過ぎていたと注意された事だけは分かった。

「ふん、なるほど。OK、これからスピードに注意して、気をつけて走るように!」

警察官はレイバンのサングラス越しにクールにそう言った。まずは、無罪放免。やったぁ…!運転していたセイジはフーッと大きな溜息を吐き、警察官にぎごちなく礼を言った。やはりかなり緊張していたようだ。もちろん僕も他の2人も、みんな心臓が口から飛び出しそうなくらい緊張していた。誰だって外国で、突然警察官に呼び止められ質問なんかされたくはないのが当然だ。

パトカーが走り去った。数秒間の沈黙があった。しばらく後、みんな堰を切ったように突然しゃべり始めた。緊張の糸が切れたのだ。とにかく無罪。よかった…!助かった…!ただそれだけ。逮捕されたり、狙撃でもされたりしたら、どうなっていただろう…?そんなことを想像しただけでも、背筋を冷や汗がタラタラと流れる。

クルマはさらに北カリフォルニア中央部を北上。レディングという小さな街まで走り続けた。大分暗くなってきたのでレディングに泊まることにした。レディングと言うと僕たち世代はまず、R&Bの有名シンガーであるオーティス・レディングを思い出す。でも、街の名とは全く関係はない。

まずはモーテル探しだ。しばらく走って料金の高くなさそうな、雰囲気のいいモーテルを見つけた。宿泊交渉は当然僕の仕事。4人で2部屋に分かれる。無機質な部屋にはベッドが2つとモノクロのテレビが1台。後はシャワー・ルームと小さな冷蔵庫があるだけ。全く簡素。映画で何度も見たアメリカのモ-テルそのものだった。僕はただそれだけでも嬉しくて、無意味に大げさに感動していた。

翌日は進路を西に取り、山越えで太平洋岸に出ることにした。途中「ウィスキー・レイク」という、酒飲みが聞いたら喜びそうな湖に立ち寄った。その後、幹線道路からちょっと奥まったところにある、ネィティブ・アメリカン(=インディアン)の居留地などにも行ってみた。そうして夕方早めに、海沿いの小さな街ユーレカに到着。ユーレカなんて街は、たぶん日本人観光客などほとんど行かないだろう。

ちょっと調べたら面白いことが分かった。「ユーレカ」(Eureka)はギリシア語に由来する感嘆詞。数学者アルキメデスが原理を発見した時に思わず叫んだ言葉だ。さらに「Eureka」 はカリフォルニア州の標語で、1870年から使用されているカリフォルニア州章にも文字があるという。もちろん、僕たちがユーレカを訪れたのはたまたまの偶然。アルキメデスの「ア」の字も頭の中にはなかった。

3日目はドライブ最終日。バークレーに戻る。ユーレカを朝早く出た僕たちは、途中に1964年創立のレッドウッド・カレッジという小さな地元の大学に立ち寄った。その後、南へ南へとクルマを走らせる。サン・フランシスコまで後2時間ぐらいの距離。カリフォルニア・ワインの産地ナパ・バレーの近くで、僕は突然行き先変更を提案した。

海岸沿いに走って、太平洋に沈む夕日を見たかったからだ。クルマは突然進路を西に取り、再び山の中に入る。僕は道路地図とにらめっこしながら、知らない道を勝手に「あっちだ!こっちだ!」とナビゲーションした。クルマは何とか太平洋岸に出たけど、沈む夕日には間に合わなかった。

その後は海沿いに走ってスティンソン・ビーチという、小さな海辺の街に出てから、ゴールデンゲイト・ブリッジを渡ってサン・フランシスコへ。さらにベイ・ブリッジを渡って無事バークレーに戻った。たった2泊3日の短いドライブ旅行だったけど、僕としては大いに満足した。でも、他の3人はきっと北カリフォルニアではなく、メキシコ国境を越えたティファナ辺りに行きたかったのかもしれない。 


※※→旅日記は[番外1975 California2−後篇]に続く!なお、2019年バークレー&サン・フランシスコの旅日記はただいま執筆中&写真整理中。しばらく時間をください。





# by 1950-2012 | 2019-06-04 17:48 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

(1−前篇からの続き)

翌朝、セイジとシゲタと3人でバプティスト教会まで行った。この時が、明るいアメリカの風景を見た初めての瞬間。教会では電話のかけ方など、アメリカ生活に必要なオリエンテーションがある。場所は1970年代初期、学生たちが起こした学生運動の中心地ピープルズ・パークの真ん前。アパート前のEllsworth通りを左に出て、Dwight通りを左に曲がって山の方に向かい、Telegraph通りを突っ切って1ブロック行く。

僕たちが教会に到着した時、英会話クラスに入る人間の、それぞれの語学力に応じたクラス分けのテストをしていた。僕たち3人はフリータイム。全くの観光目的で、英会話の勉強をしに来たわけでない。といって、英会話の勉強が必要ないほど語学力があるわけでもなかった。僕だって金銭的に余裕があれば、英会話の勉強をしたいと思っていた。だけど、叔母から借金して来ているからそんな余裕はない。

当時の僕には、本牧の米軍ベース・キャンプに住むアメリカ人の友達がいた。鎌倉の叔父の家の近くにはユース・ホステルがあり、時々宿泊している外国人旅行者と話していたから英語には慣れていた。日本人としては、かなり英語が話せる方だったと思う。だけど、その意味もない自信も、すぐに滅多滅多に打ち崩されることになる。

バークレー到着直後、近くのスーパー・マーケットに行った時のこと。牛肉を買おうと売場のアフリカ系女性に話しかけた。すると彼女の返答がすごく早口だった。何を言っているのか全く聞き取れなかった。とりあえず欲しい牛肉を指さして買うことはできたけど、あまりの早口英語に強烈なショックを感じた。これが最初の洗礼だ。他でも同様の、容赦ない早口英語攻撃にさらされる。もう、ほぼ無条件降伏。

以来、僕は英会話恐怖症になった。考えてみれば、カリフォルニアには僕と同じ顔をした日系移民も中国系・韓国系移民もいる。だから僕を旅行者ではなく、普通の現地生活者だと思ったとしてもしかたない。それに僕は他の日本人のようにこぎれいな服装でなく、どちらかというと湘南のサーファーっぽく、フランネル・シャツとかよれよれのジーンズ姿だった。だから、手加減なしで話しかけられることが多かったのだ。

英語だってただの言語。どんな馬鹿だって、アメリカで生まれてアメリカで育てば、英語なんて何とかなる。同様に、日本で生まれて日本で育てば、こんな面倒臭い日本語だってそれなりに扱えるようになる。1週間もすれば慣れた。と言うより開き直っていた。どうでもいいことは聞き流す。肝心なことは聞き返す。言いたいこと・大事なことはしつこく確認しながらゆっくり話す。それがバークレーで身につけた僕のブロークン・ロール・イングリッシュだった。

到着翌朝。とにかく見るものすべてが目新しかった。温暖なカリフォルニア州とはいえまだ2月上旬。サン・フランシスコ湾を囲むベイ・エリアの朝は肌寒い。生まれて初めて歩くアメリカ。かつて何度も映画で見たアメリカの道を、今、自分が本当に歩いている…!地に足が着いてなかったというか、まだ自分が本当にアメリカにいるという実感さえなかった。初めての外国体験。興奮して当然だ。

何たって憧れの、夢のカリフォルニア。気分は最高だった。僕は意気揚々とバークレーのストリートを歩いた。その時だ。鎌倉の稲村ガ崎のサーフ・ショップで買った、畳表を使った草履が、何か妙なフニャッとした物を踏んづけたのは。草履は底が薄い。だから、踏んづけた感触はかなり繊細に伝わった。

「あぁ〜、Dog Shit…!」

ワンコの糞だった。アメリカ到着早々、何もそんな物を踏まなくてもよさそうなものだ。靴ならまだいい。格好つけて草履なんか履いて歩いたから、何かの罰が当たったのかもしれない。バークレーでは道路だけでなく、公園などにも地雷のようにDog Shitがばらまかれていた。ワンコに悪意はないだろうけど、踏んだら最悪、要注意。アメリカでは日本のように家に入る時、靴を脱ぐ習慣がない。靴を脱いで入らないから、犬の糞を踏んでしまったら、床のカーペットが汚れる。全く不衛生この上ない。

そうそう、バークレーのワンコたちは面白い。彼らは日本のワンコたちに比べ、どことなく飼い主から自立し、自由に自らの意志で生きているように見える。時には哲学者のように、心静かに思索に耽っているように見える瞬間もあった。散歩の時も、飼い主と一緒にリードの紐などつけずに歩いていた。ある時、赤信号で信号の色が変わるのを座って待っているワンコがいた。そして信号が青になると、落ち着いたそぶりで横断舗道を渡っていった。

躾が全く違う。とにかくワンコたちは吠えない。ワンコたちは大学構内の噴水のある広場で、首輪もリードも付けず、時には飼い主も連れずに集っていた。多い時には20匹近く。互いに匂いを嗅いだり犬同士の挨拶はするけど、吠えたり威嚇したりすることなく静かに時間を潰していた。

飼い主である学生か教授が、授業を終えるのを静かに待っているのだ。ワンコたちは自分たちが入れない場所をわきまえていた。飼い主が戻ってくるまで、とりあえずいつもの噴水のある広場で、仲間たちと一緒に時間を潰していたのだ。大学のある街で暮らしているから、ワンコといえど、いつの間にかIQが高くなったのかもしれないと僕は勝手に思った。とにかく素晴らしく賢いワンコたちだった。

だけど、いくら素晴らしいから賢いからといって、踏んだ糞まで素晴らしいということはない。はっきり言って許せない。といって、どのワンコの糞か知りようもない。分かったところで、怒る方が間違っている。くそっ、Dog Shit…!というわけで、犬の糞から僕の素晴らしいバークレー8週間滞在の旅が始まったのだ。

ワンコの話をもうひとつ。ある時、僕はTelegraph通りとDwight通りが交差する古本屋に入った。何となく古本を見たかったからだ。フロアに座ってページをペラペラめくっていると、1匹のワンコが僕をじっと見ているのに気づいた。目が合う。小さな声で呼びかけると、ワンコは首を傾げて素知らぬ顔で別の方に去った。しばらくすると、今度は反対側から僕を見ていた。

不思議なワンコだと思った。本も見飽きて古本屋を出ようと入口に向かうと、もう一度ワンコと出くわした。頭を撫でようとしたら、さっと体をかわされた。もしかしたらあのワンコはガード・マンならぬガード・ドッグで、怪しい目の細いモンゴリアンが本を盗むかどうか監視していたのかもしれない。とにかくバークレーで出会ったワンコたちは、日本のワンコたちとは何かが違っていたのだ。

僕たちのアパートの斜め向かいに、小さなコンビニエンス・ストアのような店があった。歩いて1〜2分。とっても便利だから、ビールやコーラや袋麺などをよくその店で買った。店主はメキシコ系のオッサン。ということで、日頃の挨拶はスペイン語。この店で驚いたのはビーフ・ジャーキーだった。それまで僕は、日本でもビーフ・ジャーキーを食べたことがあったから、ビーフ・ジャーキー自体は初めてではなかった。

僕が驚いたビーフ・ジャーキーは、レジ横のガラスの器に入っていた。それはまさに干した肉って感じ。僕が日本で食べたビーフ・ジャーキーは、サラミ・ソーセージを薄く延ばしたような形状。だけどバークレーのビーフ・ジャーキーは、TVドラマ『ローハイド』など西部劇で何度も見た、まさに「干し肉」だったのだ。これが抜群に旨かった。最近僕がよく成城石井で買う、袋入りの天狗印のビーフ・ジャーキーがまさにそれ。ちなみに僕が好きなのは「HOT PEPPER」味。

何たって初めてのアメリカ。出逢うものすべてが珍しかった。その頃はまだ『Made In U.S.A.カタログ』の出版前。とにかく情報がなかった。コカコーラのボトルだって、異常に大きかったので最初はビックリした。今時なら当たり前だけど、1リットルとか2リットル入りの巨大なボトルを見た時、やっぱりアメリカと戦争したのは間違いだったなぁと気づかされた。もっと驚いたのは、そんな大きなボトルを歩きながら飲んでいるアフリカ系の若者を見た時だ。アメリカ到着後しばらくの間、僕の頭の中では「!!…!!…!…!!!」いつもビックリ・マークが点滅していた。

観光客の僕たちも、酒類を買う時にはIDが必要となる。IDはパスポートや国際免許証などで代用が効く。カリフォルニア州では21歳以下には法律で酒が売れない。バーなど酒類を販売している場所にも出入りできない。とはいえ蛇の道は蛇。映画『アメリカン・グラフィティ』では、年齢が若すぎて酒を買えないトードが一計を案じる。店に入ろうとしていたある男に金を渡してウィスキーを買ってくれと頼むのだ。

男はトードの頼みを気軽に引き受けた。しばらくすると店内から銃声が聞こえる。頼まれた男は走り去りながら、頼まれたウィスキーをまるでフットボールをパスするかのように投げて逃走する。店からはショット・ガンを手にした店主が出てきて、男を目がけて何発も撃ち放す。何とも壮絶な酒の入手方だった。

ID提示の洗礼を一番初めに受けたのが「Key Stone」というライブハウスだった。ある夜、友人3人とライブを見に行った。それ以前Key Stoneに入った時、パスポートを用意していたけど入口で何も言われなかった。だから、また見ないであろうと勝手に決め、パスポートを持たずにアパートを出た。

Key Stoneに入ろうとした時、入口の男に「IDを見せてください」と突然言われた。当時24歳だった僕は自分の年齢を言い、以前IDなしで入ったことがあると説明した。男は頑として認めようとしない。アパートからKey Stoneまで走って大体15分。戻るのは面倒くさいけどLIVEは見たい。その夜の出演はTower Of Powerだった。どうしても見たかったので、僕は戻ることにした。それ以降、酒を飲む可能性のある場所に行く時は、必ずパスポートを持参するようになった。

毎回、パスポートを持ち歩くのは紛失や盗難の危険がある。アジア人は欧米人に比べ若く見られがちで、アルコールを提供する店ではID提示を要求される。若く見られがちな人は、無くしても大丈夫なIDをいつも携帯する方がいい。パスポートのコピーでも大丈夫だと聞いたけど、実際のところは分からない。一番便利なIDがある。国際運転免許証だ。これなら何かの理由で無くしたとしても諦めがつく。


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# by 1950-2012 | 2019-05-31 20:55 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

僕は1990年から2013年にかけ、20回以上もヨーロッパをうろついたけど、最初に外国旅行をした地は、アメリカ合衆国のカリフォルニア州だった。話はちょっと翔んじゃうけど、僕は1960年代中半の高校時代から、とってもヘタだったけどバンドを組んでROCKにのめりこんでいた。担当楽器はドラムス。あの時代、僕の高校には何組もバンドがいて、学園祭などは異常に盛り上がっていた。

僕が通っていた高校は進学校で、受験を控えた3年時は勉強も忙しくなり、それ以上ドラミングが上達しないことも悟りはじめ、徐々にバンド活動から遠ざかっていった。そして受験。その年は安田講堂で全学連と機動隊のバトルがあり、東大の受験は執り行われなかった。とはいえ、元々東大受験なんて無理だった僕は、渋谷にある某私立有名大学を受験し、たぶんスレスレだったと思うけど何とか合格することができた。

大学に入って間もなくのことだ。60年代末、アメリカではニュー・ヨーク近郊ウッドストックのだだっ広い原に数万人もの若者たちが集まり、史上最大のロック・フェスティバルが盛大に開催された。僕もLIVE映画を見てシビレにシビレ、再びバンド活動を再開したけど、やはりドラミング技術は全く進歩しなかった。

大学に入って2年目に休学した。アルバイトで金を貯めて、シベリア鉄道経由でヨーロッパに行きたいと密かに目論んだ。でも、金は思うように貯まらずヨーロッパ行きは断念。翌年復学したけど、夏休みを終えて突然大学を中途退学。なぜかそれまで「コピーライター」なんて言葉も知らずに生きてきたのに、大胆にもコピーライター養成講座に通い出した。僕の人生はこの頃から、ムギュ〜ッ!と変化球のように急に軌道を外れたり、時に危うく自分も他人も欺きながら現在に至っている。

面白かったのは、大学で同じクラスだったヤツが、広告研究会に入っていて、なぜかコピーライター養成講座の受付をやっていたことだ。さらに面白いことは、それから10年近く後、僕がコピーライター養成講座でラジオCMの講師をやっていたことだろう。人生なんて、その先どうなるかなんて全く分からない。たぶん、なるようにしかならない。だから、なるようにするしかない。

せっかくの大学を中退してコピーライター養成講座なんかに行っちゃったから、どうしたって広告関係の仕事を探すしかなかった。だけど大学中退では、面接の時に高卒扱いをされることもあった。そんな時に「あぁ、あの時、大学をとりあえず卒業しておけばよかったかなぁ…」などと何度後悔したことか。

それでも講座修了後、何とか担当だった講師を頼って、某TV局関係のCM制作会社に潜り込み、幸先よく社会人生活をスタートすることはできた。それからハチャメチャな制作現場のAD生活が始まる。僕はROCKを演奏するように、毎日全速でギンギンにシャウトしながら生きていた。そしてAD生活を始めて3年近く過ぎた1994年暮れ、突然元講師の上司との仲が険悪になり制作会社を退社する羽目に。全く…!

そんな頃、ふと大学を休学してまでアルバイトに夢中になっていた時のことを思い出した。僕は本来ヨーロッパを放浪したかったのではなかったのか…?この際何でもいい、とにかく僕は大きな変化が欲しかった。日本を脱出しなければダメだ。やはり旅に出るべきだ。東京でベタベタ友人たちと語り合っていたって、素晴らしいことは何にも起こるわけない。今風に言えば「自分探しの旅」ってヤツが必要だった。

行き先は当初考えていたヨーロッパではなく、ROCKARTMOVIEなど、たくさんのポップ・カルチャーを生み出すアメリカ西海岸に変わっていた。「If you goin’ to San Francisco〜♪」当時、僕も含めて日本のROCK狂いの若者たちは、サイケデリック文化の花が咲いた通り「ヘイト・アシュベリー」のある街サン・フランシスコに憧れていたのだ。

CM制作会社を辞めた翌1975年2月上旬。僕はカリフォルニア州、サン・フランシスコ湾対岸の大学町バークレーを目指すことに決めた。そのため、英語研修や短期英会話留学をメインとする会社主催の「フリータイム8週間」というツアーを予約。ツアーには往復の航空券代と、8週間分のアパートの賃貸料だけが含まれていた。現地到着後は、好き勝手に8週間遊んでイイよ!というのが気に入った。

この頃の為替レートは、戦後から続いた固定相場の1ドル=360円ではなく、1973年4月から変動相場制に移行して1ドル=280円ぐらいだったような記憶がある。当時にしてみれば、ドルが安くなったと世間では喜んでいた。と言っても1ドル=110円台の今から考えれば、ドルの価値は異常に高かった。元々貯金なんて全くなかった僕は、鎌倉の叔母から旅行費用のほとんどを借金して旅立つしかなかった。

渡米直前、日比谷で映画『アメリカン・グラフィティ』を見た。そこには1960年代前半のカリフォルニアの小さな街風景が、カラフルにロマンティックに描かれていた。映画を見て、僕の頭の中ではアメリカへの夢とか憧れが異常に膨らんでいった。目指すバークレーがどんな街であるか、当時は情報がほとんどなかった。でも、カリフォルニア。腐っても、夢のカリフォルニア。僕にはそれだけで充分だった。

バークレーから帰国して数年後に分かったことだけど、僕は旅立ち以前に、実は映画の中でバークレーを見ていた。それはダスティン・ホフマン主演の『卒業』。映画の中で、ダスティン・ホフマンがキャサリン・ロスを追ってクルマを走らせた街がまさにバークレーだった。そういえばキャサリン・ロスのアパートの隣部屋の住人役で、まだ無名だったリチャード・ドレフィスが出演していたっけ。

航空機は割安のチャイナ・エアライン。出発空港は羽田。途中ハワイを経由し、そこで入国審査を受ける。僕は鎌倉の従兄弟の友人から、当時はまだ流行っていなかったアルミフレーム製のリュックを借りていた。髪の毛も長かった。身なりにしたって粗末。ヒッピーではないけど、ヒッピーのように貧乏そうに見えたと思う。アメリカ入国の際、僕は十分な現金を持ってなかった。目的が観光とはいえ、約2ヶ月のアパート滞在。当然入国審査官には怪しまれた。

初めての海外の旅で、最初のトラブルがハワイの入国管理でのゴタゴタ騒ぎだった。下手をすれば、そのまま日本に戻されそうな気配すらあった。その時、僕は他の日本人から比べれば英語は話せる方だった。とはいえ、それは日本でのこと。アメリカに着いたら、あまりの早口ネイティブ・イングリッシュに耳がついていけなかった。係官の言ってることが、精神的な動揺もあって全く理解できなかった。アメリカに入国できず、このまま日本に返されてもしようがないと腹をくくった。

