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1990年から旅したヨーロッパのイロイロな街を、写真と文章で紹介していきたいと思います。


by KaZoo

2003年春、ケルン中央駅のビル内にあるホテル「ibis」に1泊した。何と、駅から徒歩ゼロ分。そんな駅近のホテルに泊まったのは初めて。いくら便利と言ったって、これほど便利なホテルはないだろう。普通なら、僕は街の中心部にある旧市街のホテルを選ぶ。しかもチェーン展開している、ビジネス・ホテルみたいなibisには本当なら泊まりたくない。

だけど、ケルンでは1泊するだけ。駅ビル内のホテルで何の問題もない。ケルンは人口102万人の大都市だけど、比較的に駅の周りが開けて店もたくさん集まっている。観光の目玉である世界遺産の大聖堂も、駅のド真ん前。予約したibisホテルの部屋は1階。と言っても、ドイツでは日本の1階は「地上階」と言い、2階から階数を数える。だから僕の部屋は、日本式に言うと2階。宿泊料金は前払い。

ibisホテルには、過去にバイエルンのバンベルクや、ベルギーのゲント、フランスのブロアなどでも泊まっていた。朝食は希望者のみ。朝食抜きでもいい僕のような人間にとって、それはとてもありがたい。部屋に入って窓を開けると、大聖堂の尖塔が天空を突き刺すように見えた。

荷物を整理し、カメラをぶら下げ街探検に出る。ホテルのドアを開けると、目の前に世界遺産なんてロケーションは他の都市にはない。見上げる。大聖堂の存在感がスゴ過ぎる…!と言いつつ、大聖堂を見るのは2度目。初めてではないから驚かないけど、でも、やっぱスゴいものはスゴい…!尖塔を見上げていると、いてててて・痛・痛・つぅぅ〜、首の筋肉がつってしまいそうになった。

ケルンは紀元1世紀、古代ローマ帝国の植民都市として誕生。ドイツ最古の都市のひとつで、日本の京都とは姉妹都市の関係にある。この街はライン河の水上交通、また東西を結ぶ陸上交通の要衝として発展してきた。高さ157mの尖塔を持つ大聖堂は、ゴシック様式最大と言われる。建造は16世紀半ばから、何と600年もの長き歳月をかけてやっと完成した。

この時の旅で、僕がケルンに立ち寄った第一の理由。それは、世界遺産の大聖堂をもう一度ジックリ見ることだった。前回ケルンに立ち寄った時は、大聖堂内部に入る時間がなかった。ということで、リベンジの意味合いがある。

そして、第二の理由は「4711」。つまり「4711」=オー・デ・コロンを、本家本元「4711」ショップで買うということ。僕は40過ぎた頃から「4711」を愛用し始めた。「4711」を知ったのは中学生の頃。敬愛する鎌倉の叔父の家の洗面所に「4711」があり、その独特で格調あるボトル・デザインに魅せられたからだ。

ちなみに「オー・デ・コロン」は、フランス語で「ケルンの水」という意味。「4711」は1792年にケルンで創業。その2年後、この街はナポレオン軍に占領され店は移転させられる。その移転先の住所が4711番地で、それが店名となった。そして進軍してきたナポレオン軍の兵士たちは、妻や恋人のため「4711」をフランスに持ち帰る。これが好評だったことから、フランスで「4711」が有名になり、人気は世界へと広がっていった。

まずは大聖堂から見ていく。広い階段を上がると観光客だらけ。ヨーロッパ系白人だけでなく、中近東やインド、アフリカ、さらに僕と同じ顔をした東アジアからの観光客も多い。とりあえず、混雑の中で大聖堂を見学。まるで「烏の行水」みたいな素早さで、大聖堂内をサッサかサ〜ッと見回す。Ende…!これで第一の目的は完了。

腕時計を見ると、すでに午後2時過ぎ。腹が減った。どこかでうまいものを食べたい。ここ数日、昼はサンドイッチかハンバーガーだった。マトモなモノは食べてない。確かケルンには、鉄板焼の「大都会」という店があったはず。たまには牛肉もいい。そんなことを考えたら、突然唾液がドバドバァ〜ッと口の中に溢れた。もう頭の中は「ギューニクーッ!」で満杯。僕はまっしぐらに大都会に向かった。そしてドアを開け、勢いよく店の中に入った。

「申し訳ありません。昼の営業は終わりました…」

若い女性に聞き慣れた日本語で素っ気なく言われる。久しぶりに耳にした日本語だけど、内容は余りにも酷だった。しかたない。気分がガクッと萎える。それでは何を食べよう…?頭の中の牛肉モードを、ここで一度リセットしなければならない。そういえば大都会へ来る途中に、オープン・テラスのイタリアン・レストランがあったことを思い出す。よし、それだっ…!