その時、どこの誰だか分からないけれど、日本語が出来る空港スタッフが、僕は不法滞在を目的とした人間でないことを丁寧に説明してくれた。助かった。そして無事に入国できた。BANZAI〜!飛行機はハワイからサン・フランシスコへ飛んだ。サン・フランシスコ空港到着は夜だった。出迎えのバスでツアーの仲間と一緒にバークレーを目指す。車窓風景も暗くて、まだアメリカにやって来たという実感はなかった。

午後10時を過ぎ、バークレーEllsworth通りのアパートに到着。ツアー会社はそのアパートのほとんどを借りていたようだ。僕の部屋は109号室、2ベッド・ルームを4人で使用する。部屋には僕たちが来る数週間前からケンジが住んでいた。ケンジは京都出身で僕と同い年。彼はまるで牢名主のような威厳を持って、僕たちアメリカへの新参者3人を迎えてくれた。

僕はケンジと一緒の部屋を使うことになった。他の2人、横浜からやって来たセイジとシゲタは別の部屋。彼らは子供の頃からの友達だそうで大学も同じだと言った。シゲタは当時流行っていたTVSoul Train』に出てきそうなアフロ・アメリカン系のファッションをしていた。2人とも僕に比べたら若くて所持金も多く、裕福な家の息子であることだけは確かだった。

到着当日のその夜、落ち着いたところで腹が減ってきた。バークレー生活に慣れているケンジに「ちょっと腹が減って、何か軽く食べたいんだけど…?」と言うと、アパートの近くにサンドィッチ・ショップがあると僕たちを連れていってくれた。これがアメリカ最初の買い食い。店内に入って驚いた。やたら広いのだ。カウンターで注文。パンの種類から具までイロイロあって、それを選ぶだけでも大変だった。さらにその量、ヴォリュームがスゴかった。大口を開けなければ食べられない。顎の関節が外れそうになるほどだった。今時なら驚くほどでもないだろうけど、当時の僕にとっては、まさにメガ・トン級のカルチャー・ショックだった。(#1−後篇続く)


※※→旅日記は[番外1975 California1−B]に続く!なお、2019年バークレー&サン・フランシスコの旅日記はただいま執筆中&写真整理中。しばらく時間をください。

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# by 1950-2012 | 2019-05-28 05:50 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

旅先での必需本といえば、僕にとってお馴染みのガイドブック『地球の歩き方』と、これもまたお馴染み、トーマス・クックの『時刻表』になる。これはたぶん、多くのひとり旅好きな人と同じだろう。その他には必要に応じて、それぞれの地域や歴史に関する資料となる文庫本。といって僕はあまり事前に知識をつけたくない方だし、荷物が増えるのはイヤだから、航空機内で読む本以外は極力持っていかない。

今まで旅に持っていった文庫本。例えば1997年春オランダを旅した時は、司馬遼太郎さんの「街道をゆく」シリーズの『オランダ紀行』をバッグに忍ばせた。1999年末~2000年始に旅したアイルランドでも、同じく「街道をゆく」シリーズの『愛蘭土紀行』を持っていった。これもすごく役に立った。2001年末~2002年始のイングランド旅行では、高尾慶子さんの『イギリス人はおかしい』と『イギリス人はかなしい』2冊の文庫本。シニカルな英国&英国人観が微妙に役立った。

2013年初夏ドイツを旅した時は、日本画家・東山魁夷さんの小画集『ドイツ・オーストリア』(新潮文庫)を持っていった。これは以前、NHK教育テレビの美術番組で見た1枚の絵『窓』が載っていたからだ。絵のモチーフとなった窓は、ドイツ「ロマンティック街道」のハイライト古都ローテンブルクにある。その窓をどうしても自分の目で見てみたい。それで文庫本を持ってローテンブルクを訪れたのだ。東山サンが描いた窓は、街の南側シュピタール門のそばにある。

ガイドブック『地球の歩き方』については、良くも悪くもイロイロと使う人それぞれに思いがあるだろう。僕にとってはそれなりに役立っているので助かっている。だけど他の人が『地球の歩き方』を見ながら外国の街を歩いているのを見ると、何となくアホな自分を見ているようでイヤになることもある。だから普段は『地球の歩き方』を丸めて、デイパックのサイド・ポケットに無造作に突っ込み、必要な時以外はなるべく見ないようにしている。

僕はどっちかと言うと「天の邪鬼」な性格だと思う。ガイドブックに頼って旅していると、何だかガイドブックにコントロールされて、自分の意思で旅ができてないように思えてしまうことが多々ある。だから突発的に、わざと『地球の歩き方』に掲載されてない街に行ってみようとする。まぁ、結果としては半々。ガイドブックに載ってない街は「それなりに、それなり」のことが多い。

トーマス・クックの『時刻表』は、旅に出る度に新しいものを買い求める。情報が古いと、旅先で困るのは自分自身。なるべく最新の物を手に入れるようにしてきた。と言っても現地で突然、鉄道会社の勝手&都合で運休とか変更もあるから100%信用している訳じゃない。だから駅の時刻表とも見比べ慎重に利用している。

ある時期まで、僕はトーマス・クックの『時刻表』を上手に使いこなしていると勝手に思い込んでいた。だけど50代半ば、ユーキャンで「総合旅行業務取扱管理者」の勉強をした時、それまでのトーマス・クックの『時刻表』の読み方が実は浅かったことに気づかされた。それまでの『時刻表』の見方は、かなり「いい加減」だったのだ。だからと言ってトラブルがあった訳ではない。仮にトラブルがあっても、旅の途中、自分で何とか乗り越えてしまったから大丈夫。でも、改めて学習できたことはとってもよかった。

トーマス・クックの『時刻表』の紙は薄い。ペラッペラだ。だけど本自体は全体で2cm以上の厚みがある。これが結構かさばる。ヨーロッパを隈なく旅するのなら全ページ必要だけど、数カ国旅するだけならほとんどが不要なページ。それで、ある時期から僕は必要な国のページだけ切り取って使うようにした。つまり必要な国の時刻表だけ抜粋して「再製本」と言うとちょっと大げさだけど、ボンドやガムテープなどを使って薄い本に加工したのだ。こうするとコンパクトで使いやすくなる。

本当ならどの国のどの駅にも時刻表があるから、トーマス・クックの『時刻表』などなくても何の不便もない。切符を買う時、窓口で相談すれば、係の駅員が親切に乗換駅や列車の時刻などいろいろプリント・アウトしてくれたりもする。ただその親切が仇となったことが過去に1度ある。

それは2010年初夏。オーストリアのチロル地方の中心都市インスブルックから、世界遺産の湖畔の街ハルシュタットに向かう時だった。この時の旅程は36日。僕は1ヶ月間有効のユーレイル・グローバルパスを持っていた。残りの6日間は、駅でその都度2等車の切符を買うことにしていた。

その朝、早めにホテルをチェック・アウトしてインスブルック中央駅に向かった。2等車の切符を買って旅するのもこの日が最後。翌々日からはユーレイル・グローバルパスが使えるから1等車でゆったり旅ができる。この日から2日間は、ハルシュタット湖畔のオーバートラウンという小さな街に滞在。ホテルは予約済み。本当ならハルシュタットに泊まりたかったけど、何たって世界遺産。ホテルの予約がなかなかうまく取れなかったからしかたがない。

「オーバートラウン、1名、2等で片道…!」

切符売り場で行き先を英語で告げた。すると駅員は素早くPCを操作し始める。しばらくして途中駅のラドシュタットでバスに乗り換えるよう説明してくれた。

「えっ、途中からバスで移動なの…?」

途中駅からのバス移動は過去に何度も経験している。驚くことではない。でも、念のためだ。何たって僕はそんなに発音がよい方ではない。目的地の誤りはないか、自分で書いたメモを見せて再確認。すると駅員は「俺を信じろ!」という自信に満ちた顔を見せた。それから切符を印字し、その後バスの時刻や路線番号などの情報を別紙にプリント・アウトしてくれた。大変に丁寧で親切な対応に対し、僕は礼を言って気分よくプラットフォームへ向かった。

もしもレイルパスで旅をしていたら、バス乗り換えの情報はなく、途中駅で僕は焦ってしまっただろう。切符を買ってよかった。ちなみに前の晩、トーマス・クックの『時刻表』で調べたハルシュタットまでのコースは、[インスブルック中央駅からウィーン西駅行きICインターシティでビショップスホーフェンまで行く。そこでグラーツ行きに乗り換え、シュタイナハ・イルディングで再度乗り換え。最後はローカル線でハルシュタット1つ手前のオーバートラウンまで]だった。

プラットフォームに着くと列車は既に入線していた。早速空いている席を確保。隣のホームでは140分遅れの列車を待つ人の群れ。そのため僕が乗った列車も10分遅れで発車する始末。10分遅れは日常茶飯事、御の字と言ってもいい。

駅員の指示通り、途中駅のビショップスホーフェンで列車を乗り換え、ラドシュタット駅に到着した。列車を降りたのは数名。寂れた駅舎を抜けてバス停を探す。駅前にバス停があった。時刻表が貼ってある。インスブルック駅でもらった紙に書いてあるバスの発車時刻は1200で路線番号は780。同じバスがあるか調べる。あった、OKだ。

バスがやって来るまで25分近く時間があった。その辺をブラブラしたいけど雨が降っている。仕方ないから駅の中で時間を潰す。手持ちぶさたになり、時々駅前のバス停周辺をウロウロ。何気なくバス停の時刻表を見て、ある瞬間ふと気づいた。

「あれ…?バスの行き先はオーバートラウン(Obertraun)じゃない…!」

バス停の時刻表とインスブルックでもらった紙に書かれた地名は「Obertauern」だったのだ。一体、どういうことか…?しばし考える。ガイドブックを見て地名を再度チェックする。やっぱり違う。早速切符売り場で確認した。

「僕の行きたい場所はオーバートラウンなのですが、インスブルックの駅で切符を買ったら、この紙を渡され、ラドシュタットでバスに乗り換えろと言われたのですが、これは行き先がオーバートラウンではなく、別の場所ですよね…?」

駅員が紙を手にした。そしておもむろに「これは間違ってる…」と面白くなさそうに小声で言った。Wow〜!インスブルックの駅員が、勝手に行き先を間違えた…!僕が前日確認しておいた旅程でよかったんだ。でも、起きてしまったことはしかたない。諦めるしかない。ということで、改めてオーバートラウンまでの切符を買い直した。

もしも気づかず、インスブルックの駅員に言われた通りバスに乗っていたら…?と考える。間違えた行き先オーバータウエルンは、ラドシュタットからはさほど遠くない。バスでおよそ30分。すぐに戻れば何とかなる。それにしても、駅員が間違えたオーバータウエルンって一体どんな所なのか…?ちょっと気になった。

帰国後、僕はPCで検索した。何と、有名なスキー・リゾートだ。特筆すべきは1965年3月14日、映画『HELP』撮影のため、オーバータウエルンにビートルズがやって来たということだ。4人で雪の中へ背中から倒れるシーンが撮影されたのが、どうやらオーバータウエルンらしい。そうと知ってたら、間違えて行ってよかったかもしれない。

僕は希望を無駄なく正しく伝えるため、事前に日時や行き先の駅名、車両の等級などをメモして駅員に見せた。これなら間違いがない。ずうっとそう思ってきた。だけど念のために書いたメモも、全く役立たないことがあるってことを知った。旅も人と人との関わり。時々「Nobody is perfect.」なぁんてことが起こる、相手も自分も100%完璧ってことはない。旅は「トラブル」と「トラベル」の間を行きつ戻りつするってことだ。



# by 1950-2012 | 2019-05-18 08:26 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

199112月初旬。中野のバー・アンティグワで飲んでいる時、友人のドイツ人女性ロミー(仮名)が、突然僕にこう言った。

「私、クリスマスは故郷のアウクスブルクに帰るの」

それを聞いて、僕は即座に反応した。

「アウクスブルク、へぇぇ、どんな街…?」

「南ドイツ、ミュンヘンの近く。ロマンティック街道の街よ、聞いたことない…?」

「ふーん、アウクスブルクか、行ってみたいな」

「セキ、本当に来る…?それなら泊まる所を用意しておく…!」

ロミーは嬉しそうにそう言った。まさに「渡りに船」とはこのことかもしれない。それまでドイツには、1990年春に1度しか行ったことがなかった。その翌年1991年春は、デンマーク人の友達が実家に帰ると言ったので、僕も彼を追いかけるように初めてデンマークを訪れた。それ以来のヨーロッパ。それまで2回は春だったから衣服も楽だったけど、3度目は真冬。ちょっと気合いも入る。

クリスマスから2日後、僕は友人の柴田クン(仮名)と共に、お気楽気分で真冬のドイツへ旅立った。パリ経由でミュンヘンの空港に到着。その日は悪天候、かなりの大雪だった。しかしロミーは約束どおり、僕たちを空港まで迎えに来てくれた。とりあえずトミーの笑顔を見て、僕はほっと安心した。

何たって雪が降っている日の夜。しかも全く見知らぬ街。もしもロミーが空港に迎えにきてくれなかったら、はっきり言ってどうしようもなかった。その頃の僕はまだ旅慣れてなかったし、僕はロミーの言葉を信じて到着当日のホテルを予約してなかった。仮にそんな遅い時間、ホテル探しなど簡単にできるたどうか分かったものでない。本当に助かった。

僕たちはロミーの友人が運転するクルマで、雪のアウトバーンをミュンヘンからドイツ南部の古都アウクスブルクまでビューンと北上した。その時、僕はどんな所に泊まるかまだ何も知らされてなかった。まぁ、何か問題があれば、翌日ホテルを探せばいいだけ。とにかく到着当日の宿さえあればOK。別に金がないわけではない。後はどうとでもなる。

ロマンティック街道最大の都市アウクスブルク。約26万の人口を有し、ミュンヘン、ニュルンベルクに次ぐバイエルン州第3の都市だ。1500年頃はケルンやプラハに次ぐ神聖ローマ帝国最大規模の都市の1つであったという。2000年の歴史を持つアウクスブルクには、ルネッサンス様式が取り入れられた古い建造物が多い。紀元前15年ローマ人によって建設され、街の名は時のローマ皇帝アウグストゥスに由来している。

アウクスブルクには、モーツァルトの父親レオボルトの生家が残っている。生家は現在「モーツァルト・ハウス」という博物館。もしかしたら息子アマデウスも、この街に何度か立ち寄ったかもしれない。何たって敬愛する父の故郷。アマデウスが生まれ育ったのは隣国オーストリアのザルツブルクだけど、演奏旅行の途中、父と一緒にこの街に立ち寄ったとしてもおかしくはない。

アウクスブルク滞在中、僕は「モーツァルト・ハウス」に行ってみた。博物館2階には、ピアノの原型のような鍵盤楽器が展示されている。1785年製シュタイン作の名器で、ハンマーフリューゲルと言うのか、ハンマークラーヴィアと言うのか分からないけど、とにかく父親レオポルトが弾いた楽器だ。鍵盤楽器は窓から刺す冬の日の光をカーテン越しに受け、ひっそり往時を偲ぶように佇んでいた。

その時の僕は、キャノンPというマニュアルのレンジファインダー・カメラを首からぶら下げていた。カメラにはMade in GermanyライカLマウントのレンズを装着していた。セピア色の柔らかい光の中、静かで優雅な表情を見せる名器の姿。ただただウットリ魅せられる。思わず写真小僧の血が騒いだ。ドイツの風景や人・物は、ドイツのレンズで撮りたい。当時、僕はそんな妙なこだわりを持っていた。

光量を頭の中で素早く計算。絞りとシャッター・スピードを決めてフォーカスを合わせる。そしてシャッター・ボタン。そっと押すと、金属製のメカニカルなカシャッ!という軽い音。縦型のフィルムの中に、名器をしっかりと収めることができた。と言ってもデジカメではないから、上手く撮れたかは不明。帰国後、現像してニンマリ。上出来だった。今その写真は僕にとって、他人に自信を持って見せられる1枚になっている。

さて、僕たちが泊めてもらったのは、ロミーのボーイフレンドであるミヒャエル(仮名)の部屋だった。旧市街のベーカー・ガッセという細い裏通り。古ぼけた建物の、これまた古ぼけた階段をギシギシ音をたてて3階まで上がると、そこが僕たちの泊まる部屋だった。その3階のフロアすべてを、ミヒャエルが友人2人と一緒に借りていた。それはまさに絵に書いたような屋根裏部屋。

僕たちが泊まるため、ミヒャエルは急遽ロミーのアパートに泊まることになった。それまでロミーのアパートを使っていたのは彼女の母親。娘が帰ってきたので、母親はさらに自分の友人の家に泊まりに行った。僕たちがやって来たことで、彼ら善良なドイツ人は無理矢理みんな部屋を移動する羽目になったのだ。申し訳ない。

ミヒャエルは投資関連の仕事をしていた。僕は元々株式市場などに興味がない。だけどミヒャエルと日本の話をしていて、突然彼はこんな質問を僕にした。

「セキ、ニッカイは最近どうなっている…?」

ニッカイ…?耳慣れない言葉だった。詳しくはなくとも、僕だって日本の一般知識ならそれ相応に知っている。だけど「ニッカイ」は初めて聞く言葉だ。ニッカイ…?英語か、それともドイツ語か…?一応青山学院大学中退とはいえ、僕も英語は少々、ドイツ語だって第2外国語で、ちょっとはかじった方なのだ。

しばらく考えて分かった。「ニッカイ」とは「ニッケイ」のこと。そう、「Nikkei、日経平均株価」。投資関連の仕事をしているミヒャエルならではの質問だった。彼は「NIKKEI」をドイツ語読みで「ニッカイ」と読んだのだ。分かったといっても、残念ながら日本経済や株式市場に関して、僕は全く無知でどうにも答えられなかった。一応経済学部に通っていたのにね。

ドイツ語では「ei」を、「エイ」ではなく「アイ」と発音する。ドイツ語と日本語のちょっとした誤解は、その後にも1度あった。数日後、ロミーの女友達の別荘にみんなで遊びに行くことになった。別荘はミュンヘンから郊外電車で行ける湖のそば。木材をふんだんに美しく使った別荘は、建築家であるその女友達の母親の設計。無駄がなく、とにかく機能的で美しい建物だった。

別荘に到着してから、寒かっただろうと、ジンジャー・ティーをごちそうになった。その時だ。女友達の父親が現れ、壁一面に貼ったクリスマス・カードの中から、日本から届いたものを僕に見せてくれた。

「これは、カイコから。これは、ライコから…」

父親は嬉しそうに説明してくれた。もう分かったと思うけど、それは「カイコ」さんと「ライコ」さんからではなく、「ケイコ」さんと「レイコ」さんから届いたクリスマス・カードだったのだ。困った。僕はすぐに分かったけど、何となく正すのは失礼なような気がした。しかたなく「素晴らしいカードですね」と言って、謎の東洋人っぽくミステリアスに微笑んだのだった。

フランス語でも似たようなことがある。フランス語では「h」を発音しないことがある。例えば花子さんが「アナコ」さんで、北海道が「オッカイドウ」になってしまう。語尾だって、時には発音しないことも多いから面倒臭い。スペイン語だって「G」とか「J」は、日本語の「ハ行」っぽい発音になってしまうこともある。全く、世界は広い。知らないことがたくさんありすぎて楽しくなっちゃう。



# by 1950-2012 | 2019-05-13 20:14 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

ヨーロッパでもそうだけど、最近は日本でも街角の公衆電話BOXを見ることが少なくなった。お店などにあったピンク電話もなかなか姿を見ない。ピンク電話といえば、この間(5月5日)入った、渋谷の創業1971年というバー「グランド・ファーザーズ」の入り口付近に置いてあった。たまたま僕たちが座った席のそばで、突然電話がかかってきて、あの懐かしい呼び出しベルの音を聞いた時は妙に嬉しかった。

さて、これだけ携帯電話やスマート・フォンが普及すれば、公衆電話なんか使う人が減っていくのも当然。僕だって公衆電話をここ数年、いやもっと20年近く使ったことがない。確かに携帯電話というよりスマホは便利で手放せない。そんな便利なスマホだけれど、ヨーロッパを旅する時、僕は可能な限り持っていかない。

過去に1度、レンタルで携帯電話を借りたことがある。元々、人とあまり長電話するのが好きではないから、それで十分。旅先に電話なんか掛かってくるのはとっても面倒で迷惑。それはひょっとすると、友人が多くないからかもしれない。とほほ…!とにかく僕は旅先にまで、電話なんかに追いかけられたくなかったのだ。

と言いつつ、時には日本から旅先に緊急で重要な連絡が入ったりすることも、ごくごく稀にはあったりする。あれは2008年晩秋、フランスからイタリア、スイスをグルッと巡った時だ。3週間目旅の終盤、出発地パリに戻った。予約してあったセーヌ左岸のホテルのレセプションに、思いがけずも日本からFAXが届いていてビックリした。

FAXは東京の某FM局のCM担当Nさんからの仕事の依頼だった。慌ててNさんに連絡を取り「数日中に帰国するので、それから打ち合わせをさせていただきたい」とお願いした。あの時は旅立ち前に、予約したホテルの連絡先を後輩に伝えておいたので、何とか無事にFAXで連絡がついたのだ。最初から携帯電話を持って旅していれば、メールか何かでもっと早く簡単に連絡がつき、相手に迷惑をかけずに済んだと思う。分かっちゃいるけど…。

とはいえ旅先で、どうしても電話が必要な時だってある。そんな時は公衆電話ではなく、ホテルの電話を使うようにしている。座って落ち着いて、何か書くモノを傍らに置いておかないと話せないのだ。もしも英語など外国語を話す必要がある時は、事前に必要な言葉を調べて紙に書いたりしておかないとダ安心できない性格なのだ。

ということで、今まで旅先で電話が使えなくて困ったことはほとんどない。と言いながら、過去に公衆電話が使えなくて不便したことはある。それは2002年春ドイツの旅。デュッセルフドルフから急行列車(インター・シティIC)に乗って、歴史ある大学町ハイデルベルクに向かっていた時のことだ。

ハイデルベルク着は午後4時過ぎの予定。それからホテルを探してウロウロ歩くのもかったるい。電話で予約しようと考えた。ということで食堂車に向かう。食堂車に行けば公衆電話があるからだ。だけど当時、ドイツでも携帯電話が普及し始め、食堂車の公衆電話はスッポリ取り外されていた。しかたない。ホテル探しはハイデルベルクに着いてからだ。まぁ、何とかなる。今までも何とかしてきたのだからと諦めた。

ヨーロッパの街角で公衆電話が少なくなる以前から、僕はなぜか公衆電話の存在が気になって、気がつくと写真を何枚も撮っていた。公衆電話も電話ボックスも、国によってデザインや色彩が違うので面白い。今まで訪れた回数の多いドイツはもちろん、フランス、ベルギー、オランダ、イタリア、オーストリア、リヒテンシュタイン、チェコ、デンマーク、スウェーデンなどなど。デジカメを使い出してからはまるでダボハゼ、公衆電話を見るとすぐに食らいつくように撮っている。

その中で特に印象に残っているのは、2008年秋にイタリアで見た公衆電話だ。何だか鳥山明サンが描く漫画のキャラクターに似ていて面白かった。さてさて、公衆電話は時代とともにドンドン姿が消えていく。まさに「絶滅危惧種」ならぬ「絶滅器具種」という感じ。今のうちに、たくさん写真を撮っておかなきゃと思う。



# by 1950-2012 | 2019-05-09 17:37 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

他人に言うのは何だか気恥ずかしいけど、僕はテレビ東京の『YOUは何しに日本ヘ?』とか『世界!ニッポン行きたい人応援団』なんて番組を毎週楽しみに見ている。理由はスゴく単純素朴で恥ずかしいけど、世界の人が“NIPPON”の何に興味を抱いているのか、気になってしかたがないからだ。

例えばコミックス、アニメ、B級グルメ、大相撲、古武道、TVゲーム、行儀作法、戦国武将、和楽器、J-POP、古箪笥、タコ焼きなどなど。外国人の中には、日本人である僕たちが知らなかったり、見逃している“NIPPON”の物・事に深く興味を持っていることにいつも驚かされる。

僕は1990年からヨーロッパを旅し始めた。初めて“NIPPON”をヨーロッパの街で見かけたのはいつ頃で、どこだったろうか記憶をたどってみる。最初の旅1990年春はドイツだけ。GWをはさんで1週間とちょっと、急いで駆け巡る旅だった。

北ドイツ、ルール地方のゲルゼンキルヒェンで、友だちのドイツ人女性のクルマでデュッセルドルフまで行って、NIKKOホテルの和食レストランで夕食をとった。生暖かいホウレンソウのお浸しが出てきた時は、ちょっと面食らった。きっとそれが僕にとっての、ヨーロッパで最初に遭遇した“NIPPON”かもしれない。

1991年春はデンマーク。同じくGWにデンマーク人の友人が実家に帰るというので、僕も「これがチャンス!」と考えデンマークに旅立った。友人の住む街はフュン島の、童話作家アンデルセンの生まれ故郷オーデンセ。僕は彼の実家に数日滞在し、初めて北欧の都市と文化を体験できた。

オーデンセ滞在数日後、ユトランド半島にあるデンマーク第2の都市オーフスに、友人の友だちと4人で出かけた。僕たちが入ったカフェの近くに、ローマ字で“FUTON”と書かれた看板の店があった。他にもこの時の旅で、僕は“BONSAI”という看板も目にしている。すでにこの頃、布団や盆栽はヨーロッパで知られ、その人気も広がりつつあったようだ。

それ以降、僕は旅先でイロイロな“NIPPON”に遭遇する。例えば1993年春、以前訪れた南ドイツのプフォルツハイムを再訪。その時、友人女性のが近隣の世界遺産マウルブロンの修道院群を見に連れて行ってくれた。修道院群は1147年、ドイツで最初のシトー派修道会の修道院のひとつとして建てられた。その保存状態はアルプス以北でもっとも良いものだと言われる。

僕たちは日の光が薄く射し込む壮麗な聖堂内を、ゆっくり時間をかけて丹念に見て回った。修道院の中には厨房もあり、中世の修道僧の日常生活とはどのようなものだったかが窺いしれて面白かった。修道院の建物のそこここに、ロマネスクからゴシックへの建築様式の移り変わりが見られるというけど、ロマネスクとゴシックの違いが分からない僕には、まさに「猫に小判」だったかもしれない。

修道院は1556年、プロテスタントの神学校として新たな歴史を歩みだす。ここで学んだ学生には、フリードリヒ・ヘルダーリンやヘルマン・ヘッセらがいた。修道院を一通り見終わって帰ろうとした時に気づく。門の一部が本屋になっていたのだ。ウィンドウの中を覗くと、ディスプレイされている本の中に吉本ばななの『キッチン』のドイツ語訳版を発見。なぜドイツで、吉本ばなななのか…?僕が無知で知らなかっただけ。その頃、村上春樹などと共に、吉本ばななは欧米で高い評価を受けていた。そのため翻訳本も世界中で数多く出版され、ドイツの片田舎の本屋の店先にも出ていたのだ。

1997年春、オランダからベルギー、ルクセンブルク、ドイツ、デンマークをグルッと駆け巡った旅でも、思わぬところで“NIPPON”に遭遇。旅の最終地はオランダの大学町ライデンだった。ライデン大学はオランダで最も歴史があり、長崎の出島に医師として来日したシーボルトにもゆかりがある。ライデンはまた、幕末に榎本武揚や西周らが西洋の科学技術や法律を学ぶために留学した地でもある。

ライデン大学の植物園には、出島のオランダ人が持ち帰った“NIPPON”の数多くの樹木が今も青々と茂っている。植物園の一隅には、日本風の瓦屋根と紅殻色の壁に取り囲まれた庭園もある。庭園奥の方には『SIEBOLDフォン、シーボルト』と、ローマ字とカタカナで彫られたシーボルト像もあった。植物園から少し歩いた場所、運河沿いの建物の白壁に、大きくクッキリ黒々と書かれた日本語の筆文字があった。

『荒海や 佐渡によこたふ 天の川』

芭蕉の有名な句だ。でも、なぜこんな場所に…?しかも、白壁に墨痕鮮やかに日本語で…?一体、誰が書いたのか…?さすが世界で最初に日本学科が設置(1855年)された歴史あるライデン大学。シーボルトも含め、遥か遠い麗しの国“NIPPON”に対する彼らの熱い思い入れを、僕は勝手に感じてしまった。

僕は自宅にいる時でも、テレビを点けっぱなしにすることが多い。見ていなくてもテレビから音が出ていると落ち着くのだ。なぜか分からないけど、きっと静寂が苦手で、音のあることに安心できるのだと思う。だから意味なくおしゃべりでもある。ヨーロッパを旅していても、ホテルでは自宅同様テレビは点けっぱなしが多い。もちろん、ニュースや天気予報を見逃さないためという理由もある。

朝方は子供向けの放送が多いから、テレビから日本のアニメが流れることもある。もちろん台詞は全部現地の言語。それが絵とのアンバランスを生んで、不思議な感じに見えることがある。例えば2002年春、ドイツのミュンヘンで見た『チビまるこ』がそうだった。画面には僕が子供の頃見た風景が写し出されているのに、登場人物が喋っているのはドイツ語。はたして、ドイツ人にこの情緒が理解できるのだろうか…?そして、日本独特の家族関係みたいなものが分かるのか…?

同じくアニメと言えば1998年暮れ、まだ旧ソ連邦から独立したばかりのエストニアの首都タリンのクラブで見た、戦隊もののアニメにもビックリ。さらに2005年秋、北ドイツのハンブルクのホテルで見た『子連れ狼』もだ。これはアニメではなかったけど、主役の拝一刀はやはりドイツ語を喋っていた。もちろん「ちゃん〜!」と叫ぶ大五郎もドイツ語。何とも座り心地の悪い妙な時代劇になっていた。

アニメもそうだけど「コミックス」や「漫画」も、2000年以降ヨーロッパの街角でよく見かける“NIPPON”だった。2000年春、アムステルダムではピカチューが車体に描かれた路面電車が走っていた。2002年暮れ、フランス北部ノルマンディーの街カンを歩いていると“Fragments”というコミックス・ショップがあり、カタカナで「フラグマン」と書いた看板を通りに出していた。カタカナで書かれた店名には正直驚いた。

そうそう2004年春、スウェーデンを旅していた時だ。僕は南部のヴェクショーという小さな田舎町に1泊した。街をぶらついていると、道路に面した普通の家の窓に、何冊ものコミック本が飾られていたのにビックリした。たくさんある中で特に目を引いたのは『LONE WOLF AND CUB』。そう、日本人なら誰もが知っている『子連れ狼』。きっと住人は“NIPPON”大好きスウェーデン人かもしれない。それを道行く人々に、これ見よがしにアピールしていたのだろう。

外国人には漢字やカタカナ・ひらがななど“NIPPON”の文字が格好よく見えるらしい。2001年夏、フランスのブルゴーニュ地方ボーヌで入ったレストランの女性が、腕に「空」というタトゥーをしていた。あれは「くう」と読むのか、それとも「そら」と読むのか…?ちょっと気になった。

さらに2007年2月のフランス。アルプスに近い湖畔の街アヌシーで見た、真っ白く鮮やかな「痔」という漢字が大きくプリントされた、真っ赤なTシャツ。着ていたのは少年。何も知らず自慢げに着ていた。思わず写真を撮ろうと思ったけど、なぜか勇気がわかなかった。少年に漢字の意味を教えてあげたかったけど、これもやはり勇気がわかなかった。考えてみれば日本人だって、外国語がプリントされたTシャツを着ているけど、中には変な意味のTシャツがあったりするからオアイコかもしれない。

僕は旅先でいろいろな“NIPPON”と遭遇するけど、一番イヤというか許したくないのが「なんちゃって和食」かもしれない。2003年1月初旬、パリで夕食を食べようと歩いている時に見かけた、妙な店名の“YOKORAMA”とか“SUSHI-YAKI”なんて店には、腹立たしさを通り越して呆れるしかなかった。妙な店名といえば2007年2月下旬、帰国前日に泊まったドイツのフランクフルトの隣町マインツでも見ている。予約したホテルの前に妙な和食店があった。店の名は“Japanisches Restaurant TOKYO”だった。東京はドイツ語の「TOKIO」でなかったけど、それはOK問題ない。ただ「Restaurant」と「TOKYO」の間に、漢字縦書きで「京東」と逆に書いてあったのが許せなかった。

2003年1月上旬、フランスのロワール河畔の街ブロアに1泊した。夕食後に街をぶらついたけど、あまりの寒さに堪えきれず、僕はそそくさと滞在先のibisホテルに戻った。といって部屋ですることもなく、ウイスキーを飲みながらテレビを見ることにする。

チャンネルを回していると、偶然にも日本語の映画が放映されていた。しかもちょうど始まったばかり。ツイている。映画は北野たけしの『菊次郎の夏』だった。その映画は見たことがなかったので、何となく得をしたような気分。音声は日本語で、画面下にフランス語のタイトル文字。フランス語がわからない僕もこれなら楽。

映画はたけし扮する浅草のやくざ者が、子供と一緒にまだ見たことのないその子の母親を捜しながら旅を続けるというストーリー。久しぶりに思いがけず耳にした日本語。それは僕にとって、洋食ばかりが続いた食卓に、突然“NIPPON”風味アッサリしたお茶漬けが現れたように清々しいものだった。



# by 1950-2012 | 2019-05-05 10:02 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

いつ頃からだっただろうか…?旅先で目にしたモノは、とにかく何でもどん欲に撮ってやろうと思い出したのは。その思いが強くなりだしたのは、たぶんカメラをフィルムからデジタルに変えた頃かもしれない。デジカメは何枚撮っても大丈夫だし、さらに撮った写真を現場でチェックできるから失敗も少ない。まさにイイことずくめ。

枚数Freeになった途端、僕はまさにダボハゼのように、ほとんど目につくものは何でも食ってやろうという気になった。それまで、例えば公衆電話とか自転車のある風景とか、こだわって撮りまとめているモノもあった。それがデジカメに変えた途端、それまで見向きもしなかった、泊まったホテルのベッド・ルームやバス・ルーム、さらに外観。飲んだビールのジョッキやグラス。マンホールの蓋。街角のポスター。消火栓。郵便ポスト。懐いてくれる猫。目に入るもの、とにかく何でも次々とシャッターを押した。

特に面白いと思ったのが消火栓だ。もっと早く気づけばよかったと後悔している。マンホールの蓋は過去に、日本でも何人かが撮りまくっていたので面白いとは思っていたけど、消火栓を追いかけている人はいなかったと記憶している。時にはまるで「人形(ひとがた)」のように、路傍に立ちつくす消火栓。何枚か写してみて分かった。たかが街角の消火栓。だけど、国によってイロイロ違いがある。面白い。その良さにずうっと気づかなかった自分が情けない。まだ数は少ないけど、消火栓はこれからも撮り続けていきたい被写体だと思っている。

今まで撮った中で、特に面白いなぁと思っているのはリヒテンシュタインの首都ファドゥーツで見かけた消火栓。なんか手抜きで作ったロボットみたいで面白い。青の頭部には「1」のプレートが付いていた。小国リヒテンシュタインの、これが消火栓第1号機なのかもしれない。

次に印象に残っているのは、スイス北部ライン河畔の美しい街シュタイン・アム・ラインで見た消火栓。このナヨッとした腰つきが、何とも艶かしくて好きだ。この街はまさに絵から抜け出たような街並みが素晴らしい。スイスを訪れる人には絶対にオススメしたい街のひとつ。

3つ目。デンマーク、ユトランド半島西岸の街リーベで見かけた消火栓もよかった。これはリヒテンシュタインとスイス2つの消火栓に較べると、見た目はごくごく普通なのだけれど、写真に撮ってみたらいい感じに映ったので印象に残っている。ただの白っぽい壁を背景にして、消火栓を真ん中に、左に自転車、そして右に窓。それぞれが何となく友達みたいに、とても仲がよさそうに見えて微笑ましく感じたのだ。

他にも消火栓の写真は数枚あるけど、他の人に見せたい写真はこの3つ。最初の頃はフィルム・カメラだったから、フィルム代とか現像代とかプリント代のことを考えシャッターを押すのをセーブしていた。もっと早くデジカメにして、もっともっと消火栓の写真をたくさん撮りっておけばよかったと思っている。



# by 1950-2012 | 2019-05-01 11:43 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

初めて外国で列車の切符を買ったのは、1975年3月。米国カリフォルニア州内陸部の田舎町サリナスだった。サリナスはジョン・スタインベックの小説『怒りの葡萄』の舞台となった田舎町。この時、僕はサン・フランシスコ対岸の大学町バークレーに8週間滞在していた。

そろそろ7週目という頃、僕は2泊3日の予定で小旅行に出た。まずはバークレーからサン・フランシスコに行き、グレイハウンドのバス・ターミナルに向かう。目的地は海沿いの街サンタ・クルーズ。グレイハウンド・バスに乗るのは初めて。これはジョン・ボイドとダスティン・ホフマン主演の映画『真夜中のカーボーイ』を見た僕にとって、憧れのバス旅でもあった。

サンタ・クルーズ滞在の翌日、怖いもの知らずで、モントレーまでヒッチハイクで南下しようと試みた。それも3台乗り継いでの大冒険。ジャック・ケルアックの小説『路上』に感化されていた僕にとって、アメリカでのヒッチハイクは憧れでもあったのだ。

さらに翌々日・旅の3日目、再びグレイハウンド・バスで内陸の街サリナスに移動。さすがにもうヒッチハイクをやろうなんて、無鉄砲な元気は出てこなかった。バスに乗ってのどかな田園風景を眺めていると、にぎやかな街の中に入った。そして小さな駅舎の前で停車。サリナスだ。僕はバスに乗る前、モントレーのバス・ターミナルで働く日本人女性から、米国西海岸を走る列車「Amtrak」の情報を得ていた。

駅に着いて、まずは列車の切符を買う。ブラブラしている内に列車が到着する時間となった。プラットフォームに出て待っていると、右手から汽笛が聞こえ、大きな車体と長い連結の列車が駅に入ってきた。列車が停車する。ドアを開けてアフリカ系の車掌が降りてきた。ほぼ線路とおなじ高さのプラットフォームから、僕は階段をエッチラオッチラ3段上がって車両に乗り込んだ。

思ったよりも車両は広い。予約した席に座る。座席は想像以上に大きくて高い。僕は足がそんなに長くないから、前の席までかなり余裕があった。初めて乗る外国の列車だ。ちょっと興奮していた。座り心地は思った以上にいい。そして発車。数時間後、列車は無事にバークレーの隣町オークランド駅に到着。こうして僕の、外国での初めての列車の旅は終わったのだ。

ヨーロッパで初めて列車の切符を買ったのは1990年春。この時は滞在期間が短かったので、ドイツ1国だけを旅した。ドイツ到着当日、フランクフルト中央駅で切符を買い、南ドイツのカールスルーエまで列車に乗った。その後、大学町のテュービンゲン、ドナウ源流の街ドナウエッシンゲンへ移動。南ドイツからは列車で、ライン河沿いに北上してルール地方へ向かう。この時、ルール地方のゲルゼンキルヒェンという街に、友人女性アンゲラ(仮名)が日本から一時帰国していた。

ゲルゼンキルヒェンのホテルに2泊して、いよいよフランクフルトに向かう日、当時ルール大学の学生だったアンゲラは、最寄りのボーフム駅までクルマで送ってくれた。駅で切符を買うため列に並ぼうとすると、彼女は小さな声で僕にこう忠告した。

「よく聞いて、セキ、お婆さんが並んでいる列はダメ。ほら、全然動かないでしょ…!」:

確かに、お婆さんが並んでいる列は全く前に進まなかった。彼女に言わせれば、お婆さんはとにかく100%納得するまで動かないのだと言う。その後の旅で、僕は何度か切符売り場で、老人が並んでいる列が長くなっているのを目撃した。だから切符売り場では、目ざとく老人がいない列を探して並ぶようになった。

駅で切符を買うのは実に面倒。ということでヨーロッパ5度目の旅から、僕は便利なユーレイル・パスを使うようにした。これで列車に乗るたび、切符売り場に並ばないで済む。とはいえ1等車乗り放題で便利なユーレイル・パスも、最初にヴァリデイト(使用開始)スタンプを押してもらわなければならない。つまり1度だけ、切符売り場の列に並ばなければいけないってことだ。

1994年夏、友人の斉藤クン(仮名)とイタリア、フランス、スイス周遊の旅に出た。空港からTAXIでミラノ中央駅へ向かう。ユーレイル・パスにヴァリデイト・スタンプを押してもらおうと、僕たちは切符売り場に急いだ。だけど、切符売り場にはすでに長い行列ができていた。

参った…!僕たちは急いでいた。列車の発車時刻が迫っていた。ヴェネツィア行き急行に乗って、ヴェローナで北イタリアのトレント行きに乗り換えなければならなかったのだ。だけど、ヴァリデイト・スタンプを押してもらわなければパスは使えない。もしもスタンプなしで列車に乗ったりすれば罰金を取られる。

列の前方にはお婆さんが1人いて、切符売り場の人間に何度もしつこく何かを聞いていた。つまり、そのお婆さんがこの長い列の原因。お婆さんは自分が納得するまで絶対に妥協しない。筋金入りだ。他人の迷惑など全く感じてない。

僕たちの後ろに立っていた中年オヤジが、ついに癇癪を起こした。そして、お婆さんに文句を言いに行った。さすがイタリア人、何とも「ラ」行の発音が見事。しかし、そんなことで動揺するようなお婆さんではなかった。暖簾に腕押し。糠に釘。激高したオヤジが、なす術もなく僕たちの後ろに戻ってきた。

列車の発車時間がどんどん近づく。僕たちも苛立った。そんな時、イタリア人の若者2人が、僕たちの所にやって来て英語でこう言った。

「お前たち、Miura知ってるか…?」

突然の質問にビックリ。Miuraとは、その年イタリア・サッカー[セリエA]のジェノヴァに入団した三浦知良のことだった。僕は親指を立てて、当然知っているというポーズを見せた。彼らは嬉しそうな顔をして立ち去った。ただそれだけ。彼らとしてみれば、日伊国際親善に少しでも役だったというような満足感があったようだ。