まずは、レストランの店頭にあったメニューを見る。スパゲティの文字に目が釘付けになる。スパゲティか、しばらく食べてないなぁ…!即決。店に入る。テーブルに座って、もう一度メニューをよく見る。何と「スパゲティ・ボモドーロ」の後に「ピッコロ」という文字を発見。これだ…!そう「ピッコロ」とは小型木管楽器の名称だけど、イタリア語では「小さい」という意味もある。少食の僕に最適なメニューだ。

以前、北ドイツで入ったイタリアン・レストランのメニューで、確か「スパゲティ」の後に「バンビーノ」と書いてあったのを思い出す。バンビーノ、それはまさにお子様用。いずれにしても、少量という意味では同じ。バンビーノ・サイズを頼む時、僕は店の人間に「実は胃袋を手術して、あまり食べられないんだ…」と卑屈な嘘をついたのだ。ピッコロは小食の僕の胃袋にまさにピッタリ。

成人の僕にしても「バンビーノ」より「ピッコロ」の方が、プライドを傷つけられないので大いに嬉しい。と言いつつ、敵はドイツのレストランのピッコロ・サイズ。少量といっても、たぶん想定の1.6倍くらいあると思っていい。料理の量で僕は、今までドイツで何度もウンザリさせられている。それなりの覚悟をした。赤ワインを飲んで待っていると、頼んだ「ピッコロ」が僕の前に現れた。

Wow、これは、日本では普通の量のスパゲティじゃないか…?!」

見栄を張って、標準サイズを頼まないで大正解だった。頼んでいたら大変な目に遭うところだった。だけど大食らいの人間には、ドイツなど北ヨーロッパの食事の量は最高に嬉幸福だろうね。もしも僕が健啖家で好き嫌いがなければ、もっともっと幸せにヨーロッパを旅できると思うんだけど、こればかりはしかたがないよね…。



# by 1950-2012 | 2019-04-22 21:08 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

先日(現地時間4月15日午後7時頃)、パリの中心部シテ島にあるノートルダム大聖堂が火災に遭った。そして93mの尖塔が崩れ落ちた。石造りの教会が火災で焼け落ちるなんて、僕はすぐに信じられなかった。火災の詳しい原因はまだ究明されていないけど、修復工事中の溶接の火花らしいとTVニュースで言っていた。ただ原因が究明されたからと言って、世界遺産の大聖堂が復活するわけでもない。

大聖堂のあるシテ島はセーヌ河の中州。パリ市内で最も古い歴史をもつ島で、パリ発祥の地と言われる歴史地区だ。古くはユリウス・カエサルの『ガリア戦記』にも記述があり、すでに紀元前1世紀にはこの地にパリシイ族(Parisii) が住んでいたという。きっとこの種族がパリの地名の元となっているのだろう。

パリはシテ島を中心に開けた都市だ。やがてシテ島とセーヌ左岸と右岸とに橋が架かる。橋の上には商店や住宅などが密集し、現在のフィレンツェのポンテ・ヴェッキオをヒッチャカメッチャカにしたような状態だったらしい。そんな時代、パリには下水道なんて気の効いたインフラはなかった。糞尿はオマルに受け、道路にぶちまけていたと言うから不衛生きわまりない。

当時の名残りは今も残っている。例えば、石畳の道路の中央部のへこんだ部分。ここをパリ市民の糞尿が流れていたのだ。匂いは想像を絶するものだったろう。それを考えると数百年前の江戸は水道や井戸、便所である厠に関してはパリよりも、というより世界でも遥かに清潔で進んでいた都市だったと言えそうだ。

話は変わって日本にキリスト教を伝えにやって来たフランシスコ・ザビエルは、152519歳で故郷バスクから名門パリ大学に留学している。ノートルダム大聖堂は1163年に着工し1225年に完成しているから、学生だった若き日のザビエルも見ていたはずだ。青春時代のザビエルは、どんな思いで大聖堂を仰ぎ見ていたのだろう…?

それを言うなら、マリー・アントワネットだって、ビンセント・ヴァン・ゴッホだって、ルミエール兄弟だって、藤田嗣治だって、パブロ・ピカソだって、シャルル・ド・ゴールだって、エディット・ピアフだって、アーネスト・ヘミングウェイだって、カルロス・ゴーンだって、旅人の僕だって。パリ市民だったり、パリを訪れたことがある人ならほとんどみんな、街の中心に建つノートルダム大聖堂は仰ぎ見ているはず。

僕は今までパリを何度か訪れている。1991年末~1992年正月。1992年末~1993年正月。2000年4月下旬。2001年8月。2002年末〜2003年正月。200810月〜11月。過去に6回も訪れていたのだ。だからと言って、パリに何日も滞在して“花の都”を満喫していたわけではない。旅の初日とか帰国前の1〜2日滞在しただけだ。

それでも回数が多ければ、それなりに見る物・場所も数多くあった。ルーブルやオルセーなど有名で観光客がごった返している大きな美術館は避けたけど、これでもモネの『睡蓮』を見るため、オランジェリーにだけは入館している。とにかく僕は混んでいる場所が苦手なのだ。そういえば今回火災に遭った大聖堂に、僕はなぜかたった2度しか入ったことがない。もちろんゴシック建築の堂々たる姿は、訪れるたび何度も外から仰ぎ見てはいた。

僕が初めて大聖道の中に入ったのは2003年1月上旬。前年暮れパリから旅を始め、ノルマンディー、ブルターニュを巡って再びパリに戻ってきた時だ。ホテルにチェック・イン後、僕はオペラ座界隈にあるラーメン屋に駆け込んだ。実はここ数日「昼飯はパリでラーメン!」と、呪文のようにずうっと繰り返すぐらいラーメンに飢えていたのだ。昼食後は凱旋門とエッフェル塔を見に行く。まるでお上りさんのようだけど、凱旋門もエッフェル塔も、実はそれまでジックリ見たことがなかった。

ということでシャンゼリゼ大通りを、人に聞こえないよう「オォ〜、シャンゼリゼ〜♪」なぁんて軽くハミングしながら凱旋門に向かって歩く。凱旋門二満足したらエッフェル塔に向かう。ちょっと道をウロウロしながら、何とかセーヌの川岸までたどり着いた。目の前にエッフェル塔が聳える。素晴らしい…!