さて、レイルパスを持っているから、初日ヴァリデイト・スタンプを押してもらう時以外は切符売り場に並ばないで済むってことではない。必要によっては特急列車や急行列車の座席指定をしなければならないこともある。ドイツでは特急ICEといえども、空いている1等席があったら自由に座れるけど、なぜかいい加減な印象のあるフランスやイタリアでは座席指定が必要だった。

200811月初旬、ボルドー中央駅。朝早かったせいか切符売り場の列は短い。それでも10人ほど並んでいた。見ると3つあるカウンターの内、左端カウンターの動きが悪い。要領の悪いヤツに占領されているからだ。

僕は、希望列車の出発日・時間・駅名、さらに行き先駅・到着時間、次にTGVなど列車の種類と等級、さらに人数、1等車用のレイルパス所持など、詳しく書いたメモを駅員に見せた。口頭でも説明するけど、フランスでは英語が不得意の駅員もいるからこの方法が確実で賢明だ。

「今日のTGVは空席がありません…」

スカした顔で女性駅員が答えた。おいおい、よく見てくれ、メモの一番上には「3rd. November」と書いてあるじゃないか。だから口頭での説明も必要なのだ。本当ならフランス語で「明後日」と言いたいところだけど、それは無理な話。

Non, non, non, day after tomorrow. rd. November…!」

日付を指差しながら言うと、女性は一瞬恥ずかしそうな表情を見せた後、再びキーボードを打ち始めた。そして数秒後、輝くような笑顔で「ウィ…!」と応えてくれた。フランスやイタリアでは座席指定に金がかかる。これが何とも腹立たしい。

その2日後、ボルドーからモンペリエに移動した。夕方、ホテルのベッドでウツラウツラしている内に日が暮れた。もう6時ちょっと過ぎ。さて、夕食はどうしようか…?遅い時間に食べたピッツァが、まだ腹の中で未消化のままだった。腹ごなしに、とりあえず外へ出て歩こうと考えた。

まずは翌々日の列車の座席を予約するため駅に向かう。早目に予約すれば、1等車が満席なんてこともない。駅に行くと、切符売り場にかなり長い列ができていた。僕はこれから出発する列車に乗るため急いでいるのではない。ノンビリ自分の順番が来るのを待てばいいだけ。それにしても長い列でウンザリする。

開いているカウンターは3つ。その中に動きの悪いのが1つある。カウンターには女2人と男1人、学生風の若者が3人立っている。10分近く経っているのに、こいつらが全然動かない。何の相談をしてるのだ…?たかが切符を買うだけ。まさか世界一周旅行とか、就職相談をしているわけではないはず。さらに5分経過。ヤツらはカウンターの係員と笑顔でまだ何か話している。

僕はいつも思う。もしかしたらヨーロッパ人は、物分かりがよくないのではないかと。切符売り場の長蛇の列は、フランスだけではない。ドイツでも見た。イタリアでも見た。スウェーデンでも見た。物分かりが悪い。果たして、それは悪いことなのか…?彼らは納得がいくまで話し合う。これはいい。日本のように単一民族で、何事も長い物に巻かれたり、意味なく忖度してしまう国の方が実は恐ろしい。

そろそろ7時に近い。僕まで後7人となった時、突然切符売り場の外が騒然とし始めた。何事だ…?しばし呆然として様子を見る。黒い戦闘服を着た武装警官が数名、肩から自動小銃をぶら下げて駅にいる人々に呼びかけている。

「今すぐ駅を出ろ、早くしろ〜!」

武装警官たちの顔はマジだった。駅にいる人々も真剣な表情で従っている。どうやら凄い状況に巻き込まれてしまったようだ。爆弾テロの予告か何かあったのか…?

「え〜、嘘…!マジかよ…?勘弁してくれよ…!」

僕の前に立っているアフリカ系の若者が、ウンザリした顔でそんなことを言っている。僕だって同じ気持ちだ。ついには切符売り場の係員も、小窓を閉めて席を立ってしまった。しかたない。まさかこんな所で爆死するわけにはいかない。切符売り場は2階だ。急いで階段を探す。近くにエスカレーターがあるので、それを下りるしかない。しかしエスカレーターは停止中。歩いて下りるとバランスが悪い。

駅前は沢山の人々でパニックになっている。やがてサイレント共に、イカツイ警察車両もたくさんやってきた。一体全体、何があったのだ…?どうせ誰かに聞いたって分かるわけもない。もしも本物の爆弾テロなら、野次馬気分で駅周辺にいるのは危険だ。僕は写真を数枚撮って、駅から即座に遠ざかった。たかが座席を予約するだけだったのに、全く何てことだ…!

(写真はフランス、ストラスブール→ブザンソン行きTGVの座席予約ティケット)


# by 1950-2012 | 2019-04-27 08:11 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

2003年春、ケルン中央駅のビル内にあるホテル「ibis」に1泊した。何と、駅から徒歩ゼロ分。そんな駅近のホテルに泊まったのは初めて。いくら便利と言ったって、これほど便利なホテルはないだろう。普通なら、僕は街の中心部にある旧市街のホテルを選ぶ。しかもチェーン展開している、ビジネス・ホテルみたいなibisには本当なら泊まりたくない。

だけど、ケルンでは1泊するだけ。駅ビル内のホテルで何の問題もない。ケルンは人口102万人の大都市だけど、比較的に駅の周りが開けて店もたくさん集まっている。観光の目玉である世界遺産の大聖堂も、駅のド真ん前。予約したibisホテルの部屋は1階。と言っても、ドイツでは日本の1階は「地上階」と言い、2階から階数を数える。だから僕の部屋は、日本式に言うと2階。宿泊料金は前払い。

ibisホテルには、過去にバイエルンのバンベルクや、ベルギーのゲント、フランスのブロアなどでも泊まっていた。朝食は希望者のみ。朝食抜きでもいい僕のような人間にとって、それはとてもありがたい。部屋に入って窓を開けると、大聖堂の尖塔が天空を突き刺すように見えた。

荷物を整理し、カメラをぶら下げ街探検に出る。ホテルのドアを開けると、目の前に世界遺産なんてロケーションは他の都市にはない。見上げる。大聖堂の存在感がスゴ過ぎる…!と言いつつ、大聖堂を見るのは2度目。初めてではないから驚かないけど、でも、やっぱスゴいものはスゴい…!尖塔を見上げていると、いてててて・痛・痛・つぅぅ〜、首の筋肉がつってしまいそうになった。

ケルンは紀元1世紀、古代ローマ帝国の植民都市として誕生。ドイツ最古の都市のひとつで、日本の京都とは姉妹都市の関係にある。この街はライン河の水上交通、また東西を結ぶ陸上交通の要衝として発展してきた。高さ157mの尖塔を持つ大聖堂は、ゴシック様式最大と言われる。建造は16世紀半ばから、何と600年もの長き歳月をかけてやっと完成した。

この時の旅で、僕がケルンに立ち寄った第一の理由。それは、世界遺産の大聖堂をもう一度ジックリ見ることだった。前回ケルンに立ち寄った時は、大聖堂内部に入る時間がなかった。ということで、リベンジの意味合いがある。

そして、第二の理由は「4711」。つまり「4711」=オー・デ・コロンを、本家本元「4711」ショップで買うということ。僕は40過ぎた頃から「4711」を愛用し始めた。「4711」を知ったのは中学生の頃。敬愛する鎌倉の叔父の家の洗面所に「4711」があり、その独特で格調あるボトル・デザインに魅せられたからだ。

ちなみに「オー・デ・コロン」は、フランス語で「ケルンの水」という意味。「4711」は1792年にケルンで創業。その2年後、この街はナポレオン軍に占領され店は移転させられる。その移転先の住所が4711番地で、それが店名となった。そして進軍してきたナポレオン軍の兵士たちは、妻や恋人のため「4711」をフランスに持ち帰る。これが好評だったことから、フランスで「4711」が有名になり、人気は世界へと広がっていった。

まずは大聖堂から見ていく。広い階段を上がると観光客だらけ。ヨーロッパ系白人だけでなく、中近東やインド、アフリカ、さらに僕と同じ顔をした東アジアからの観光客も多い。とりあえず、混雑の中で大聖堂を見学。まるで「烏の行水」みたいな素早さで、大聖堂内をサッサかサ〜ッと見回す。Ende…!これで第一の目的は完了。

腕時計を見ると、すでに午後2時過ぎ。腹が減った。どこかでうまいものを食べたい。ここ数日、昼はサンドイッチかハンバーガーだった。マトモなモノは食べてない。確かケルンには、鉄板焼の「大都会」という店があったはず。たまには牛肉もいい。そんなことを考えたら、突然唾液がドバドバァ〜ッと口の中に溢れた。もう頭の中は「ギューニクーッ!」で満杯。僕はまっしぐらに大都会に向かった。そしてドアを開け、勢いよく店の中に入った。

「申し訳ありません。昼の営業は終わりました…」

若い女性に聞き慣れた日本語で素っ気なく言われる。久しぶりに耳にした日本語だけど、内容は余りにも酷だった。しかたない。気分がガクッと萎える。それでは何を食べよう…?頭の中の牛肉モードを、ここで一度リセットしなければならない。そういえば大都会へ来る途中に、オープン・テラスのイタリアン・レストランがあったことを思い出す。よし、それだっ…!

まずは、レストランの店頭にあったメニューを見る。スパゲティの文字に目が釘付けになる。スパゲティか、しばらく食べてないなぁ…!即決。店に入る。テーブルに座って、もう一度メニューをよく見る。何と「スパゲティ・ボモドーロ」の後に「ピッコロ」という文字を発見。これだ…!そう「ピッコロ」とは小型木管楽器の名称だけど、イタリア語では「小さい」という意味もある。少食の僕に最適なメニューだ。

以前、北ドイツで入ったイタリアン・レストランのメニューで、確か「スパゲティ」の後に「バンビーノ」と書いてあったのを思い出す。バンビーノ、それはまさにお子様用。いずれにしても、少量という意味では同じ。バンビーノ・サイズを頼む時、僕は店の人間に「実は胃袋を手術して、あまり食べられないんだ…」と卑屈な嘘をついたのだ。ピッコロは小食の僕の胃袋にまさにピッタリ。

成人の僕にしても「バンビーノ」より「ピッコロ」の方が、プライドを傷つけられないので大いに嬉しい。と言いつつ、敵はドイツのレストランのピッコロ・サイズ。少量といっても、たぶん想定の1.6倍くらいあると思っていい。料理の量で僕は、今までドイツで何度もウンザリさせられている。それなりの覚悟をした。赤ワインを飲んで待っていると、頼んだ「ピッコロ」が僕の前に現れた。

Wow、これは、日本では普通の量のスパゲティじゃないか…?!」

見栄を張って、標準サイズを頼まないで大正解だった。頼んでいたら大変な目に遭うところだった。だけど大食らいの人間には、ドイツなど北ヨーロッパの食事の量は最高に嬉幸福だろうね。もしも僕が健啖家で好き嫌いがなければ、もっともっと幸せにヨーロッパを旅できると思うんだけど、こればかりはしかたがないよね…。



# by 1950-2012 | 2019-04-22 21:08 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

先日(現地時間4月15日午後7時頃)、パリの中心部シテ島にあるノートルダム大聖堂が火災に遭った。そして93mの尖塔が崩れ落ちた。石造りの教会が火災で焼け落ちるなんて、僕はすぐに信じられなかった。火災の詳しい原因はまだ究明されていないけど、修復工事中の溶接の火花らしいとTVニュースで言っていた。ただ原因が究明されたからと言って、世界遺産の大聖堂が復活するわけでもない。

大聖堂のあるシテ島はセーヌ河の中州。パリ市内で最も古い歴史をもつ島で、パリ発祥の地と言われる歴史地区だ。古くはユリウス・カエサルの『ガリア戦記』にも記述があり、すでに紀元前1世紀にはこの地にパリシイ族(Parisii) が住んでいたという。きっとこの種族がパリの地名の元となっているのだろう。

パリはシテ島を中心に開けた都市だ。やがてシテ島とセーヌ左岸と右岸とに橋が架かる。橋の上には商店や住宅などが密集し、現在のフィレンツェのポンテ・ヴェッキオをヒッチャカメッチャカにしたような状態だったらしい。そんな時代、パリには下水道なんて気の効いたインフラはなかった。糞尿はオマルに受け、道路にぶちまけていたと言うから不衛生きわまりない。

当時の名残りは今も残っている。例えば、石畳の道路の中央部のへこんだ部分。ここをパリ市民の糞尿が流れていたのだ。匂いは想像を絶するものだったろう。それを考えると数百年前の江戸は水道や井戸、便所である厠に関してはパリよりも、というより世界でも遥かに清潔で進んでいた都市だったと言えそうだ。

話は変わって日本にキリスト教を伝えにやって来たフランシスコ・ザビエルは、152519歳で故郷バスクから名門パリ大学に留学している。ノートルダム大聖堂は1163年に着工し1225年に完成しているから、学生だった若き日のザビエルも見ていたはずだ。青春時代のザビエルは、どんな思いで大聖堂を仰ぎ見ていたのだろう…?

それを言うなら、マリー・アントワネットだって、ビンセント・ヴァン・ゴッホだって、ルミエール兄弟だって、藤田嗣治だって、パブロ・ピカソだって、シャルル・ド・ゴールだって、エディット・ピアフだって、アーネスト・ヘミングウェイだって、カルロス・ゴーンだって、旅人の僕だって。パリ市民だったり、パリを訪れたことがある人ならほとんどみんな、街の中心に建つノートルダム大聖堂は仰ぎ見ているはず。

僕は今までパリを何度か訪れている。1991年末~1992年正月。1992年末~1993年正月。2000年4月下旬。2001年8月。2002年末〜2003年正月。200810月〜11月。過去に6回も訪れていたのだ。だからと言って、パリに何日も滞在して“花の都”を満喫していたわけではない。旅の初日とか帰国前の1〜2日滞在しただけだ。

それでも回数が多ければ、それなりに見る物・場所も数多くあった。ルーブルやオルセーなど有名で観光客がごった返している大きな美術館は避けたけど、これでもモネの『睡蓮』を見るため、オランジェリーにだけは入館している。とにかく僕は混んでいる場所が苦手なのだ。そういえば今回火災に遭った大聖堂に、僕はなぜかたった2度しか入ったことがない。もちろんゴシック建築の堂々たる姿は、訪れるたび何度も外から仰ぎ見てはいた。

僕が初めて大聖道の中に入ったのは2003年1月上旬。前年暮れパリから旅を始め、ノルマンディー、ブルターニュを巡って再びパリに戻ってきた時だ。ホテルにチェック・イン後、僕はオペラ座界隈にあるラーメン屋に駆け込んだ。実はここ数日「昼飯はパリでラーメン!」と、呪文のようにずうっと繰り返すぐらいラーメンに飢えていたのだ。昼食後は凱旋門とエッフェル塔を見に行く。まるでお上りさんのようだけど、凱旋門もエッフェル塔も、実はそれまでジックリ見たことがなかった。

ということでシャンゼリゼ大通りを、人に聞こえないよう「オォ〜、シャンゼリゼ〜♪」なぁんて軽くハミングしながら凱旋門に向かって歩く。凱旋門二満足したらエッフェル塔に向かう。ちょっと道をウロウロしながら、何とかセーヌの川岸までたどり着いた。目の前にエッフェル塔が聳える。素晴らしい…!

光の具合は逆光だった。まずは鉄製のドゥービィー歩道橋の上から、キリッと真っ青な冬空に向かって聳え立つシルエット状のエッフェル塔を1枚。続けてセーヌ河に架かる歩道橋を渡り、さらにエッフェル塔に近づく。歩道橋には数日前の雪が凍結していた。ツルツル滑って歩きにくい。恐る恐るゆっくり進むしかない。

エッフェル塔の周りにもたくさんの観光客が集まっていた。特に展望台に通じるエレベータ前は長い列。僕は軽度の高所恐怖症の上に、列を作って何かを待つということが大の苦手。ということで、写真だけ撮ってそそくさとホテルに戻った。ホテルに戻ってしばらく部屋でくつろいだ後、またまたお上りの観光客っぽく、シテ島のノートルダム大聖堂見物に出かける。

セーヌ河畔に出ると、真っ赤な夕暮れ空にノートルダム大聖堂のシルエットがクッキリ浮かんでいた。まさに絵筆を持ちたくなるような風情。日が落ちたせいか、川面を渡る風はさらに冷たくなっていた。数日前、パリには雪が降っていた。川を渡る風が冷たくて当然。何たって真冬の、しかも寒気団がやって来ているヨーロッパなのだ。

ノートルダム大聖堂正面広場に向かう。こんな近くで大聖堂を見るのは初めて。広場中央に、金属製の星形のプレートが埋め込まれていた。それはフランスの道路の「ゼロ地点」を示すプレート。日本なら東京の日本橋が基点となる。フランスでは「パリから他の地点へ何km」というように、この星形のプレートを基準に測られる。プレートは数え切れないほど人の足に踏まれ、哀しいかな、かなりすり減っていた。

これと似たようなモノを、以前イタリアのミラノで見た記憶がある。そう、ドゥオーモそばヴィットリオ・エマヌエレ2世のガッレリアの道路に埋め込まれた雄牛のモザイクだ。雄牛も多くの人に踏みつけられ、哀しいかな、無惨にもすり減っていた。さぁ、ノートルダム大聖堂だ。生まれて初めて内部に入る。ちょっと緊張していた。

大聖堂内に入ったらすぐに帽子を脱ぐ。眼が暗さに慣れてくるまで静かに伽藍を見回す。目が慣れたら、他の人たちに邪魔にならないように移動して、写真を数枚撮らせてもらう。いくら薄暗くても、大聖堂内でストロボを使ってはいけない。これは僕が自分で決めている教会内での撮影ルール。敬虔なキリスト教徒たちに不快にならないよう心がけている。何たって僕は外国人で異教徒。神聖な場所では、控えめに行動することが賢明だし、望ましいと思っている。

大聖堂内はたくさんの観光客で溢れかえっていた。壁に沿って歩き出す。主祭壇近くに、聖少女ジャンヌ・ダルク像が祀られていた。写真を撮ろうとカメラを構える。その時に気がついた。カメラの裏蓋が、いつの間にか開いていたのだ。なぜか裏蓋は、僕のマフラーの房をしっかり噛んでいた。Wow〜!焦った。裏蓋が知らない内に開いていたなんて信じられない。冷静にマフラーの房を外し、カメラの裏蓋をカチリとしっかり閉め直した。ほっ…!

だけど、どうして…?とにかく驚いた。寺院内は薄暗かったけど、フィルムは感光したかもしれない。愕然とした。実はこのカメラ、コニカのレンジ・ファインダーの裏蓋が勝手に開いたのは2度目だった。1度目は数日前、ブルターニュのディナンを歩いている時。当然フィルムは全部ダメになった。悔しかった。自分の落ち度だと思って、その後は慎重にカメラを扱っていた。そのつもりだったのに…!

裏蓋が開いたのは、たぶん大聖堂に入る直前か入ってからだろう。外は日が暮れていたし、大聖堂内も暗かった。果たして何枚ダメになったか…?僕は即刻フィルムを巻き戻した。しかし、なぜ裏蓋が開いてしまったのか…?理由が分からないと、次からカメラは怖くて使えない。マフラーの房のせいなのか…?

他に考えられる原因は革手袋だ。革手袋は真冬の旅を考え、カナダのウィニペグ州の警察が使用しているのを通販で手に入れた。全く機能的で申し分ない手袋だった。その縫い目が、裏蓋のロックに引っかかって勝手に開いたのか…?だけど、そのぐらいで簡単に裏蓋が開いてしまうのは、構造上問題があると言っていい。

気を取り直し、別のISO1600の超高感度フィルムを装填したコンパクトカメラで写真を撮り続けることにした。大聖堂を出ると日は完全に落ちていた。帰国してからフィルムを現像したけど、結局全てダメになっていた。全く、旅先でカメラが2度も故障するなんて、何かの祟りかもしれない…?などと、普段は神をないがしろにしているオッサンが考える。それよりも、神を信じない人間が教会に行った事の方に問題があったのかもしれないのに。

2度目に僕がノートルダム大聖堂の中に入ったのは。200811月下旬。この時はさすがにフィルム・カメラではなかった。時流にちょっと遅れたけど、僕もやっとデジカメに手に入れたのだ。前回はカメラの不調で、大聖堂の写真を思う存分撮れなかった。ということで、この時はリベンジ。ちょっと気合が入っていた。

だからと言って、神聖な場所であまりシャッター音をシャカシャカさせたくない。結局大聖堂内では、バラ窓とジャンヌ・ダルク像と主祭壇とパイプオルガンを4枚サッと撮っただけ。その代わりと言ってはなんだけど、大聖堂を出てサン・ルイ島の方から2枚撮ってみた。こっち側から撮る人は少ないから面白い写真になった。

そんな思い出のあるノートルダム大聖堂。それが何の原因か分からないけど、焼け落ちてしまったなんて信じられない。パリに長く住んでいる人たちは、僕なんかよりももっと大きな衝撃を受けているだろう。あの美しいバラ窓は、凛々しい姿を見せていた聖女ジャンヌ・ダルク像はどうなってしまったのか心配だ。最新のニュースでは「いばらの冠」など貴重な文化財多数や、バラ窓やパイプオルガンなどは消失を逃れたらしいと聞いて安心している。

パリ市民からは「ノートルダムのないパリはもはやパリではない」と嘆く声が上がったという。まさかノートルダム大聖堂が火災に遭うなんて。誰が予想しただろう…?再建のための寄付金はドンドン集まっている。マクロン大統領は2024年のオリンピックに間に合わせたいようだけど、そんなに簡単に再建できるかどうか…?あぁ、こうなると分かっていたら、今頃言っても遅いけど、もっとジックリ見てもっとタップリ写真を撮っておけばよかったなと思う。



# by 1950-2012 | 2019-04-18 17:41 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

2004年春、定刻よりちょっと早めにコペンハーゲン国際空港に到着。入国審査も、いつになくスゥ〜ッと通り抜けた。おっ、幸先がいい〜!大きなリュックを待っていると、これもかなり早めに出てきた。うん、本当に全く幸先がいい〜!思わずほくそ笑んでしまう。リュックを受け取り、すぐに空港駅の鉄道の切符売り場を目指した。スキャン・レイルパスにヴァリデイト・スタンプを押してもらうためだ。駅は空港地下にある。とにかく全てまとまっていて便利。

スタンプの押されてないレイルパスを差し出す。切符売り場の男は、一瞬怪訝そうな顔つきで僕を見た。レイルパスを渡し、パスポート・ナンバーと今日の日付、パスの使用可能最終日を書き込んで、最後にスタンプをポンと押してもらう。これでOKだ。後はコペンハーゲン中央駅経由で、直接最初の宿泊地であるロスキレへ列車で向かうだけだ。

「すいません。列車の乗り場はどこですか…?」

「残念ですね、列車は今日、信号故障で走っていないんです。で、あなたはどこへ行くんですか…?」

「えっ…?!」

駅員の怪訝そうな顔の理由が分かった。何と、僕のもくろみは到着早々狂ってしまったのだ。

「ロスキレへ行くんだけど…」

「じゃ、あっちの方からバスが出ますから、それに乗ってコペンハーゲン中央駅まで行って、そこから列車に乗ってロスキレに行ってください」

「あっちって、どこからバスが出るんですか…?」

「その出口を出て、ほら、あの道路の向こう側です」

駅員が指さした出口から空港の外へ出た。空は曇っている。風が強い。気温は10度ちょっと。少し肌寒い。確かに、その先には広々とした駐車場があり、バスが何台か停まっていた。バスのフロントグラスに貼られた行き先は、どれも「MALMÖ」スウェーデンのマルメ行きだ。コペンハーゲン行きなんて1台もない。近くに停まっている運転手に聞いてみた。すると、コペンハーゲン中央駅行きはすぐにやって来ると言う。

乾いて冷たい風が吹き付ける中、コペンハーゲンへ行く人々と一緒にバスを待つ。バスが何台か駐車場に入ってきた。フロントグラスには「KØBENHAVN H」と表記。よし、コペンハーゲン中央駅行きだ、やったぁ…!僕は過去に何度かデンマークに来ているので、デンマーク語にはちょっと慣れている。ちなみに最後の「H」は中央駅の略。ドイツ語で中央駅を「Hauptbahnhof」と言うから、デンマーク語もその意味だと思う。

バスは混んでいた。リュックをサイドのトランクに無理矢理押し込み、真ん中のドアからバスの中に乗り込んだ。多くの乗客同様、立ったままバスに揺られる。まぁ、中央駅に着けばいいのだ。多少の混雑はやむを得ない。東京の通勤列車の中でも滅多に座ったことはない。立つのは慣れている。

何とかコペンハーゲン中央駅に到着。バスが停車した場所は駅の入り口があるコンコース側でなく、道路から直接プラットホームに降りられる陸橋の上だった。そんな場所に詳しくて、列車の時刻表などあるはずがない。さて、ロスキレ行き列車が出るプラットフォームが全く分からない。近くに立っている女性に聞いてみた。女性は時刻表をしばらく見ていたけど、分からないと言う。

しかたない。とりあえず女性に礼を言って、プラットフォームに降りた。中央駅のコンコース側まで行けば、でかい電子掲示の時刻表があるはず。しばらく行くと、向こうからかなり太めの女性鉄道職員が歩いてきたので、彼女に聞いてみる。

「すいません、ロスキレ行きは、どのホームから出るのですか…?」

「隣の7番から、5時20分に出るわ」

彼女は時刻表を見て親切に教えてくれた。ありがたい。ラッキー!列車はちょうど15分後に出る。そうして列車に乗って、約30分経過。今回の北欧の旅最初の滞在地ロスキレに無事到着。実は僕が来る1週間前、日本の皇太子殿下がこの国を訪れていた。目的はデンマーク皇太子の結婚式参列のため。結婚式前日、皇太子殿下もこの街の「ヴァイキング船博物館」を訪問していた。

ロスキレRoskildeはデンマーク最古の街のひとつ。ヴァイキング船博物館では、かつてロスキレ湾底から5隻発掘されたヴァイキング船が展示されている。この街には11世紀よりデンマーク国王の宮殿がおかれ、1170年には今や世界遺産となっているロスキレ大聖堂が建てられた。ゴシック様式の大聖堂には、デンマーク歴代国王の棺が安置されている。

ロスキレ駅を出て、ガイドブックの地図を見た。予約したホテルは駅のかなり近く。リュックのキャスターをカタカタ鳴らしながら石畳の道を歩く。ホテルの名前は「プリンセン」で、デンマーク語では「プリンス」という意味。1695年開業の歴史ある建物。宿泊料金はシングル1泊850DKKDKKはデンマーク・クローナーで、この頃のレートは1DKK17.84円だから、1泊約15,300円。

部屋は最上階に近い屋根裏部屋だった。さすがに歴史のあるホテル。ということで内装などの雰囲気は申し分ない。軽く旅装を解く。さぁ、散歩だ…!ホテルの裏口を出ると駐車場。信号を渡ると、黄色い壁の建物が道路沿いに続く。ユネスコの世界遺産に登録されているロスキレ大聖堂へ続く道だ。壁の長さは50m近く。黄色い壁には茶色の梁が入って、屋根も同様のレンガ色に近い茶色の瓦。三角形の単純な尖り屋根がなんとも可愛い。

大聖堂へ向かうと、道の左手に豪奢な市庁舎が建っていた。市庁舎の前は広場。大聖堂の方を見ると、遠くに海がちらっと見えた。ロスキレ・フィヨルドだ。フィヨルドといっても、ノルウェーのような断崖絶壁ではない。氷河が削り取った細長い入り江といった感じだ。その海岸そばに、皇太子殿下が訪れた「ヴァイキング船博物館」がある。

博物館はすでに閉まっていた。開館時間は午前10時から午後5時まで。閉館ではしかたない。フィヨルドをカメラ片手にのんびり歩く。岸辺には何艘ものヨット。たまにジョギングや犬と散歩している人々と出会う以外、観光客の姿は全くない。博物館隣の空地に、建造中のヴァイキング船があった。辺りには削ったばかりの木屑が散乱。とても心地よい香りだ。
ヴァイキング船の舳先に設置された鉄製の階段を上がる。建造途中の様子が見えるようになっていた。確か、皇太子殿下もここからヴァイキング船を見たはず。僕は1週間前に見たTVニュースの場面を思い出した。入り江にはヴァイキング船が何艘か係留されている。たぶん昼間、多くの観光客を乗せてフィヨルドを曳航するのだろう。海から直接冷たい風が吹いてくる。さすが北欧。かなり体が冷える。

デンマークと日本の時差は7時間。冬はこれに1時間足す。ということは、日本はもう朝の3時頃。眠くはないけど、疲れはひどく感じていた。何かさっぱりしたものを食べたいけど、デンマークにうどんやそばがあるわけない。ホテルに戻った。中にあるバーに入ってビールを飲むことにする。

ビールを頼んで、そばのテーブルに腰掛けた。隣のテーブルでは、金髪の美しい女性2人が何やら真剣に話し合っている。その様子を肴にグビッとビールを飲む。テーブル上のメニューを見ると、パニーニがあった。早速カウンターにいる女性にパニーニを頼む。しばらくすると若い女性が申し訳なさそうな顔で「すいません、パニーニは今できません」と言った。残念。
諦め顔をしていると、キッチンの若い男が「大丈夫、パニーニできます…!」と言ってくれた。途端に女性の顔がパッと明るくなる。若い女の子はやはり笑顔がいい。僕は部屋で食べたいからと彼女に言った。ビールを半分ほど飲んだ頃、パニーニができあがった。結局、デンマーク初日の食事はそれでお終い。後はバスタブに湯をたっぷりためて入浴。疲れが吹っ飛んだ。

翌朝、ゆっくり朝食を取りチェック・アウト。リュックをフロントで預かってもらい、昨日見られなかった大聖堂に向かう。市庁舎前の広場には、肉屋やチーズを売る店、さらには魚屋や八百屋、花屋などいろいろな店が出ていた。仮設のステージでは、高校生らしきビッグ・バンドがジャズの『キャラバン』を演奏している。広場は楽しそうな雰囲気に包まれ、みんな演奏に聴き入っていた。

大聖堂の入場料は25DKK450円。中に入ると、堂内にはすでにたくさんの観光客がいた。ロスキレ大聖堂は1170年代に築かれた。日本ではまだ源頼朝が鎌倉に幕府を開く前のこと。その後歴代の王によって10カ所以上も増改築され、さまざまな建築様式が混在しているという。堂内には美しい飾り時計が展示され、それは僕の目を強く惹いた。
他の観光客は入口で配布していた簡単な説明書を見たり、ガイドの説明を聞いていた。僕は英語とデンマーク語で書かれた説明書を読む気にもなれず、勝手に自分の見たいものだけさっさ見ることにした。パイプオルガンなどを写真に収める。帰りに入口の売店を見ると、数枚のパイプオルガンのCDがあった。その中から2枚を選んで買う。また僕のコレクションが増えた。



# by 1950-2012 | 2019-04-15 22:21 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

先日のニュース。宿泊していたホテルで就寝中にドアを開けられ、現金など貴重品を盗まれるという事件を知った。何とも物騒な話。日本のホテルでの犯罪だ。犯人は中国人グループで、廊下から部屋の中に聞き耳を立て、宿泊客のイビキが聞こえたら、針金などでドアロックを外し部屋に侵入するという。これからは日本でも、ホテルに泊まる時は注意した方がよさそうだ。

ホテルでの盗難。さすがに今までヨーロッパを旅していて、幸運にもそんな最悪な目には遭ったことがない。だけど気づかなかっただけで、ひょっとしたらそんな盗難事件に接近遭遇していたかもしれない。そう思えることは幾つか記憶にある。特に2000年春、オランダの列車内で貴重品の入ったショルダーバッグを盗まれて以来、僕は盗難に対してかなり敏感になっていた。

オランダでショルダーバッグを盗まれた翌2001年8月。僕は友人の斉藤クン(仮名)と、花の都パリから出発して列車を乗り継ぎ、音楽の都ウィーンに向かうという長旅に出た。パリ到着当日はうだるような暑さ。その日のホテルは予約済み。以前オランダ到着日にホテルを予約しなくて、かなり焦ったことがある。その哀しい経験を生かし、以来シッカリと現地到着当日のホテルは予約するようになった。

予約したのはオペラ座を正面に見る、高級な部類に属するホテルだった。本当なら安ホテルで節約したかったけど、まぁ、旅の始まり。たった1日だけなら、多少の贅沢はしてもいいだろうと考えた。だけど次の日からは、徹底的に倹約して無駄遣いをしないようするつもり。何たって長旅。気を許すといくら無駄遣いするか分からない。

チェック・イン後、荷物を簡単に整理して、夏のパリを満喫しようと僕たちはホテルを出た。ちょっと歩いただけでTシャツは汗まみれ。半端な熱さではなかった。それでも日本のように、湿気の多い暑さではないだけ楽かもしれない。街を歩いている途中、どこかでミネラル・ウォーターを買いたいと僕は考えていた。

セーヌ河を渡り、レストランや商店が建ち並ぶサン・ミッシェル界隈へ向かう。パリには過去に何度か来ているから、地図を見ないでも歩けるので嬉しい。人通りの多いこの辺なら、ミネラル・ウォーターが買える店がある。食料品店が開いていた。店主は北アフリカ出身のイスラム系っぽい感じ。

店内を覗くとミネラル・ウォーターがあった。ちょっと重いけど、僕は2リットル入りのペットボトルを1本買う。デイパックに入れるとズシリと重みを感じた。そのまま歩いていると荷物になる。とりあえず一旦ホテルに戻ろうと考えた。初日から、何も気ぜわしく歩き回ることもない。初めてのパリじゃないから、ちょっと余裕があった。

ホテルに戻って、まずは斉藤クンがシャワーを浴びる。僕はテレビを点けて、言葉の分らないフランス語の番組を何気なく見ていた。しばらくすると、鍵をガチャガチャする音が聞こえ、続けてドアノブを回す音がした。そしてドアが開き、やや大柄な太目のアフリカ系の女性が顔を出した。そして僕を見て、目を大きくまん丸にして驚いた。

ハッキリ言って、ビックリしたのはこっちの方だ。普通のワンピースを着ていたから、どう見てもホテルのスタッフには見えなかった。まさか部屋の中に宿泊客がいるとは思わなかったのか、女性は「失礼!」とひとこと言って大慌てでドアを閉めた。あの女はいったい何者…?なぜ合鍵を持っていたのだ…?

ホテルのスタッフじゃないとしたら、盗人ということになる。しばらくすると、斉藤クンがバス・ルームから出てきた。僕は今起こったあらましを彼に話した。斉藤クンは「黒人女性はホテルのスタッフだと思うよ」と、何気ない顔で言った。驚いてないようだ。彼女が何者であれ、とにかく僕たちが部屋にいる時でよかったことは確かだ。

そういえば、それから数年後のことだ。ドイツのフランクフルトのホテルでも、チェック・イン後に荷物を整理していたら、突然鍵をガチャガチャとやってドアを開けられたことがある。ホテルの清掃の女性だったけど、ノック無しで突然の入室だったから、僕も本当ビックリして大きな声を出してしまった。清掃の女性は英語が分からずそそくさとその場を去った。Wow…!何となく釈然としなかった僕は、その後一応フロントに行ってちょっと文句を言わせてもらった。

2001年の暮れから2002年正月にかけ、僕は北スコットランドの中心都市インヴァネスに滞在していた。1月2日、エディンバラ経由でイングランド東部の古都ヨークに向かう。列車はロンドン行き特急。車窓風景はほとんど真っ白。何もかもが凍りつくような寒さの中、列車はロンドンに向かって南下し続けた。

僕は寒さに震え、ぶつぶつ言いながらヨーク駅に降り立った。実は帰国前ロンドンでの2日間しかホテルを予約してない。この日から4日間、僕はホテルを現地調達しなければならなかった。一応ガイドブックを見て、ヨークのホテルの当たりはつけてある。とにかく街の中心部まで行けば、どこかによさそうなホテルが必ずあるはず。今までもそうしてきたから、絶対の自信があった。

駅からちょっと歩くと、ヨークを特徴づける中世のCity Wall城壁が見えた。川を渡った橋の所に城門があり、その向こうは美しい旧市街。城門の奥に見え隠れするのは、この街のランドマーク大聖堂のヨーク・ミンスター。この街の起源は古く、紀元71年頃にローマ人によって創建された。ローマ人はドーバー海峡を渡り、何とこんな所までやって来ていたのだ。すごい…!

日も暮れかかっていた。何たってイングランドは日本より緯度が高い。午後3時を過ぎると夕暮れ。駅を出てから、初めてガイドブックの地図を見て現在地を確認。馬鹿な観光客のように地図を見ながら歩くのはみっともないし、何よりも盗人など悪いヤツに目を付けられやすい。それで僕は、地図をあまり見ないことにしている。

だけど初めての街。迷子になってはどうしようもない。目を付けたホテルの場所が分からない。ヨークは中世の古い街並み。京都や札幌のように、道が碁盤の目のように分かり易くなっているわけではない。リュックを引きずりながらさらに進む。この時、何だかリュックがいつもより重く感じた。

2000年春、オランダの列車内でアラブ系にショルダーバッグを盗まれた時、このリュックの中に密かにしまっておいた現金とクレジットカードが僕を救った。その頼りになる相棒のリュックのキャスターが、何とついに壊れた…!旅行前に荷物を詰めながら、そろそろ壊れるかもしれないと危惧はしていた。それが現実となった。ヤバ…!

キャスターが壊れたら、徒歩での移動が困難になる。ホテル探しを急ぐ。もうどこでもいい。ガイドブックを見ながら、一番近いホテルに向かって歩き続けた。デコボコな石畳は壊れかけたキャスターに負担をかける。なるべく平らなところを探しゆっくり歩く。とりあえずモンク・バーという、中世の城門のそばにあるホテルを僕は目指した。

フロントで聞くと部屋は空いていた。料金は1泊£65で約12,350円。高くも安くもない。いや、もしかしたら高いかもしれない。ドイツ辺りなら、もっと安くて快適なホテルが見つけられる。とはいえ、今は緊急事態。リュックのキャスターが壊れている。とにかくホテルを決めてチェック・インしたかった。

チェック・インして部屋に入り荷物を広げる。洗面道具など必要な物だけ取り出し、またリュックのファスナーに鍵をかける。さらに盗難防止用の旅行用ワイヤーを使い、クローゼットの中にしっかり固定する。部屋の中とはいえ、荷物を広げ放しにしたり、大切なものが入ったカバンに鍵をかけないでおくのはちょっと危険。掃除人だって誰だって、部屋の中に入ろうと思えば入れるのだから。

旅先ではどんな時でも、盗難に遭わないよう充分注意を払う。オランダの1件以来、ホテルの部屋といえども僕は気を抜くことがない。もちろん自分が部屋にいる時はリュックを開け放す。だけど朝食の時など部屋を離れる時、貴重品など盗まれないよう注意を怠らないようにしている。

ヨークから4年後の2006年1月下旬。僕は真冬のドイツを旅していた。その日、旧東独の大学町イエナからニュルンベルクに向かう。ホテルをチェック・アウトし、イエナ・パラディース駅に向かった。駅構内の時刻表を見ると、乗ろうとしていた9時50分発のニュルンベルク行きICE(特急列車)が表示されてなかった。

午前中にニュルンベルクに行くICEは9時10分発か1110分発だけ。僕が駅に着いたのは9時30分。9時10分発はとっくに出た後。1110分まで1時間半近く駅で時間を潰さなければならなくなった。といって寒風吹きすさぶプラットフォームで待つわけにもいかない。駅の中にはコンビニエンス・ストア兼カフェがあった。店内に入りコーヒーを頼んで、駅前通りに面したカウンター席に座る。

帰りの飛行機で読むつもりだった筒井康隆さんの文庫本を、デイパックから取り出す。カウンターの向こう側は路面電車乗り場。電車が通過する度ゴォーッと轟音がたつ。ふっと本から目を外に移す。白い物がチラチラ宙を舞っている。雪だ…!どうりで寒いわけだ。また本に目を移す。短編を1本読み終えて再び外を見る。路面が白くなっていた。本格的に降っている。

ひょっとしてニュルンベルクも雪だったらどうしよう…?溜息が出る。予約してあるニュルンベルクのホテルは、今回初めて使用するWEBサイトで見つけた。予約したホテルがよくなかったらどうしよう…?つまらない不安にさいなまれる。友人たちは僕をお気楽な人間と見ているようだけど、僕は基本的に悲観的な性格の持ち主。

ニュルンベルクが近づくと雪はやんでいた。到着後中央駅を出て、旧市街をリングのように囲む城壁沿いの道路を時計方向に左手に進んだ。予約したホテルはガイドブックの地図に出てない。だけど予約した時、大体の場所だけは確認してある。メールで送られてきた予約確認書には住所も書いてあるから、迷うことはない。

オペラ・ハウスを過ぎ、2ブロック行った左手の横道にホテルの看板が見えた。何となく薄汚れた感じ。まぁ、いいことばかり続くわけはない。これが事前にホテルを予約する時のリスクといえばリスクかも。自分の目で確かめて選べないのだから、しかたがないと諦める。

ホテルにチェック・イン。部屋も何となく寂れた感じ。もしも部屋を留守にすると、何か物を盗まれるのではないか…?不安がよぎる。まさかそんなことはないと思うけど、用心するに越したことはない。ということで、必要な物以外はリュックから出さなかった。リュックのファスナーに鍵をかけ、さらにクローゼットのパイプに鍵付きのワイヤーでしっかりロックした。ちょっとやり過ぎかもしれないけど、ここまでやらないと安心できないのだ。ホテルの部屋だからって、決して安全ではない。考えすぎかな…?