光の具合は逆光だった。まずは鉄製のドゥービィー歩道橋の上から、キリッと真っ青な冬空に向かって聳え立つシルエット状のエッフェル塔を1枚。続けてセーヌ河に架かる歩道橋を渡り、さらにエッフェル塔に近づく。歩道橋には数日前の雪が凍結していた。ツルツル滑って歩きにくい。恐る恐るゆっくり進むしかない。

エッフェル塔の周りにもたくさんの観光客が集まっていた。特に展望台に通じるエレベータ前は長い列。僕は軽度の高所恐怖症の上に、列を作って何かを待つということが大の苦手。ということで、写真だけ撮ってそそくさとホテルに戻った。ホテルに戻ってしばらく部屋でくつろいだ後、またまたお上りの観光客っぽく、シテ島のノートルダム大聖堂見物に出かける。

セーヌ河畔に出ると、真っ赤な夕暮れ空にノートルダム大聖堂のシルエットがクッキリ浮かんでいた。まさに絵筆を持ちたくなるような風情。日が落ちたせいか、川面を渡る風はさらに冷たくなっていた。数日前、パリには雪が降っていた。川を渡る風が冷たくて当然。何たって真冬の、しかも寒気団がやって来ているヨーロッパなのだ。

ノートルダム大聖堂正面広場に向かう。こんな近くで大聖堂を見るのは初めて。広場中央に、金属製の星形のプレートが埋め込まれていた。それはフランスの道路の「ゼロ地点」を示すプレート。日本なら東京の日本橋が基点となる。フランスでは「パリから他の地点へ何km」というように、この星形のプレートを基準に測られる。プレートは数え切れないほど人の足に踏まれ、哀しいかな、かなりすり減っていた。

これと似たようなモノを、以前イタリアのミラノで見た記憶がある。そう、ドゥオーモそばヴィットリオ・エマヌエレ2世のガッレリアの道路に埋め込まれた雄牛のモザイクだ。雄牛も多くの人に踏みつけられ、哀しいかな、無惨にもすり減っていた。さぁ、ノートルダム大聖堂だ。生まれて初めて内部に入る。ちょっと緊張していた。

大聖堂内に入ったらすぐに帽子を脱ぐ。眼が暗さに慣れてくるまで静かに伽藍を見回す。目が慣れたら、他の人たちに邪魔にならないように移動して、写真を数枚撮らせてもらう。いくら薄暗くても、大聖堂内でストロボを使ってはいけない。これは僕が自分で決めている教会内での撮影ルール。敬虔なキリスト教徒たちに不快にならないよう心がけている。何たって僕は外国人で異教徒。神聖な場所では、控えめに行動することが賢明だし、望ましいと思っている。

大聖堂内はたくさんの観光客で溢れかえっていた。壁に沿って歩き出す。主祭壇近くに、聖少女ジャンヌ・ダルク像が祀られていた。写真を撮ろうとカメラを構える。その時に気がついた。カメラの裏蓋が、いつの間にか開いていたのだ。なぜか裏蓋は、僕のマフラーの房をしっかり噛んでいた。Wow〜!焦った。裏蓋が知らない内に開いていたなんて信じられない。冷静にマフラーの房を外し、カメラの裏蓋をカチリとしっかり閉め直した。ほっ…!

だけど、どうして…?とにかく驚いた。寺院内は薄暗かったけど、フィルムは感光したかもしれない。愕然とした。実はこのカメラ、コニカのレンジ・ファインダーの裏蓋が勝手に開いたのは2度目だった。1度目は数日前、ブルターニュのディナンを歩いている時。当然フィルムは全部ダメになった。悔しかった。自分の落ち度だと思って、その後は慎重にカメラを扱っていた。そのつもりだったのに…!

裏蓋が開いたのは、たぶん大聖堂に入る直前か入ってからだろう。外は日が暮れていたし、大聖堂内も暗かった。果たして何枚ダメになったか…?僕は即刻フィルムを巻き戻した。しかし、なぜ裏蓋が開いてしまったのか…?理由が分からないと、次からカメラは怖くて使えない。マフラーの房のせいなのか…?

他に考えられる原因は革手袋だ。革手袋は真冬の旅を考え、カナダのウィニペグ州の警察が使用しているのを通販で手に入れた。全く機能的で申し分ない手袋だった。その縫い目が、裏蓋のロックに引っかかって勝手に開いたのか…?だけど、そのぐらいで簡単に裏蓋が開いてしまうのは、構造上問題があると言っていい。

気を取り直し、別のISO1600の超高感度フィルムを装填したコンパクトカメラで写真を撮り続けることにした。大聖堂を出ると日は完全に落ちていた。帰国してからフィルムを現像したけど、結局全てダメになっていた。全く、旅先でカメラが2度も故障するなんて、何かの祟りかもしれない…?などと、普段は神をないがしろにしているオッサンが考える。それよりも、神を信じない人間が教会に行った事の方に問題があったのかもしれないのに。

2度目に僕がノートルダム大聖堂の中に入ったのは。200811月下旬。この時はさすがにフィルム・カメラではなかった。時流にちょっと遅れたけど、僕もやっとデジカメに手に入れたのだ。前回はカメラの不調で、大聖堂の写真を思う存分撮れなかった。ということで、この時はリベンジ。ちょっと気合が入っていた。

だからと言って、神聖な場所であまりシャッター音をシャカシャカさせたくない。結局大聖堂内では、バラ窓とジャンヌ・ダルク像と主祭壇とパイプオルガンを4枚サッと撮っただけ。その代わりと言ってはなんだけど、大聖堂を出てサン・ルイ島の方から2枚撮ってみた。こっち側から撮る人は少ないから面白い写真になった。

そんな思い出のあるノートルダム大聖堂。それが何の原因か分からないけど、焼け落ちてしまったなんて信じられない。パリに長く住んでいる人たちは、僕なんかよりももっと大きな衝撃を受けているだろう。あの美しいバラ窓は、凛々しい姿を見せていた聖女ジャンヌ・ダルク像はどうなってしまったのか心配だ。最新のニュースでは「いばらの冠」など貴重な文化財多数や、バラ窓やパイプオルガンなどは消失を逃れたらしいと聞いて安心している。

パリ市民からは「ノートルダムのないパリはもはやパリではない」と嘆く声が上がったという。まさかノートルダム大聖堂が火災に遭うなんて。誰が予想しただろう…?再建のための寄付金はドンドン集まっている。マクロン大統領は2024年のオリンピックに間に合わせたいようだけど、そんなに簡単に再建できるかどうか…?あぁ、こうなると分かっていたら、今頃言っても遅いけど、もっとジックリ見てもっとタップリ写真を撮っておけばよかったなと思う。



# by 1950-2012 | 2019-04-18 17:41 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

2004年春、定刻よりちょっと早めにコペンハーゲン国際空港に到着。入国審査も、いつになくスゥ〜ッと通り抜けた。おっ、幸先がいい〜!大きなリュックを待っていると、これもかなり早めに出てきた。うん、本当に全く幸先がいい〜!思わずほくそ笑んでしまう。リュックを受け取り、すぐに空港駅の鉄道の切符売り場を目指した。スキャン・レイルパスにヴァリデイト・スタンプを押してもらうためだ。駅は空港地下にある。とにかく全てまとまっていて便利。

スタンプの押されてないレイルパスを差し出す。切符売り場の男は、一瞬怪訝そうな顔つきで僕を見た。レイルパスを渡し、パスポート・ナンバーと今日の日付、パスの使用可能最終日を書き込んで、最後にスタンプをポンと押してもらう。これでOKだ。後はコペンハーゲン中央駅経由で、直接最初の宿泊地であるロスキレへ列車で向かうだけだ。

「すいません。列車の乗り場はどこですか…?」

「残念ですね、列車は今日、信号故障で走っていないんです。で、あなたはどこへ行くんですか…?」

「えっ…?!」

駅員の怪訝そうな顔の理由が分かった。何と、僕のもくろみは到着早々狂ってしまったのだ。

「ロスキレへ行くんだけど…」

「じゃ、あっちの方からバスが出ますから、それに乗ってコペンハーゲン中央駅まで行って、そこから列車に乗ってロスキレに行ってください」

「あっちって、どこからバスが出るんですか…?」

「その出口を出て、ほら、あの道路の向こう側です」

駅員が指さした出口から空港の外へ出た。空は曇っている。風が強い。気温は10度ちょっと。少し肌寒い。確かに、その先には広々とした駐車場があり、バスが何台か停まっていた。バスのフロントグラスに貼られた行き先は、どれも「MALMÖ」スウェーデンのマルメ行きだ。コペンハーゲン行きなんて1台もない。近くに停まっている運転手に聞いてみた。すると、コペンハーゲン中央駅行きはすぐにやって来ると言う。

乾いて冷たい風が吹き付ける中、コペンハーゲンへ行く人々と一緒にバスを待つ。バスが何台か駐車場に入ってきた。フロントグラスには「KØBENHAVN H」と表記。よし、コペンハーゲン中央駅行きだ、やったぁ…!僕は過去に何度かデンマークに来ているので、デンマーク語にはちょっと慣れている。ちなみに最後の「H」は中央駅の略。ドイツ語で中央駅を「Hauptbahnhof」と言うから、デンマーク語もその意味だと思う。

バスは混んでいた。リュックをサイドのトランクに無理矢理押し込み、真ん中のドアからバスの中に乗り込んだ。多くの乗客同様、立ったままバスに揺られる。まぁ、中央駅に着けばいいのだ。多少の混雑はやむを得ない。東京の通勤列車の中でも滅多に座ったことはない。立つのは慣れている。