# by 1950-2012 | 2019-04-12 18:05 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

2019年、今年は新元号「令和」がスタートする年。そして東西ドイツ統合、すなわち「ベルリンの壁崩壊」から30年という記念の年でもある。ベルリンの壁が崩壊した1989年(平成元年)11月9日。TVのニュースを見て、僕は何が起こったのか信じられなかった。当時、僕には仲のいいドイツ人女性の友だちアンゲラ(仮名)がいた。彼女は東京に日本語を勉強しにきていて僕と知りあった。

ベルリンの壁が崩れた直後、アンゲラと会ってイロイロ話をした。ドイツ人である彼女も驚いていた。とにかく世界の人々は、20世紀中に東西ドイツが統合するなんて思ってもみなかったのだ。そして翌1990年春、ゴールデンウィークにかけて、アンゲラが一旦ドイツに帰るというので、僕はドイツを訪れてみようと考えた。それが僕のドイツ、というよりヨーロッパの旅の始まりだった。

ドイツ最初の旅は時間がなかったせいもあって、統合後のベルリンや旧東独まで足を伸ばすことはできなかった。その後、ドイツ西部や近隣のデンマーク、フランスやベルギーを何度か訪れる機会があったけど、なぜか旧東独方面に行くことはなかった。きっとまだ旧東独の街も人々も統合の混乱があり、落ち着いて旅などできないのではと思っていたからでもある。

東西統合から8年経った1997年春。僕は友人の斉藤クン(仮名)を誘って、オランダ、ベルギー、ドイツを巡るレイルパスを使っての長旅に出た。その時アンゲラはベルリンにいたので、せっかくだからベルリンまで足を伸ばしてみようと考えた。僕たちはルクセンブルクを経由でドイツに入国。ベルリンに向かうため、フランクフルト中央駅からインターシティ・エクスプレス(ICE)に乗った。

ICEに乗ればベルリンにはアッという間。ということで、本当に「アッ…!」と言ってる間にベルリンZOO駅に無事到着。駅には当時ベルリン工科大学に通っていたアンゲラが僕たちを迎えにきてくれた。早速彼女が予約してくれたホテルへTAXIで向かう。ベルリンには2泊のつもりでいた。ホテルを予約してもらう時、彼女にそう頼んだつもりだったけど、彼女は3泊の予約を入れてしまった。せっかくのベルリン滞在が、たった2日では物足りないだろうと考えたのかもしれない。

ホテルはZOO駅から続くメイン・ストリートに面していた。超現代的なデザインで、僕の好きなドイツ田舎風の素朴なこぢんまりとした感じではなかった。部屋はちょっと狭かったけど、室内デザインは斬新で心地よかった。料金はちょっと高かったけど、設備に関しては及第点。まぁまぁの初ベルリンだった。

チェック・イン後、早速ベルリンを散策。ZOO駅まで歩いて戻った。駅前の大きな交差点から、塔の上部が吹き飛んだ異様な教会が見えた。ネオ・ロマネスク様式のカイザー・ヴィルヘルム教会だ。1888年に死去したヴィルヘルム皇帝のために19世紀末に建てられた。教会は第二次世界大戦中に空襲を受け、尖塔部分が破壊された。そして戦争の悲惨さを忘れないため、そのままの形で今も残されている。

夕方、アンゲラが僕たちをホテルに迎えに来た。ベルリン到着初日、僕たちが選んだ夕食は和食。せっかくドイツに来ているのだから、ドイツの料理でもいいのだけれど、僕の胃袋がドイツの食べ物とあまり相性がよくない。アンゲラもそれを知っているから素直に和食に賛成してくれた。

夕食後、近くのバーで飲もうと歩いた。途中、急に雨が強く降り出す。すでにヨーロッパを何度も旅している僕は、突然の雨に慣れっ子になっていた。多少降っても一向に気にならない。よほどのことがない限り傘などささない。とはいえ、髪の毛が濡れるのはイヤなので、バンダナを頭に巻いてそのまま歩いた。

都市としてのベルリンの起源は13世紀前半に遡る。1701年にプロイセン王国が誕生し、ベルリンはその都に昇格。その時、人口はわずか3万弱だったという。東西ドイツ統合以後、首都機能がボンから移転し、旧東ベルリン地域の再開発が推し進められた。そのため人口は軽く400万人を越し、さらに増えていくだろうと言われていた。

400万都市ベルリンの面積は、東京23区の約1.5倍だそうだ。狭い地域に無理矢理過剰な人間を押し込んだ東京より、ベルリンの方がいくらか暮らすのに快適かもしれないと感じる。ドイツ、正しくは「ドイツ連邦共和国」には、いろいろな州がある。ベルリンやハンブルクのように都市がそのまま1つの州という、政治単位となっている例もある。それぞれの州には独立した州政府があり、首相もいる。

ドイツは元々都市国家の集合体のような国で、実質的には19世紀後半になって初めて統一国家としての形ができた。それぞれの地方や都市に住む人々の意識は、日本人には信じられないほど強烈でスゴイものがあるらしい。それが一番よく表されているのが、ドイツのプロサッカー・リーグである「ブンデス・リーガ」だろう。どの街にも伝統のあるサッカー・クラブがあり、さらに熱狂的なサポーターがいる。その有名な例が、以前香川真司が所属していた北ドイツルール地方のドルトムントだろう。

アンゲラに会った翌々日、彼女の友人ヨアヒム(仮名)が僕たちをフィルハーモニーでのコンサートに招待してくれた。彼は僕たちのためにチケットを買っておいてくれたのだ。もう1人ヨアヒムの友人で、以前パン・アメリカン航空でCAをやっていた女性も一緒だった。パン・アメリカン航空…!なんて懐かしい名前だろう。その昔、TBSテレビで『兼高かおる世界の旅』という番組があって、確かそのスポンサーがパン・アメリカン航空だったと記憶している。

海外でクラシック・コンサートに行くのは初めて。もちろん日本でも滅多に行く訳ではない。さぁ、困った…!僕たちは旅の途中。スーツなどフォーマルな洋服など持ってない。恐る恐るヨアヒムに「コンサートへの服装はどうしたらいい…?」と聞く。彼はニコッと笑って「今のままのラフな格好でOK…!」と言ってくれた。クラシックのコンサートだからといって、ドイツでは特別に畏まって聞くものではないらしい。実際にコンサート・ホールに行ってみると、長髪でパンクっぽいヤツとか、鼻ピアスとかスキンヘッドの若者もいたのでこっちが驚いたほどだ。

その夜の指揮はアシュケナージ。曲目はドヴォルザークの『交響曲第5番』。クラシック・ファンなら「ブラヴォ〜!」と言って大喜びするだろう。だけど僕たちには「猫に小判」。大変に勿体ない。といって僕は、クラシック音楽を全く聞かないわけではない。ラジオCM制作という仕事柄、これでもちょこちょこ聴いている方なのだ。

演奏が静々と始まった。しばらくすると、その快い旋律の波にうっとり。その内、上の瞼と下の瞼がランデブー。4月下旬にアムステルダムに着いてから、旅を始めてちょうど6日目。疲れが溜まっていた頃だと思う。ちょっとウトウトしている間に演奏は終わった。喝采で拍手と歓声で目が覚める。ブラボ〜!

「どうだった…?」とアンゲラに聞かれる。

「とても“気持ちのいい”演奏だった…!」と僕は正直に答える。彼女はニタッと笑った。どうやら僕の居眠りはすっかり見られていたようだ。

コンサート終了後、みんなでブランデンブルク門近くウンター・リンデン沿いのカフェに向かう。ブランデンブルク門は東ベルリンと西ベルリンを分ける凱旋門で、1788-91年にラングハンスが造った。門の左右にある建物は衛兵詰所と税関。高さ20m62m奥行き11m。門の上部には、勝利の女神ヴィクトリアを乗せた四頭立て二輪馬車。

ブランデンブルク門のそばで、白い十字架がいくつも並んでいるのを目にした。アンゲラの説明によると、それはベルリンの壁を超えようとして命を落とした人たちの墓標だという。白い墓標はたくさんあり、左から右へ年代順に並んでいた。早速僕は写真を1枚撮る。

新しい方、つまり右から3番目の白い墓標に『19801122Marienetta Jirkowski』と書かれていた。その右隣が『1989年2月5日Chris Goeffroy』。そして1番右の墓標が最新の『198911月9日』。ベルリンの壁が崩壊した日だ。1989年2月5日、Chris Goeffroyは壁を乗り越えようとして射殺された。

後わずか9ヶ月と少し待てば、クリスはベルリンの壁を、たくさんの市民の歓喜の声と共に簡単に越えられた。たった9ヶ月と少し。しかし当時の彼は、ベルリンの壁崩壊なんて想像もできなかったのだろう。壁に囲まれた陰鬱な生活に、もうそれ以上耐えられなかったのだろう。それは多くのベルリン市民も同様だったと思う。ベルリンの壁崩壊。それはまさに「奇跡」の出来事だったのだ。



# by 1950-2012 | 2019-04-09 17:52 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

小食で偏食気味で脂っこい料理が苦手な僕が、旅先でメチャ難儀をするのは何と言っても「食」に関してだ。朝はホテルの朝食があるから何とかなる。ドイツを旅している時なら、丸っこいパンをナイフで2つに切ってバターを塗り、パンの間に薄切りのチーズやハムを挟む。コレを手づかみでパクつく。フランスならクロワッサンなんてシャレオツなパンもあって、カフェ・オレと一緒に食べられるから嬉しい。

パンの他にはホテルによって差があるけど、トマトやキューリやレタスなどの野菜。時には薄くスライスした赤や黄色のピーマンも、そのままシャキシャキと青虫のようにかじったりする。さらには、ソーセージやベーコンなどの肉加工品。ヨーロッパはさすが豚肉加工の本場だけに、これがとっても美味しい。ただちょっと塩味がきついから、血圧の高い人は要注意。

フルーツ・ジュースは朝食の1番最初に飲むことにしている。イロイロな種類がある。僕的にはトマト・ジュースが欲しいんだけど、ホテルによってはないこともある。僕が泊まるホテルはシングル1泊€60〜€70が多いから、贅沢なんて言えやしない。

朝食時の飲み物として、コーヒーも絶対に欠かせない。コーヒーは淹れる水がよくないと美味しくない。そういう意味で、アルプスに近いスイスやオーストリアのホテルで飲んだコーヒーは美味しかった。これはあくまでも僕個人の感想。フランスのコーヒーが決して「まずい!」という訳ではない。

スクランブル・エッグとかゆで卵も、あれば嬉しい。他にはヨーグルト。リンゴやバナナなどもあれば幸運。シリアルなども食べるけど、元々牛乳を飲むとすぐにお腹がピーゴロしてしまう体質だから、特に列車で移動するなんて日は極力避ける。1人旅で列車移動の時、トイレに駆け込むのは安全面から考えても少々心配なことがある。ということでよほどのことがない限り、小食で偏食気味で脂っこい料理が苦手な僕でも、ホテルの朝食に関してはOKなのだ。

昼飯はレストランが混む時間を避け午後2時近くが多い。時にはハンバーガーとかケバブで簡単に済ませる。ケバブは量もほどほどで、野菜などもタップリ入っているから栄養効率も悪くない。ただ、時によって胃にモタレる。そのためいつも、大田胃散が出番を待っている。

昼飯はもっとシンプルに、ビールと焼きソーセージだけっていう日もある。ソーセージをドイツ語では「ヴルスト(wurst)」と言う。ドイツにはそれぞれの土地にそれぞれ個性的なヴルストがある。僕的には小指サイズの「ニュルンベルガー」か、日本で言うフランクフルトよりちょっと長めの「テューリンガー」がおススメ。どちらも焼いた方が美味しい。他にはカレー粉をまぶした、ベルリンで人気の「カリー・ヴルスト」もグート!

列車で移動する日は、落ち着いて飯を食べる時間がない。列車の中にはビュッフェなどもあったりするけど、金がかかるし、やっぱり荷物のことが心配なので席を長い時間離れられない。ということで列車に乗る前、駅のキオスクでサンドィッチを買ったりする。大体買うのは、バゲットにハムやチーズ、レタス少々がはさまったタイプ。これが美味しい…!小麦の質が違うんだと思う。パンの皮はパリパリして食感がいいけど、僕は時々そのパリパリのせいで唇の周りや口の中を切って難儀する。

僕としては朝食も昼食も何だってイイのだ。だけど夕食にはちょっと気が入る。簡単に何でもいいイイって訳にはいかない。ということで、夕食時間が近づくと毎回悩んでしまう。フランスやドイツでも、和食店があれば、よほどひどいネーミングの店でない限り入ってしまうことが多い。

理由は英語以外のメニューが読めないからだ。頼んで何が出てくるのか分からないというのは冒険すぎる。しかも量が半端なかったり、脂濃かったりしたら三重苦。それなら素直に店の人に聞けばいい。とりあえず英語に関して、僕はTOEIC650点まで行ったことがある。テストを受けたのは50代半ばを過ぎてからだった。もっと若いうちに頑張っていれば、750点ぐらいまでは行ったかもしれない。

英語は適当にできるけど聞くのは面倒。メニューはチンプンカンプン。だから和食が多くなる。でも、和食は結構高い。長旅だと節約しないといけないから、毎日和食って訳にもいかない。それよりも、まともな和食店は地方の街に行ったらほとんどナイ。ということで夕食に選ぶのが、主にイタリアとインドと中国の料理。その他としては韓国とかタイとかベトナム。

イタリア語もヨーロッパ言語。当然僕は、英語以外はまるでダメ。ドイツ語だけは大学でちょっと勉強したけど、会話となるとほとんどダメ。でも不思議に、イタリア語のメニューだけは分かる。日本のイタリアン・レストランだったら、メニューも日本語とイタリア語の併記だったりする。そこで料理名のイタリア語と遭遇している。それにイタリア語はローマ字読みでいいから、カタカナで覚えた料理名も簡単に読めてしまう。

次にインドは、過去イギリスに統治されていたから、ほとんどのインド料理店のメニューは現地の言語と英語の併記だったりする。それに店の人間も英語が喋れるから会話は成り立つ。またカレーの各種スパイス群は、疲れた体に薬事効果があるようにも思える。実際にターメリック(鬱金)など、カレーのスパイスはほとんど漢方成分。

さて、中国料理はどうか…?日本人にとっては一番馴染みがあって安心。メニューだって漢字の併記があるし、ある程度の中国料理は日本でも食べているから何となく分かってしまう。ただし、料理の量はヨーロッパ仕様。日本で頼む1.5倍以上あったりするから、小食の僕は困ってしまうことも時にはある。

僕が中国料理店で注文するもの。実は種類としてはあまり多くない。トップ3はチャーハン、焼きそば、春巻き。それだけではあまりにも寂しいので、僕の場合は「北京スープ」を注文することが多い。北京スープは何と言うか酸辛湯みたいなスープ。小さ目のお茶碗に入っていて、ケチャップ味の酸っぱ辛いトロッとした温かいスープ。

北京スープでの思い出はたくさんある。例えば1997年春、フィンランド内陸部ハーメリンナ。夕食は街の中心部にある中華レストランで済ませた。注文したのはいつもの酸っぱ辛い北京スープと春巻き。日本酒の熱燗もあった。これは嬉しい。ちびちび日本酒をやりながら、太い春巻きを食べる。北京スープの酸っぱさが、旅に疲れた胃袋を優しくいたわってくれる。その辛さは、たぶん店を出た後に襲ってくる北国の寒気から僕を保護してくれるだろう。

夕食後、橋を渡って湖沿いの道をホテルへ戻った。ホテルのすぐ手前で美しい湖畔風景を眺めていると、突然背後の藪でガサゴソという音がした。暗くて何も見えない。音がした藪の中をよく見ると、何かが奥の方に潜んでいた。ビデオカメラを取り出し、目一杯ズーム・アップしてその物体を映してみる。

暗い藪の中で2つのピカッと光る小さい物体が見えた。動物の目…?光っている…!ねずみ、もぐら…?!いや待て、針のようなものが体中に貼りついている。じゃ、はりねずみか…?僕は今まで本物を見たことがない。いや、見たことがある。ロシアのアニメ作家ユーリ・ノルシュテインにハリネズミが主人公の作品があった。ロシアとフィンランド。距離も近いし、気候もよく似ている。その可能性が高い。

ホテルに戻って、バー・カウンターにいる若者にビデオを見せた。彼は「hog!」と言った。辞書で調べてみると「hedgehog」とはハリネズミのこと。なるほど納得。ハリネズミだったのだ。若者は続けて「この辺の山には蛇もいるから気をつけて」と僕に言った。こんな寒い所に蛇が…?まさか…!

次の思い出は200212月末。フランス北西部ノルマンディー地方の中心都市ルーアン。その日は土曜日だった。中心部の広場周辺のバーやカフェはどこもほぼ満員。さて、夕食。まさかルーアンに和食店があるはずもない。しばらく歩いて「アルデンテ」というイタリアン・レストランを見つけた。パスタと野菜サラダ、それにミネストローネなんか悪くない。さらにブラブラ歩き続ける。

あるブティックのドアの前に、1匹のラプラドル・レトリバーがきちんとお座りしていた。店内にいる飼い主を静かに待っているのだ。コンパクト・カメラで1枚写真を撮る。犬は微かなシャッター音に反応した。後ろを振り返る。しかし、音の出所と理由が分からない。僕の隣にパンを食べている男がいた。犬は食べ物をくれるものだと勘違い。男の前に行儀よくお座りをして、男の顔をじっと見つめた。

その後ウロウロと探し歩き、細い路地の奥に「大熊猫飯店」という漢字の看板を発見。入口のメニューを見た。メニューは全部フランス語。全く分からない。でも中華料理、何とかなるはずと思った。とりあえず店の中に入ってみた。やっぱり英語のメニューはなかった。しかたなく、いつもの酸っぱ辛い北京スープと揚げ春巻きを注文。全く芸がない。飲み物は白ワインのデキャンター。せめてこれだけがフランスっぽい。折角「グルメの国」にいるというのに、全く

この後も何度か僕は、夕食に困った時は中国料理店に入って「北京スープ」を頼んだりしている。まさに「困った時の、北京スープ」なのだ。温かくて、酸っぱくて、適度に辛くて、量的にもちょうどイイ。だけど日本の中華料理店では、理由は分からないけど、北京スープをメニューであまり見た記憶がない。





# by 1950-2012 | 2019-04-06 08:26 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

1994年夏の旅は、友人斉藤クン(仮名)と一緒に北イタリアの大都市ミラノからスタートした。と言っても到着直後、ミラノには空港と中央駅にいただけ。その後は北イタリアのトレント、ヴェネツィア、フィレンツェとイタリア数都市、さらにフランス、ドイツ、スイスの街々を巡って、再び出発点ミラノに戻るという旅程だった。

南スイスのロカルノから出発点のミラノに戻った後、僕たちはTAXIで街の中心部へ向かった。まずは帰国までの3日間宿泊するホテルを探す。そのためミラノに向かう列車内で、ガイドブック広げイロイロ検討した。条件は街の中心部に近くて便利、料金もリーズナブルでよさげなホテル。目星をつけていたホテルは、行ってみると夏休みで休業中だった。1発目から空振りってのは何とも空しいけど、何でもかんでも旅人の思い通りにならないってのが旅=トラベル=トラブルなのだ。

まだヴァカンス・シーズン真っ只中。休業中のホテルも多い。とりあえずはドゥオーモまで行き、辺りのホテルを歩いて探し回るのが賢明かもしれない。ということで、ドゥオーモ近くでTAXIを降りた。あてがあった訳ではないけど、何となく歩いているとホテルがあった。まずは空室があるか聞いてみる。OK〜!3連泊したいと言うと、ディスカウントすると言ってくれた。ラッキ〜!ドゥオーモまで歩いて5分という便利な場所。希望条件にぴったり。即決だった。

早速荷物を部屋に置いてドゥオーモ前広場へ向かった。以前ミラノを訪れたことのある友人からこんなことを聞いている。ドゥオーモ周辺には、ジプシーの子供の集団が観光客目当てにスリをしようと絡んでくるという。数人で取り囲み、隙を見て金品を盗むのだ。子供だから逃げ足は速いし、近辺の土地勘にも明るい。追いかけていくと、どこからか仲間がどっと出てきてひどい目に遭うらしい。

そう思って警戒していると、向こうからそれらしき子供たちの一団がやって来た。僕は彼らと目を合わせないよう道路の端側を歩いた。しつこく迫ってきたら、急に店の中に入ったり、早足になったりして逃げようと身構えた。作戦成功…!まるでアフリカの大地を我が物顔で徘徊するハイエナのようだ。しばらくすると、彼らは他の人間に目星をつけ離れていった。

まずは、ドゥオーモの先にあるV.エマヌエーレⅡ世のガッレリアに行ってみた。ガッレリアは上から見ると、ちょうど十字架の形をしている。2つの通路が交差する真ん中の地点に、美しいモザイクのタイルで勃起した雄牛が描かれている。ちなみに僕は牡牛座。勃起した雄牛が何となく気になって見入ってしまう。