何とかコペンハーゲン中央駅に到着。バスが停車した場所は駅の入り口があるコンコース側でなく、道路から直接プラットホームに降りられる陸橋の上だった。そんな場所に詳しくて、列車の時刻表などあるはずがない。さて、ロスキレ行き列車が出るプラットフォームが全く分からない。近くに立っている女性に聞いてみた。女性は時刻表をしばらく見ていたけど、分からないと言う。

しかたない。とりあえず女性に礼を言って、プラットフォームに降りた。中央駅のコンコース側まで行けば、でかい電子掲示の時刻表があるはず。しばらく行くと、向こうからかなり太めの女性鉄道職員が歩いてきたので、彼女に聞いてみる。

「すいません、ロスキレ行きは、どのホームから出るのですか…?」

「隣の7番から、5時20分に出るわ」

彼女は時刻表を見て親切に教えてくれた。ありがたい。ラッキー!列車はちょうど15分後に出る。そうして列車に乗って、約30分経過。今回の北欧の旅最初の滞在地ロスキレに無事到着。実は僕が来る1週間前、日本の皇太子殿下がこの国を訪れていた。目的はデンマーク皇太子の結婚式参列のため。結婚式前日、皇太子殿下もこの街の「ヴァイキング船博物館」を訪問していた。

ロスキレRoskildeはデンマーク最古の街のひとつ。ヴァイキング船博物館では、かつてロスキレ湾底から5隻発掘されたヴァイキング船が展示されている。この街には11世紀よりデンマーク国王の宮殿がおかれ、1170年には今や世界遺産となっているロスキレ大聖堂が建てられた。ゴシック様式の大聖堂には、デンマーク歴代国王の棺が安置されている。

ロスキレ駅を出て、ガイドブックの地図を見た。予約したホテルは駅のかなり近く。リュックのキャスターをカタカタ鳴らしながら石畳の道を歩く。ホテルの名前は「プリンセン」で、デンマーク語では「プリンス」という意味。1695年開業の歴史ある建物。宿泊料金はシングル1泊850DKKDKKはデンマーク・クローナーで、この頃のレートは1DKK17.84円だから、1泊約15,300円。

部屋は最上階に近い屋根裏部屋だった。さすがに歴史のあるホテル。ということで内装などの雰囲気は申し分ない。軽く旅装を解く。さぁ、散歩だ…!ホテルの裏口を出ると駐車場。信号を渡ると、黄色い壁の建物が道路沿いに続く。ユネスコの世界遺産に登録されているロスキレ大聖堂へ続く道だ。壁の長さは50m近く。黄色い壁には茶色の梁が入って、屋根も同様のレンガ色に近い茶色の瓦。三角形の単純な尖り屋根がなんとも可愛い。

大聖堂へ向かうと、道の左手に豪奢な市庁舎が建っていた。市庁舎の前は広場。大聖堂の方を見ると、遠くに海がちらっと見えた。ロスキレ・フィヨルドだ。フィヨルドといっても、ノルウェーのような断崖絶壁ではない。氷河が削り取った細長い入り江といった感じだ。その海岸そばに、皇太子殿下が訪れた「ヴァイキング船博物館」がある。

博物館はすでに閉まっていた。開館時間は午前10時から午後5時まで。閉館ではしかたない。フィヨルドをカメラ片手にのんびり歩く。岸辺には何艘ものヨット。たまにジョギングや犬と散歩している人々と出会う以外、観光客の姿は全くない。博物館隣の空地に、建造中のヴァイキング船があった。辺りには削ったばかりの木屑が散乱。とても心地よい香りだ。
ヴァイキング船の舳先に設置された鉄製の階段を上がる。建造途中の様子が見えるようになっていた。確か、皇太子殿下もここからヴァイキング船を見たはず。僕は1週間前に見たTVニュースの場面を思い出した。入り江にはヴァイキング船が何艘か係留されている。たぶん昼間、多くの観光客を乗せてフィヨルドを曳航するのだろう。海から直接冷たい風が吹いてくる。さすが北欧。かなり体が冷える。

デンマークと日本の時差は7時間。冬はこれに1時間足す。ということは、日本はもう朝の3時頃。眠くはないけど、疲れはひどく感じていた。何かさっぱりしたものを食べたいけど、デンマークにうどんやそばがあるわけない。ホテルに戻った。中にあるバーに入ってビールを飲むことにする。

ビールを頼んで、そばのテーブルに腰掛けた。隣のテーブルでは、金髪の美しい女性2人が何やら真剣に話し合っている。その様子を肴にグビッとビールを飲む。テーブル上のメニューを見ると、パニーニがあった。早速カウンターにいる女性にパニーニを頼む。しばらくすると若い女性が申し訳なさそうな顔で「すいません、パニーニは今できません」と言った。残念。
諦め顔をしていると、キッチンの若い男が「大丈夫、パニーニできます…!」と言ってくれた。途端に女性の顔がパッと明るくなる。若い女の子はやはり笑顔がいい。僕は部屋で食べたいからと彼女に言った。ビールを半分ほど飲んだ頃、パニーニができあがった。結局、デンマーク初日の食事はそれでお終い。後はバスタブに湯をたっぷりためて入浴。疲れが吹っ飛んだ。

翌朝、ゆっくり朝食を取りチェック・アウト。リュックをフロントで預かってもらい、昨日見られなかった大聖堂に向かう。市庁舎前の広場には、肉屋やチーズを売る店、さらには魚屋や八百屋、花屋などいろいろな店が出ていた。仮設のステージでは、高校生らしきビッグ・バンドがジャズの『キャラバン』を演奏している。広場は楽しそうな雰囲気に包まれ、みんな演奏に聴き入っていた。

大聖堂の入場料は25DKK450円。中に入ると、堂内にはすでにたくさんの観光客がいた。ロスキレ大聖堂は1170年代に築かれた。日本ではまだ源頼朝が鎌倉に幕府を開く前のこと。その後歴代の王によって10カ所以上も増改築され、さまざまな建築様式が混在しているという。堂内には美しい飾り時計が展示され、それは僕の目を強く惹いた。
他の観光客は入口で配布していた簡単な説明書を見たり、ガイドの説明を聞いていた。僕は英語とデンマーク語で書かれた説明書を読む気にもなれず、勝手に自分の見たいものだけさっさ見ることにした。パイプオルガンなどを写真に収める。帰りに入口の売店を見ると、数枚のパイプオルガンのCDがあった。その中から2枚を選んで買う。また僕のコレクションが増えた。



# by 1950-2012 | 2019-04-15 22:21 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

先日のニュース。宿泊していたホテルで就寝中にドアを開けられ、現金など貴重品を盗まれるという事件を知った。何とも物騒な話。日本のホテルでの犯罪だ。犯人は中国人グループで、廊下から部屋の中に聞き耳を立て、宿泊客のイビキが聞こえたら、針金などでドアロックを外し部屋に侵入するという。これからは日本でも、ホテルに泊まる時は注意した方がよさそうだ。

ホテルでの盗難。さすがに今までヨーロッパを旅していて、幸運にもそんな最悪な目には遭ったことがない。だけど気づかなかっただけで、ひょっとしたらそんな盗難事件に接近遭遇していたかもしれない。そう思えることは幾つか記憶にある。特に2000年春、オランダの列車内で貴重品の入ったショルダーバッグを盗まれて以来、僕は盗難に対してかなり敏感になっていた。

オランダでショルダーバッグを盗まれた翌2001年8月。僕は友人の斉藤クン(仮名)と、花の都パリから出発して列車を乗り継ぎ、音楽の都ウィーンに向かうという長旅に出た。パリ到着当日はうだるような暑さ。その日のホテルは予約済み。以前オランダ到着日にホテルを予約しなくて、かなり焦ったことがある。その哀しい経験を生かし、以来シッカリと現地到着当日のホテルは予約するようになった。

予約したのはオペラ座を正面に見る、高級な部類に属するホテルだった。本当なら安ホテルで節約したかったけど、まぁ、旅の始まり。たった1日だけなら、多少の贅沢はしてもいいだろうと考えた。だけど次の日からは、徹底的に倹約して無駄遣いをしないようするつもり。何たって長旅。気を許すといくら無駄遣いするか分からない。

チェック・イン後、荷物を簡単に整理して、夏のパリを満喫しようと僕たちはホテルを出た。ちょっと歩いただけでTシャツは汗まみれ。半端な熱さではなかった。それでも日本のように、湿気の多い暑さではないだけ楽かもしれない。街を歩いている途中、どこかでミネラル・ウォーターを買いたいと僕は考えていた。

セーヌ河を渡り、レストランや商店が建ち並ぶサン・ミッシェル界隈へ向かう。パリには過去に何度か来ているから、地図を見ないでも歩けるので嬉しい。人通りの多いこの辺なら、ミネラル・ウォーターが買える店がある。食料品店が開いていた。店主は北アフリカ出身のイスラム系っぽい感じ。

店内を覗くとミネラル・ウォーターがあった。ちょっと重いけど、僕は2リットル入りのペットボトルを1本買う。デイパックに入れるとズシリと重みを感じた。そのまま歩いていると荷物になる。とりあえず一旦ホテルに戻ろうと考えた。初日から、何も気ぜわしく歩き回ることもない。初めてのパリじゃないから、ちょっと余裕があった。

ホテルに戻って、まずは斉藤クンがシャワーを浴びる。僕はテレビを点けて、言葉の分らないフランス語の番組を何気なく見ていた。しばらくすると、鍵をガチャガチャする音が聞こえ、続けてドアノブを回す音がした。そしてドアが開き、やや大柄な太目のアフリカ系の女性が顔を出した。そして僕を見て、目を大きくまん丸にして驚いた。

ハッキリ言って、ビックリしたのはこっちの方だ。普通のワンピースを着ていたから、どう見てもホテルのスタッフには見えなかった。まさか部屋の中に宿泊客がいるとは思わなかったのか、女性は「失礼!」とひとこと言って大慌てでドアを閉めた。あの女はいったい何者…?なぜ合鍵を持っていたのだ…?