ガッレリアには高いガラス天井があり、その下のアーケードに有名ファッション・ブティックやカフェや本屋、アクセサリーショップなどがたくさん並んでいる。ここはミラノ観光の拠点。観光客がかなりたくさん行き来している。もちろん僕たちと同じように、平たい顔をしたモンゴリアンの観光客も多い。

ちょうど昼飯時。ガッレリアの中に、何となくいい感じのスパゲティ専門レストランを見つけた。店内を覗くと、丸いカウンターの中にオープン・キッチンがあり、コックがスパゲティを客の目の前で調理していた。いろいろトッピングが選べるようで楽しそうだ。昼時も大分過ぎていたので混んでない。ということで空腹の僕たちも入ってみた。

この数日前、僕たちは北スイス、ライン河畔の小さな街シュタイン・アム・ラインで、話にならないほどひどいスパゲティを食べていた。僕が人生で食べたワースト3に入るだろう。だけど今は「パスタの国」イタリアにいる。まさか、あんな腰のない、意味なく量ばかりのスパゲティは絶対に出てこない。そう信じきっていた。

どうでもいいけど、調理している濃い顔をしたコックが、僕にはどう見てもイタリア系というよりトルコ系にしか見えなかった。極東からやって来たただのオッサンが、イタリア系とトルコ系を簡単に見分けられるのか…?と言われそうだけど、たぶん僕の勘は当たっていただろう。その頃数日間の僕の勘といったら、それはもうスゴイものだったのだから。なぁ〜んて、勝手に思ったりしていた。

目の前でスパゲティがドンドン調理されていく。はふはふはふ、くぅぅぅ・ふくぅぅぅ〜!僕たちはまるで「パブロフの犬」状態。フライパンの上で踊るニンニクの香りが、食欲中枢を強烈に「これでもか!これでもか!」と刺激し続ける。空腹の僕たちはなす術もなく、ただ料理ができ上がるのを従順に待つだけ。そして数分後、僕たちの目の前にサラがコトンと静かに置かれる。

いざ、食わん〜!ゴングは打ち鳴らされた。シュルシュルパクパクシュルシュルパクパク。おぉ、それ・見よ〜!ミラノのスパゲティは当然のごとくおいしい。アッという間に皿から消えてしまった。2日前に食べたシュタイン・アム・ラインのスパゲティと較べたら、まさに月とスッポン。本場の麺はシコシコで、小麦は由緒正しきデューラム・セモリナであった。などと大満足。

腹が満たされたら、ミラノの象徴ドゥオーモの見学となる。ドゥオーモは14世紀後半に着工して16世紀に完成。イタリアを代表するゴシック建築の大聖堂だ。その姿は重々しく荘厳華麗であり、威風堂々と見る者を威圧してくる。見あげると屋根の上が、まるで森林のように見える。小さな柱がズラーッと何本も林立しているのだ。

ドゥオーモの屋根に登れば、誰もがビックリするだろう。それらは小さな柱などではなく、一個一個独立した大理石の彫像だったのだ。その数は全部で2000を超えるというからすごい。気の遠くなるような数だ。下から見上げただけでは、きっと分からないだろう。屋根までエレベータに乗って行けるので、時間のある人は昇ってみるといい。その壮麗さと細密な彫刻技術に驚かされることは間違いない。

たぶん酸性雨の影響なのだろう。林立する彫像の中には形が崩れ欠けていたり、変色したりしている物も多数あった。僕にはそれがちょっと気がかりだった。さぞかし修復には、大変な労力と時間と費用がかかるだろう。どんな世界遺産でも、見守り保存していくのは人間しかない。

ドゥオーモの屋根に使われている材質は、すべて美しい巨大でミルキーな大理石。その大理石の大きな石板が、屋根の上にビッシリと何枚も敷き詰められていた。だけどその重さで、よく屋根が抜け落ちないものだと妙な感心をしてしまう。きっと地震の多い日本だったら、簡単に瓦解しているだろう。

さて、夏場のイタリアの朝は時々衝撃的な雷鳴で始まる。ミラノ到着の翌朝、目が覚めると雷鳴が轟いていた。気になって窓を開ける。稲光は思ったよりも遠く感じた。安心していると、突然「ガラッ・ピシャ〜ン!」と凄まじい大音量。同時に激しく雨が降り続いた。雷は近くまで移動してきたようだ。

僕はノーテンキにも、北イタリアの雷の音でもビデオに録っておこうと思った。窓のそばで外に向かってビデオ・カメラを向ける。いい感じだ、雷鳴がドンドン近づいてくる。当時僕は、ラジオCMの企画と演出をしていた。だから2度と録れないかもしれない音に夢中になったのだ。窓のそばでジッとしている。すると、本当に目の前に雷が落ちてきた。

「ピカーッ!ドシャン!ガラララビシャァーン!ピィー!ピィー!ピィー!ピィー!ピィー!」

凄まじい衝撃だった。僕は思わず、後ろに1mぐらい吹っ飛んだ。最後の「ピィー!ピィー!」という音は何か警報音のようだった。きっと雷がよく落ちるからなのだろう。外では誰も騒いでいる様子がなかった。日常茶飯事なのか。そして10分後。雨は突然上がり、街は何事もなかったような表情を取り戻す。ビデオを再生してみると、確かに目が眩むような稲光と強烈な衝撃音が残っていた。

早い時間に雷鳴で目覚めてしまった。何もすることがないので、ドゥオーモまで歩いて行ってみることにした。こういう時、街の中心部でホテルを探しておいてよかったと実感する。ドゥオーモに行ってみると、聖堂の中はひっそり静まりかえっていた。前日は観光客が多くて賑わしく、ざわめきが堂内に響いていたので、ゆったりとした気分で聖堂内を見られなかった。朝早めにやって来て正解だったのだ。

聖堂内には美しいステンドグラスがあった。朝日を受け色とりどりに輝く神々しい光の中にいると、クリスチャンでなくても神妙な気分になる。誰でもその聖なる空気に心打たれ、思わず懺悔室に入り、今までの悪行の数々を司祭様に告白したくなるだろう。僕の場合、懺悔しなくてはならないことが多過ぎて、何から始めたらいいか悩む。神よ、罪多き、平たい顔の東洋人をお赦しください。

ドゥオーモは本来、敬虔なクリスチャンであるミラノ市民の祈りの場だ。朝は通勤前の敬虔な市民たちがたくさんお祈りしている。観光客は邪魔にならないよう注意しなければならない。騒々しい話し声やカメラのストロボなどで、神聖な祈りの時を妨げては絶対にならない。それはミラノだけでなく、どこの国の教会においてもなのだ。



# by 1950-2012 | 2019-04-03 17:50 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

初めてヨーロッパを旅したのは、1990年4月下旬から5月上旬にかけて。その時はドイツだけを旅した。当時仲よくしていたドイツ人女性アンゲラ(仮名)が、ゴールデン・ウィークにドイツに帰るというので、僕は高校時代から憧れていたドイツに行ってみようという気になったのだ。

アンゲラは北ドイツの工業地帯、ルール地方ゲルゼンキルヒェンという街に実家があった。この街のサッカー・チーム、ブンデス・リーガの「シャルケ04」は、Jリーグ鹿嶋のDF内田選手が在籍していたことでも知られる。

当時、アンゲラはボーフムにあるルール大学に通う学生だった。だけど短期間休学して、日本に語学学習にやって来ていた。日本語を学んでいたのは六本木の教会。ある時、六本木のバーでアメリカ人の友人のLIVE演奏があり、その時に僕がカウンターで飲んでいたアンゲラに話しかけたのが出会いだった。忘れもしない、それは東西ドイツ統合1年前のことだ。

初めてのヨーロッパと言っても、仕事の都合で長期休暇は取れなかった。ということで、何とかヤリクリして7泊8日。ドイツ1国ということになった。まずはKALの格安航空券を18万円で手に入れる。空路は成田からソウルで乗り換え、その後アンカレッジ経由でフランクフルト国際空港に向かうという、今時ならあり得ない遠回りだった。

ドイツに到着した時はさすがに疲れ果てていた。まずは空港からTAXIでフランクフルト中央駅に向い、切符を買って南ドイツのカールスルーエに列車で向かう。この頃はまだ、便利なユーレイルパスの存在なんて知りもしなかった。必要があればその都度、面倒だけど駅で切符を買っていたのだ。

ドイツ到着当日のホテルは予約してなかった。カールスルーエ中央駅に着いたら、荷物をコイン・ロッカーにぶち込んでホテル探し。しょっぱなから行き当たりばったりの旅だった。翌日は、別の友人女性ニナ(仮名)が住む近隣のプフォルツハイムで1泊。続いて大学町のテュービンゲン、ドナウ源流と言われる黒い森の中のドナウエッシンゲン、そこから北上しアンゲラの実家があるゲルゼンキルヒェン。そして最後に、出発地のフランクフルトへと舞い戻った。

2度目のヨーロッパ旅行は、1991年春のデンマーク。これまた仲のいいデンマークの友人が、ゴールデン・ウィークにアンデルセンの生まれ故郷オーデンセにある実家に帰るというので、「これはチャンス!」とデンマーク行きを目論んだ。この時はデンマーク1国。だからレイルパスは考えなかった。

3度目のヨーロッパは再びドイツ。1991年暮れから1992年正月にかけて南ドイツを訪れた。この時も仲のいいドイツ人女性が、故郷ロマンティック街道の南の拠点アウクスブルクに帰るというので、せっかくだからと便乗。泊まる場所は確保すると言ったので、それを信じて旅立った。滞在はアウクスブルクとミュンヘン。ということで、この時もレイルパスは考えなかった。

4度目の旅も似たようなもの。それは1992年暮れから1993年正月にかけて。友人の土岐クン(仮名)と一緒に日本を旅立った。パリからブリュッセル、ルクセンブルク、ハイデルベルク、そして1990年に訪れた南ドイツのプフォルツハイム。それから再びフランスに入り、ストラスブール、パリへと戻る旅。この時こそレイルパスがあれば便利だったのに、なぜか駅で切符を買って旅をしていた。

ということで、僕は4回もヨーロッパを旅したのに、便利なレイルパスを使おうとしなかった。と言うより、レイルパスの買い方や使い方がよく分からなかったと言った方がいいかもしれない。その頃はまだワード・プロセッサーを使っていた頃。イロイロ簡単に検索なんてできなかった。僕がMac.を使い始めるのは2000年以降。それからは旅の情報集めも楽になった。

初めてレイルパスを買い求めたのは1993年春。5度目のヨーロッパだ。旅はオーストリアの首都ウィーンから始まり、リヒテンシュタイン、ドイツ、チェコ、再びオーストリアに戻り、ハンガリーのブダペストに1泊するという、長期の鉄道旅。この時は業界の大先輩、音響効果の達人である深町氏(仮名)との2人旅だった。

それまでの経験から、僕は列車に乗るたび切符を買うのが面倒だと分かっていた。ということで便利な、さらに1等車に乗り放題で快適なユーレイル・グローバルパス購入を決めたのだ。まさにヨーロッパを駆け巡る「魔法の絨毯」、ただし割高だと言う人もいるから賛否両論。

ユーレイル・グローバルパスは便利であっても、列車に乗らないと、その日の分が無駄になってしまう。勿体ない。だから僕は無駄のないよう、毎日意味なく列車に乗っていたりする。僕は列車に乗っているのが嫌いでないからいいけど、ゆっくりじっくり旅をしたい人には、そんな旅はもしかしたら忙しすぎて耐えられないだろう。

そんなこんなで5度目の旅以降は、ユーレイル・グローバルパスを使うことが多くなった。ちなみにユーレイル・グローバルパスを発行する組織「ユーレイル」(Eurail)とは、オランダのユトレヒトを本拠地とし、ルクセンブルクに登記されている企業「Eurail Group G.I.E.」のこと。ユーレイル・グローバルパスをはじめとする、ヨーロッパ各国の鉄道パスを発行している。

そういえばレイルパス使用後、アンケートを送った先が確かユトレヒトだった。お返しにノベルティをもらったけど、アレは今どこにいったのだろう…?さらには2000年春。旅の途中アムステルダムでショルダーバッグを盗まれ、ユーレイル・グローバルパスも失って気落ちしていた時、レイルパスの再購入をしたのもユトレヒトの中央駅だった。ハッキリ言って、あの時は助かった。

一口にレイルパスと言っても、実は多種多様なバリエーションがある。僕が使っている、ヨーロッパほぼ全域をカバーする「ユーレイル・グローバルパス」や各国別のパス。「ユーレイル・リージョナルパス」や「ユーレイル・セレクトパス」のように2〜5カ国の隣接した地域を周遊するパス。2〜6人が同一旅程で乗車する時に割り引かれる「セーバーパス」や、26歳未満の若者向けの「ユースパス」などもある。

ユーレイル・グローバルパスは通用日連続タイプで[15日・21日・1ヶ月・2ヶ月・3ヶ月間]の5種類。毎日列車に乗らないのならフレキシー・タイプがオススメ。10日間の有効期間内に5日間、または2ヶ月の有効期間内に1015日間の利用日が選べる。基本的に乗車できるのは1等車。だけどユース用(1227歳)のパスは2等車限定。他にも、60歳以上の「シニアパス」もあるらしいけど、残念ながら僕はまだ使ったことはない。

ユーレイル・グローバルパスはヨーロッパ28ヶ国で利用できる。アイルランド、イタリア、オーストリア、オランダ、ギリシャ、クロアチア、スイス、スウェーデン、スペイン、スロベニア、チェコ、デンマーク、ドイツ、ノルウェー、ハンガリー、フィンランド、フランス、ベルギー、ポルトガル、ポーランド、ルーマニア、ルクセンブルク、ブルガリア、スロヴァキア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、トルコ。ヨーロッパの国はほとんど網羅しているけど、なぜかイギリスだけは使用できない。通貨もそうだったけど、イギリスってイロイロと面倒な国だなぁって思う…!

今まで僕がユーレイル・グローバルパスを使って、1回の旅で列車に乗った最長距離は、2013年初夏の36日間6,161kmだ。36日と言っても、僕が持っていたのは1ヶ月通用するパスで、最初の6日間は面倒だけど駅で切符を買った。この時はスイスから旅を始め、リヒテンシュタイン、オーストリア、チェコ、ドイツ、フランス、ベルギー、オランダと駆け巡った。たぶん、ふふふ、元は取れたような気がする。



# by 1950-2012 | 2019-03-31 09:38 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

僕はヨーロッパを旅する時、到着日と大都市滞在日はホテルを予約するようにしている。特に到着日は絶対に予約が必要。旅の初日から、泊まるところがなくて右往左往なんてしたくないからだ。実は過去に、到着日にホテルが見つからなくて青ざめた経験がある。それは1997年春オランダ。飛行機の都合で到着時間が遅くなり、列車で大学町ライデンに着いたのは、駅のツーリスト・インフォメーションが閉まるギリギリの時間だった。

4月下旬は観光シーズンまっただ中。ホテルを探し始めた時間も遅く、結局ライデンでもアムステルダムでもホテルはフル・ブッキング。最終的にデン・ハーグで空室を見つけてもらい、何とか1泊することができた。だけどホテルが見つからなかったらどうなっていたか…?僕は一瞬だけど“野宿”も考えた。

次に大都市。大きくて有名な街でホテルを探すのは面倒。ツーリスト・インフォメーションも混んで時間がかかるから、事前に予約するようにしている。でも、人口10万人以下の街だったら、中心部である旧市街も駅からそんなに離れてない。ホテルを見つけるのも簡単。僕は駅から歩きながら、ホテルをシラミつぶしに空室があるか聞いて、さらには部屋を見せてもらう。

ホテルが決まってないってことは「Like free as a bird.」って感じ。その日、どの駅で降りて、どこに泊まろうが、全く「鳥のように自由気まま」なのだ。確かに自由気ままではあるけど、真冬とか雨降りなど、気象条件が悪い時は泣きたくなることもある。そんな辛い思い出が、実は過去に2度ほどあった。

最初は20031月上旬。フランス北西部のノルマンディーとブルターニュを旅した時だ。まず到着当日はパリで1泊。当然予約した。ロケーションは便利なモンパルナスで、フランスなのに「デンマーク」という名のホテルだった。この時の旅の主目的は、ノルマンディーで映画『プライベート・ライアン』の撮影地を訪れることだった。その後は、観光客でごった返す人気のモン・サン・ミッシェルを避けてブルターニュへ。

ブルターニュでの主目的は、謎の多いカルナックの巨石群を見ること。そのための拠点として、僕はヴァンヌという街に3連泊しようと考えた。ヴァンヌは1世紀頃ローマ帝国の支配を受け、周辺には2000年近く前に造られた円形闘技場もある。

列車でヴァンヌに着くと少し雨が降っていた。ガイドブックの地図を見る。駅のそばに数軒ホテルはあるけど、できることなら中心部がいい。ヴァンヌでは3連泊するつもりだった。僕はリュックのキャスターをカタカタ言わせながら歩き出した。小雨だから、多少濡れたっていい。ヨーロッパの人々を真似て傘はささない。

しばらく歩くと、意地悪く雨が徐々に本降りに変わった。「Oh、カツオ風味の本降り〜♪」なぁんておどける。まずい。非常にまずい。このまま濡れていると風邪をひく。そんな時、運よくホテルを発見。助かった。ドアを開けようとすると、ガッシリ鍵がかかっていた。時は1月上旬。フランスではヴァカンスとか年末年始、営業を停止するホテルが多いと聞く。諦めるしかない。でも、まずい。さっさとホテルを探さないと本当に風邪を引く。悪くすると風邪どころでなく肺炎になる。

とりあえず、ツーリスト・インフォメーションまで行けば何とかなるはず。地図が雨に濡れないようにして場所を確認。ツーリスト・インフォメーションは駅から遠い。場所はヨット・ハーバーのそば。でも、行くしかない。坂を下る。黙々と濡れながら歩く。傘をさせばよかったけど、今さら傘を出しても意味がない。すでにコートはびしょ濡れ。

何とかツーリスト・インフォメーションにたどり着いた。ドアを開ける。カウンターの女性がビクッとした表情で僕を見た。それはそうだろう。黒いフェルト帽を目深にかぶったびしょぬれの怪しい東洋人のオッサンが、帽子の庇から水滴をポトンポトン垂らしながら突然入ってきたのだ。

「すいません、ホテルを探しているんですが…?」

係の女性は笑顔で、この街のホテルが載っている地図をくれた。

「ここから近くて、お薦めのホテルはどこですか…?」

彼女はツーリスト・インフォメーションからすぐ近く、ヨット・ハーバーに面した「マリーナ・ホテル」を教えてくれた。礼を言ってすぐ向かう。マリーナ・ホテルは2つ星で1階がカフェ。フロントはカフェで兼任している。カウンターにいる男に空室があるか聞くと、店を仕切っている40代の女性が応対してくれた。

「今日、泊まりたいのですが、部屋は空いていますか…?シングルで、できればバス・タブのある部屋がいいのですが…?」

部屋は空いていると言う。ラッキー!部屋を見たいと言うと鍵を渡してくれた。階段を上がって部屋を見に行く。部屋は清潔。窓を開けるとヨット・ハーバーが見える。眺めもいい。バス・ルームも広い。しかも1泊€45.75で格安。文句なし。一旦部屋に鍵をかけて階下へ降りる。

「部屋はOKです。できることなら、明日と明後日も泊まりたいのですが…?」

Non〜!」

明日・明後日は土・日。予約が入っているという。

「他に空き部屋はありますか…?」

「残念だけど、ないです…」

「どこか他にいいホテルを知りませんか…?僕はこの街にはどうしても3連泊したいんですけど…?」

「あぁ、キリヤードがあるわ。あそこなら空いていると思う」

彼女はツーリスト・インフォメーションでもらった地図で、キリヤード・ホテルの場所を教えてくれた。

「すいませんが、部屋が空いているか電話で聞いてもらえませんか…?」

僕の図々しい申し出を彼女は快く聞いてくれた。

「部屋は空いているって。あなたの名前は…?」

「はい、セキです。エス・イー・ケイ・アイ、SEKIです」

これで3日間の滞在はOK。続けてさらに図々しくお願いした。

「すいません。TAXIも呼んでもらえますか…?」

ということで、雨の真冬のホテル探しは無事に終了。僕は幸運だったかもしれない。もしかしたら一生における、フランスで起こりうるすべての親切と幸運を、この時に使い果たしてしまったかもしれない。なぜならそれ以降、僕はフランスであまりいい目に遭ってないからだ。なぁ〜んて言っちゃって、ゴメン…!

2度目の雨の真冬のホテル探しは、2007年2月下旬ドイツだった。旅も終盤、2日後にはフランクフルト国際空港から帰国するという時。帰国前日は空港に近いマインツにホテルを予約してあるけど、前々日だけはホテルを探さなければならなかった。最初はフランクフルトから近い、木骨作りの家並みが美しい街リンブルクに1泊しようと考えた。リンブルクには1997年春に1度泊まったことがある。

とりあえずリンブルクに向かう。駅に到着すると小雨。傘をさすほどではなかった。懐かしい家並みを見ながら歩いている時、ふと今まで行ったことのない街に1泊するのもいいかなと考えた。そうだ、ヴィースバーデンに行ってみよう…!リンブルクから列車に乗ってしばらくすると、雨が本降りに変わった。あらら、ツイてないなぁ…!