ホテルのスタッフじゃないとしたら、盗人ということになる。しばらくすると、斉藤クンがバス・ルームから出てきた。僕は今起こったあらましを彼に話した。斉藤クンは「黒人女性はホテルのスタッフだと思うよ」と、何気ない顔で言った。驚いてないようだ。彼女が何者であれ、とにかく僕たちが部屋にいる時でよかったことは確かだ。

そういえば、それから数年後のことだ。ドイツのフランクフルトのホテルでも、チェック・イン後に荷物を整理していたら、突然鍵をガチャガチャとやってドアを開けられたことがある。ホテルの清掃の女性だったけど、ノック無しで突然の入室だったから、僕も本当ビックリして大きな声を出してしまった。清掃の女性は英語が分からずそそくさとその場を去った。Wow…!何となく釈然としなかった僕は、その後一応フロントに行ってちょっと文句を言わせてもらった。

2001年の暮れから2002年正月にかけ、僕は北スコットランドの中心都市インヴァネスに滞在していた。1月2日、エディンバラ経由でイングランド東部の古都ヨークに向かう。列車はロンドン行き特急。車窓風景はほとんど真っ白。何もかもが凍りつくような寒さの中、列車はロンドンに向かって南下し続けた。

僕は寒さに震え、ぶつぶつ言いながらヨーク駅に降り立った。実は帰国前ロンドンでの2日間しかホテルを予約してない。この日から4日間、僕はホテルを現地調達しなければならなかった。一応ガイドブックを見て、ヨークのホテルの当たりはつけてある。とにかく街の中心部まで行けば、どこかによさそうなホテルが必ずあるはず。今までもそうしてきたから、絶対の自信があった。

駅からちょっと歩くと、ヨークを特徴づける中世のCity Wall城壁が見えた。川を渡った橋の所に城門があり、その向こうは美しい旧市街。城門の奥に見え隠れするのは、この街のランドマーク大聖堂のヨーク・ミンスター。この街の起源は古く、紀元71年頃にローマ人によって創建された。ローマ人はドーバー海峡を渡り、何とこんな所までやって来ていたのだ。すごい…!

日も暮れかかっていた。何たってイングランドは日本より緯度が高い。午後3時を過ぎると夕暮れ。駅を出てから、初めてガイドブックの地図を見て現在地を確認。馬鹿な観光客のように地図を見ながら歩くのはみっともないし、何よりも盗人など悪いヤツに目を付けられやすい。それで僕は、地図をあまり見ないことにしている。

だけど初めての街。迷子になってはどうしようもない。目を付けたホテルの場所が分からない。ヨークは中世の古い街並み。京都や札幌のように、道が碁盤の目のように分かり易くなっているわけではない。リュックを引きずりながらさらに進む。この時、何だかリュックがいつもより重く感じた。

2000年春、オランダの列車内でアラブ系にショルダーバッグを盗まれた時、このリュックの中に密かにしまっておいた現金とクレジットカードが僕を救った。その頼りになる相棒のリュックのキャスターが、何とついに壊れた…!旅行前に荷物を詰めながら、そろそろ壊れるかもしれないと危惧はしていた。それが現実となった。ヤバ…!

キャスターが壊れたら、徒歩での移動が困難になる。ホテル探しを急ぐ。もうどこでもいい。ガイドブックを見ながら、一番近いホテルに向かって歩き続けた。デコボコな石畳は壊れかけたキャスターに負担をかける。なるべく平らなところを探しゆっくり歩く。とりあえずモンク・バーという、中世の城門のそばにあるホテルを僕は目指した。

フロントで聞くと部屋は空いていた。料金は1泊£65で約12,350円。高くも安くもない。いや、もしかしたら高いかもしれない。ドイツ辺りなら、もっと安くて快適なホテルが見つけられる。とはいえ、今は緊急事態。リュックのキャスターが壊れている。とにかくホテルを決めてチェック・インしたかった。

チェック・インして部屋に入り荷物を広げる。洗面道具など必要な物だけ取り出し、またリュックのファスナーに鍵をかける。さらに盗難防止用の旅行用ワイヤーを使い、クローゼットの中にしっかり固定する。部屋の中とはいえ、荷物を広げ放しにしたり、大切なものが入ったカバンに鍵をかけないでおくのはちょっと危険。掃除人だって誰だって、部屋の中に入ろうと思えば入れるのだから。

旅先ではどんな時でも、盗難に遭わないよう充分注意を払う。オランダの1件以来、ホテルの部屋といえども僕は気を抜くことがない。もちろん自分が部屋にいる時はリュックを開け放す。だけど朝食の時など部屋を離れる時、貴重品など盗まれないよう注意を怠らないようにしている。

ヨークから4年後の2006年1月下旬。僕は真冬のドイツを旅していた。その日、旧東独の大学町イエナからニュルンベルクに向かう。ホテルをチェック・アウトし、イエナ・パラディース駅に向かった。駅構内の時刻表を見ると、乗ろうとしていた9時50分発のニュルンベルク行きICE(特急列車)が表示されてなかった。

午前中にニュルンベルクに行くICEは9時10分発か1110分発だけ。僕が駅に着いたのは9時30分。9時10分発はとっくに出た後。1110分まで1時間半近く駅で時間を潰さなければならなくなった。といって寒風吹きすさぶプラットフォームで待つわけにもいかない。駅の中にはコンビニエンス・ストア兼カフェがあった。店内に入りコーヒーを頼んで、駅前通りに面したカウンター席に座る。