午後3時半過ぎヴィースバーデンに到着。辺りはすでに暗くなっている。この街はライン河畔にあり、中部ドイツのヘッセン州の州都でもある。バーデンと言うぐらいだから、日本人の大好きな温泉がある。ゲーテやワーグナー、ドストエフスキーも訪れたことがあるというぐらい有名な温泉保養地。

降りがドンドン強くなっていく。雨の中で地図を広げたくない。だから、列車の中で地図をしっかり見て記憶しておいた。駅前から続くバーンホーフ通りに数軒ホテルがある。仮にそれらが満室だとしても、その先の市庁舎手前にツーリスト・インフォメーションがある。そこまで行けば大丈夫だろう。ただしツーリスト・インフォメーションまでは駅から1.2km近く。ちょっと遠い。

ヴィースバーデンは人口27万人。市庁舎のある中心部までかなり離れている。実はホテルが簡単に探せるほど、こぢんまりとした街ではなかったのだ。折りたたみ傘を広げて歩き出す。50mぐらい行くと、反対側の道路の奥まった所にホテルの看板。道路を横断していくのも面倒。まだこの先に数軒ある。黙々と前へ進む。できることなら1泊€50とは言わないにしても、€70近くには抑えたい。

ホテル「クラウン・プラザ」の看板が見えた。いかにも高そうな名前と雰囲気。その先にも飾り気がなくていい雰囲気のホテルが2軒。まずはそっちから聞いてみよう。ドアを開けて、フロントにいる初老の男に聞いてみた。

「すいません、今晩部屋は空いてますか…?」

「フル・ブックだ。向かいにもホテルがある。たぶんあっちなら空いているかもしれない」言われるまま向かいのホテルに行ってみると、そのホテルもフル・ブック。

「向かいのホテルなら、空いているんじゃないかな…」

フロントの若い男が、さっきのホテルと同じことを言う。どうやらこの日は政府関係のVIPが来ているらしく、どのホテルも関係者の宿泊や警備上の問題があって空室がないようだ。やばい…!

「実は、向かいのホテルでも同じことを言われたんだ。参ったな、どこか空いていそうなホテル知らない…?」

僕は困り果てた顔で若者に聞いた。彼はアテがあるらしく、早速受話器を取り上げ電話してくれた。

「€98だけどいい…?」

いいも悪いもない。もう雨の中を歩き回りたくない。ホテルは過去に何度も泊まったことのあるビジネスホテル風の「ibis」。まぁ、いいか。地図をもらった。歩いていくにはちょっと遠い。TAXIで行きたいと言うと、すぐそばに乗り場があると教えてくれた。

そうしてIbisホテルに無事チェック・イン。部屋に入って濡れた衣服を着替える。テレビでは野生の猪に襲われた主婦のニュース。そういえば2007年は亥年。日本でも野生の猪に襲われたニュースをよく見た。英語では亥年を「Year of the PIG」と言う。PIGの年か、何だか余りかっこよくないな。

ホテルは「コッホブルンネン」という、源泉が湧き出る公園の真ん前。落ち着いてから、ホテルを出てコッホブルンネンを見にいく。公園の真ん中に直径5mほどの円盤状のオブジェがある。そこからひっきりなしに湯が湧き出ていた。辺りに真っ白い湯気がたちこめている。この匂いは…?まさしく温泉…!触れてみると結構熱い。舐めてみると、ちょっと塩っぱい。はは、やっぱ温泉だぁ…!

夕食後、少し飲みたくてバーを探した。ホテルへの帰り道にいい雰囲気の店を発見。カウンター席が空いていた。嬉しいことにビールの種類も多い。カウンターの向こう側には、スペインから観光でやって来たカップル。楽しそうに飲んでいる。

ホテルに戻ったけど、まだ少し飲み足りない。ということで、フロント脇のバー・カウンターでビールを飲む。テレビではサッカー中継。フランクフルト対オッフェンバッハ戦。この時、フランクフルトには日本代表FW高原が在籍していた。前半終わって0対0。ビールを飲み干して部屋に戻る。

することもなく、サッカー中継の続きを見る。高原のゴールを見たいなとちょっと期待。すると、後半に入って高原が華麗なボレー・シュートを見せた。GOAL〜!続いて2点目も入れる大活躍。僕は「ヨッシャー、タカハラー!イイゾー、タカハラー!」と大声で叫んでしまった。



# by 1950-2012 | 2019-03-28 17:54 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

カメラを持ってヨーロッパの街を歩いていると、僕は常に見るモノ何にでも反応してしまう性癖がある。それはまるで、そこらの池に潜むダボハゼのように食らいつく。例えば目の前で動くモノ、いや、動かないモノでもコトでも、とにかく気になるモノ&コトなら何にでもパクリ!だからフィルム・カメラを使っていた当時、帰国後の現像代とかプリント代のことを考え、シャッターを押すことを少々セーブしていたと思う。

何にでも興味を持つ僕だけど、対象物をある程度決めて写真を撮ってもいることもある。例えば自転車。なぜか街角に何気なく停めてある極々ふつうの自転車が、僕には気になってしょうがないのだ。それも特別オシャレだとか変てこりんな格好をしたものでなく、ただただ普通の自転車に僕は時々惹かれる。

自転車は物静かに、街の風景の中に、あるがままの姿で佇んでいるだけ。何かを特に強く主張しているわけではない。だけど僕は、時々自転車が何かを語りかけてくるように感じてしまう。そんな時はレンズを向けて、じっくりファインダーの中の自転車を愛でてから、おもむろにシャッター・ボタンを押す。これが密かな愉しみ。そうやってヨーロッパの街角で出会った自転車の写真が、旅を重ねていくうちに少しずつ増えていった。

僕はどちらかというと、最新の機能的で高速走行できそうな、有名ブランドの高価な自転車に全く興味がない。自転車の持ち主にも関心がない。そして、自転車が道を走っている姿にもあまり興味が湧かない。

僕はフレームがぶっとくてゴツゴツした、何となく無愛想な働き者の自転車が好きだ。頑丈で飾りなんかなくて、大きな荷台でやたら荷物をたくさん運んでくれそうな、馬種で言えば「競走馬」のサラブレットではなくて、北海道の重そうな橇を引く「輓曳(ばんえい)競争」の荒馬みたいな自転車。

そんな一癖も二癖もありそうな自転車たちが、例えばひと仕事終え、体を休めているっていう感じ…?持ち主のことなど気にとめず、ただひたすら沈思黙考しているって感じ…?心静かに風景の中で、ただ埋没することを楽しんでいるって感じ…?う〜ん、言葉では上手く言えない。何たっていつも、相手(自転車)の方から、急に「ね、ね、こっち、こっち…!」って感じで声をかけられるのだから。

いろいろな街で、いろいろな道で、自転車は僕に声をかけてきた。フッと思い出しただけでも、フィンランドの首都ヘルシンキのアンティーク・ショップの店先に駐めてあったゴッツい自転車。ドイツのロマンティック街道ローテンブルクで見かけた、美しい花で飾られたちょっとオシャレな自転車。同じくドイツ南部の黒い森近くの大学町、フライブルクの小さな橋の上でパンクして、物憂げな表情を見せていた自転車。どれも年老いて頑固一徹な職人のような雰囲気を醸し出していた。

もちろん、そんな頑固者みたいな自転車ばかりではなく、時にはオランダやデンマークなどで見かける木製の特注荷台がついた自転車とか、場合によっては何の変哲もない市販の自転車にだって目が向いてしまうことだってある。たぶん自転車のいる風景に、僕が何か特別なものを感じてしまうからだろう。そうなってしまうと、シャッター・チャンスはドバドバァ〜ッ!と広がってしまう。

そうそう、フランスのロレーヌ地方のナンシーで撮った写真。この街はアール。ヌーヴォーで有名なんだけど、旧市街を歩いている時に見かけた自転車とワンコの2ショットがよかった。あるカフェの店先に自転車が駐めてあって、その傍らでワンコが物憂げな表情で座っていたんだ。僕は思わずシャッター・ボタンを押した。ワンコはただ飼い主を静かに待っていただけなんだろうね。僕には時間がとっても柔らかく優しく過ぎているって感じがしたんだ。

以前はフィルム・カメラだったから、いくらダボハゼっぽい僕でも撮影枚数はセーブしていた。でも、デジカメに替えた2008年以降、僕はとにかくやたらバチバチパチりとシャッター・ボタンを押し続けている。それがいいかどうかは分からないけど、帰国後に「あぁ、アレも撮っておけばよかった…」などという後悔はほとんどなくなったことだけは確かだ。



# by 1950-2012 | 2019-03-25 18:01 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

1997年春。友人の斉藤クン(仮名)とオランダからベルギー、ルクセンブルク、ドイツ、デンマーク、そして再びオランダへと戻る周遊の旅に出た。デンマーク滞在は、北ドイツのハンブルクから列車で国境を越え、ユトランド半島南東部の街Koldingコリングに移動しての1泊のみ。レイルパスで列車に乗りまくってヨーロッパをウロウロ。いかにも僕好みの「忙しない」旅だった。

コリング滞在の翌日、再び国境を越えてドイツに戻った。ハンブルク中央駅で列車を乗り換える時、突然「どうせなら、たまにはガイドブックに載ってない街に泊まってみたい」と思った。ということでトーマス・クック『時刻表』の鉄道路線図を見て、ヴィルヘルムスハーフェンという街を目指すことにした。

ハンブルクからブレーメンに移動しローカル線に乗り換える。目指すヴィルヘルムスハーフェンは終点駅。まずは駅到着後のホテル探し。と言って、地図はおろか街の情報は何もない。駅前でTAXIに乗った。とりあえず街の中心部まで行けばホテルが見つかるはず。運転手は怪訝な顔をした。そして「この街には、そんな中心部のような場所がない」と言う。

それまで僕が訪れたドイツのどんな小さな街でも、とりあえず市庁舎とか教会が集まる旧市街とか中心部らしい場所はあった。だから、中心部を目指せばホテルが数件あって何とかなる。経験上そう考えたのだ。参った、この街にはそんな中心部らしき場所がないのか…?じゃ、どうやってホテルを探したらいいのか…?

「どこかホテルを知らない…?」

「知ってるホテルがあるから、行ってみよう…!」

運転手がそう答えた。ちょっと不安はあったけどまかせてみることにした。しばらく走ってから1軒のホテルの前で停車。運転手は空室があるか聞きにいった。だけど「Nein」満室だった。では、もう1軒。TAXIはパン屋の前で停車した。

「パン屋…!なぜ…?あいつ、パン買いに行ったの…?」

しばらくすると運転手が出てきた。そして笑顔で「OK!」のサイン。何と、パン屋の2階と3階が宿泊施設になっていたのだ。これはドイツでよく見かけるホテル・ガルニなのだろう。ちなみにホテル・ガルニは、レストラン設備がないホテルで朝食用の食堂がある。外から見ればどうしたってパン屋で、絶対にホテルには見えない。

とりあえず部屋を見せてもらう。階段を上がると、1階からパンを焼いた美味しそうな香りが漂う。思わず腹がグゥゥ〜と鳴る。パン屋の2階はどんな部屋か…?不備があったり、不満を感じたら、僕たちは即刻「Nein!」と言うつもりだった。ドアを開ける。広さや設備に問題はない。しかも料金は超格安でリーズナブル。断る理由などない。と言うより、他にホテルがあるかどうかすら分からない。即決だ。

気持ちよく寝られる清潔なベッドがあって、料金が安ければ問題なし。もしも問題があるとすれば、この街に見るべきものが少なさそうということぐらい。それを承知で、敢えてガイドブックに載ってない街までわざわざやって来たのだ。分かってやっているのだから、文句を言ってはヴィルヘルムスハーフェンに失礼だろう。

階下に降りOKのサインを出す。チェック・インの手続きが終わると、パン屋のオヤジが翌朝の朝食時間を聞いた。何たってパン屋で食べる朝食。出来立てホッカホカのパンに期待がかかる。その後部屋に戻って調べたら、翌朝はかなり早い時間の列車に乗らないといけないことが分った。せっかくの朝食は無理だ。その旨を伝えると、オヤジは残念そうな顔をした。

ヴィルヘルムスハーフェンはニーダーザクセン州、人口8万人ほどで北海に面した港町。19世紀から軍港として栄え、1956年以来北大西洋条約機構(NATO)の海軍基地が置かれている。港のコンテナ取扱量は、ハンブルク、ブレーマーハーフェンに次いでドイツ3位だという。地名はドイツ帝国の初代皇帝ヴィルヘルム1世にちなんだものだそうだ。

ホテルを出て街を散策する。初めての街は発見がたくさんあって楽しい。だけど、ヴィルヘルムスハーフェンでは、これと言って面白いモノとは出会えなかった。教訓=ガイドブックに載っている街には、観光客を納得させるそれなりの風景と情報が詰まっている。とはいえどんな街も、大いに楽しむのが僕の旅。現地の人に「え〜っ、何でこんな所に来たの…?」という顔をされるのが、実は愉快・痛快なのだ。

ところで、せっかくのヴィルヘルムスハーフェン滞在。この時の旅ではビデオばかり回していたから写真は撮ってない。残念だ。今となっては、1枚も残ってないのが何だか哀しい。あぁ、撮っておけばよかった…!

話は変わって2013年初夏。ドイツからデンマークを3週間旅した。帰国便はコペンハーゲンの国際空港からと決まっていた。それで帰国前日は、空港まで列車ですぐに移動できるスウェーデン南部の街マルメにホテルを予約。でも、前々日はホテルの予約をせず空けておいた。行き当たりばったり、気まぐれにスウェーデンのどこかの街に行きたいと考えたからだ。

帰国前々日、アンデルセンの生まれ故郷デンマークのオーデンセから列車に乗った。まずはコペンハーゲン中央駅経由で国際空港駅へ向かう。そこから乗り継ぎのいい列車を捕まえようと考えた。スウェーデンでの行き先は未定。最初はマルメに近い大学町ルンドを考えた。ルンドは以前、日帰りで訪れたことがある。もう一度街をゆっくり見たかった。でも、今まで行ったことのない街にも行きたい。ということで数日前から、ガイドブックや時刻表を見ながら検討を続けていた。

マルメから東にある海沿いの街に興味があった。列車の連絡がよかったら、思い切ってイスタという港町に行ってみようと考えた。もしも東行き列車の連絡が悪かったら、逆にマルメから方向を180度変えて西という手もある。ルンドからさらに先にある海沿いの街にも行ってみたい。以前PCで検索したことのあるハルムスタッドという街が気になっていた。

コペンハーゲン手前の駅に、煉瓦造りの大きな建物が隣接していた。駅名は「南デンマーク大学」。あらら、駅がそのまま大学なんて珍しい…!南デンマーク大学は、オーデンセ大学が南デンマーク商科大学、南デンマーク工科大学、南ユトランド大学センターと統合してできた大規模な総合大学だそうだ。英語で多くの授業が開講され、毎年1,500人以上の留学生が学んでいるという。

やがて列車はコペンハーゲン中央駅を出て、海上の長い橋を走って国際空港駅に近づく。1等車両出口付近にたくさんの大きなバッグが山積みされていた。何で…?見ると、アラブ系の家族が荷物とともに出口付近を占領していた。それにしても大量だ。簡単には出られないかもしれない。参った…!

空港駅に到着。アラブ系の荷物をかき分け多くの乗客が降りる。僕も彼らの後に続いた。さぁ、乗り換えだ。列車の発車案内電光掲示板を見る。ヨーテボリ&ヘルシンボリ行き列車がすぐに出る。これだ…!あわてて発車ホームに走る。ということで、行き先は呆気なく西に決定。

とは言え、まだ行先駅は決まってない。大学町のルンドにするか…?それとも、行ったことのないハルムスタッドにするか…?しばらくして自分が乗っている車両の行き先が、ハルムスタッドの手前であることに気づく。やがて列車はルンドに到着。よし、面倒だ。今日はルンド滞在…!列車を降りてホームへ。なぜか列車はドアを開けたままで発車しない。なぜだ…?僕はヨーテボリ行き車両の前に立っていた。あれ、どうして…?なぜ、ドアが閉まらないんだ…?ここで決心がグラつく。

「今がチャンス、乗れ、オッサン、愚図愚図するな〜!」

もしかしたら神様が、そう言っていたのかもしれない。僕はまた列車に飛び乗った。その後すぐにドアが閉まる。これでいいのだ…!なぜか、バカボンのパパのように意味なく自分にそう言い聞かせる。最後の最後の瞬間にどんでん返し。たまには自分自身だって欺かなきゃ、人生なんて面白くないさ。

ハルムスタッドは初めての街。ガイドブックに載ってない。地図もない。さて、吉と出るか…?凶と出るか…?陽光うららかなスウェーデン南部を列車はひた走る。このまま乗っていれば、スウェーデン第2の都市ヨーテボリまで連れて行かれる。居眠りはできない。眠気を我慢して、何とかハルムスタッド駅に無事到着。

まずはホテル探し。駅前にベスト・ウェスタン系の大きなホテルがあった。どうせなら街の中心に近いホテルがいい。だけど地図はないから街の中心が分らない。ヨーロッパでは普通、駅の大きな出入り口がある方が街の中心を向いている。今までほとんどそうだったから間違いない。

しばらく歩くと川にぶつかった。対岸は何となく開けた感じ。教会の尖った塔も見える。たぶん、あそこが街の中心部。ハルムスタッドはスウェーデン南西部、ハッランド県の県庁所在地で人口は約5万5千人。スウェーデンでは小さな街ではない。

橋のそばに「Scandic」の看板が見えた。ひょっとしたらホテル…?以前スウェーデンを旅した時、そんな名前のホテルを見ている。でも、あれは大きなビル。できれば小さくて家庭的なホテルがいい。ホテルってのは、探している時に限ってなかなか見つからない。チェック・イン後、街をブラついていると、なぜか必ずよさげなホテルが数軒見つかったりする。

聖ニコライ教会のある広場に辿り着いた。ここが街の中心部。とりあえず広場を中心にグルッとひと回りする。だけどホテルは見つからない。しかたない、さっきのScandicへ行ってみよう。空室はあるかと聞くと、若くて可愛いレセプションの女性が、笑顔で「あります」と答えてくれた。料金を聞くと1泊シングルで1,450SEK。ちょっと高い。だけど、もうホテルを探してうろつくのもイヤだ。ということで即決。

カード型の鍵をもらって部屋に入った。ちょっと狭い。料金の割には高かったかもしれない。落ち着いてから宿泊料金を計算。1,450SEK×12円=17,400円。まぁ、目の玉が飛び出る金額でもないけど、今回の旅では最高金額。料金には25%近い高額な税金も含まれている。とにかく北欧は何もかもが高い。くそ…!

チェック・イン後、街歩きを始める。地図はホテルでゲットできた。といっても、あまり情報があるとはいえない変てこりんな地図。ワンコみたいに鼻をクンクンさせて歩いた方がよさそうだ。まずは中央広場(Stora Torg)に建つ聖ニコライ教会から見て行く。壁に丸いステンド・グラスがある。円を7面に割ってデザインされ、それぞれに宗教的に意味合いを持つ絵柄と、青と赤を基調とした色彩は鮮烈。

教会を見てしまったら、後は街をブラつくだけ。ウロウロ歩いて面白いと思うのは住宅街。狭い街路の両側に立ち並ぶ家々。色も形も統一感があるわけじゃないけど、日本の住宅地に見られる妙な不統一さはない。スッキリしている。家は質素で無駄な飾りがない。外壁は煉瓦造りが多いけど、木造の家も少なくない。

しばらく先に昔の城門Norre portがあった。門の先は「Norra Katts park」で公園。スウェーデン語で「norre-」は「北」のことらしい。まさか「野良・猫・公園」ってことか…?公園内に「Kattfotens katthem」という木造の大きな建物を発見。看板の両脇には可愛いニャンコの写真。これは捨て猫の収容施設かな…?

城門の脇にプレートがある。図解入りで、昔ここに城門と城壁があったことが分る。今は公園となっている場所に濠が三重に掘られ、五稜郭のような角形の城郭が築かれていた。プレートにハルムスタット市のマークがある。面白い。3つのハートの上にそれぞれ王冠が乗っている。街角で見かけたゴミ箱にも3つの王冠のハートマーク。3つの王冠は、スウェーデン王国の現在の国章だという。

ガイドブックに載ってない街もイロイロあって面白い。時には予期せぬ素晴らしいモノ・コトに出会えたりもするけど、反対に何もなくて落胆することだってある。いつもいつもガイドブックに載っている街ばかり訪れたって面白くもない。だから多少ギャンブルでも、時には突然列車を飛び降りてみたくなるのだ。



# by 1950-2012 | 2019-03-22 22:15 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)