帰りの飛行機で読むつもりだった筒井康隆さんの文庫本を、デイパックから取り出す。カウンターの向こう側は路面電車乗り場。電車が通過する度ゴォーッと轟音がたつ。ふっと本から目を外に移す。白い物がチラチラ宙を舞っている。雪だ…!どうりで寒いわけだ。また本に目を移す。短編を1本読み終えて再び外を見る。路面が白くなっていた。本格的に降っている。

ひょっとしてニュルンベルクも雪だったらどうしよう…?溜息が出る。予約してあるニュルンベルクのホテルは、今回初めて使用するWEBサイトで見つけた。予約したホテルがよくなかったらどうしよう…?つまらない不安にさいなまれる。友人たちは僕をお気楽な人間と見ているようだけど、僕は基本的に悲観的な性格の持ち主。

ニュルンベルクが近づくと雪はやんでいた。到着後中央駅を出て、旧市街をリングのように囲む城壁沿いの道路を時計方向に左手に進んだ。予約したホテルはガイドブックの地図に出てない。だけど予約した時、大体の場所だけは確認してある。メールで送られてきた予約確認書には住所も書いてあるから、迷うことはない。

オペラ・ハウスを過ぎ、2ブロック行った左手の横道にホテルの看板が見えた。何となく薄汚れた感じ。まぁ、いいことばかり続くわけはない。これが事前にホテルを予約する時のリスクといえばリスクかも。自分の目で確かめて選べないのだから、しかたがないと諦める。

ホテルにチェック・イン。部屋も何となく寂れた感じ。もしも部屋を留守にすると、何か物を盗まれるのではないか…?不安がよぎる。まさかそんなことはないと思うけど、用心するに越したことはない。ということで、必要な物以外はリュックから出さなかった。リュックのファスナーに鍵をかけ、さらにクローゼットのパイプに鍵付きのワイヤーでしっかりロックした。ちょっとやり過ぎかもしれないけど、ここまでやらないと安心できないのだ。ホテルの部屋だからって、決して安全ではない。考えすぎかな…?



# by 1950-2012 | 2019-04-12 18:05 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

2019年、今年は新元号「令和」がスタートする年。そして東西ドイツ統合、すなわち「ベルリンの壁崩壊」から30年という記念の年でもある。ベルリンの壁が崩壊した1989年(平成元年)11月9日。TVのニュースを見て、僕は何が起こったのか信じられなかった。当時、僕には仲のいいドイツ人女性の友だちアンゲラ(仮名)がいた。彼女は東京に日本語を勉強しにきていて僕と知りあった。

ベルリンの壁が崩れた直後、アンゲラと会ってイロイロ話をした。ドイツ人である彼女も驚いていた。とにかく世界の人々は、20世紀中に東西ドイツが統合するなんて思ってもみなかったのだ。そして翌1990年春、ゴールデンウィークにかけて、アンゲラが一旦ドイツに帰るというので、僕はドイツを訪れてみようと考えた。それが僕のドイツ、というよりヨーロッパの旅の始まりだった。

ドイツ最初の旅は時間がなかったせいもあって、統合後のベルリンや旧東独まで足を伸ばすことはできなかった。その後、ドイツ西部や近隣のデンマーク、フランスやベルギーを何度か訪れる機会があったけど、なぜか旧東独方面に行くことはなかった。きっとまだ旧東独の街も人々も統合の混乱があり、落ち着いて旅などできないのではと思っていたからでもある。

東西統合から8年経った1997年春。僕は友人の斉藤クン(仮名)を誘って、オランダ、ベルギー、ドイツを巡るレイルパスを使っての長旅に出た。その時アンゲラはベルリンにいたので、せっかくだからベルリンまで足を伸ばしてみようと考えた。僕たちはルクセンブルクを経由でドイツに入国。ベルリンに向かうため、フランクフルト中央駅からインターシティ・エクスプレス(ICE)に乗った。

ICEに乗ればベルリンにはアッという間。ということで、本当に「アッ…!」と言ってる間にベルリンZOO駅に無事到着。駅には当時ベルリン工科大学に通っていたアンゲラが僕たちを迎えにきてくれた。早速彼女が予約してくれたホテルへTAXIで向かう。ベルリンには2泊のつもりでいた。ホテルを予約してもらう時、彼女にそう頼んだつもりだったけど、彼女は3泊の予約を入れてしまった。せっかくのベルリン滞在が、たった2日では物足りないだろうと考えたのかもしれない。

ホテルはZOO駅から続くメイン・ストリートに面していた。超現代的なデザインで、僕の好きなドイツ田舎風の素朴なこぢんまりとした感じではなかった。部屋はちょっと狭かったけど、室内デザインは斬新で心地よかった。料金はちょっと高かったけど、設備に関しては及第点。まぁまぁの初ベルリンだった。

チェック・イン後、早速ベルリンを散策。ZOO駅まで歩いて戻った。駅前の大きな交差点から、塔の上部が吹き飛んだ異様な教会が見えた。ネオ・ロマネスク様式のカイザー・ヴィルヘルム教会だ。1888年に死去したヴィルヘルム皇帝のために19世紀末に建てられた。教会は第二次世界大戦中に空襲を受け、尖塔部分が破壊された。そして戦争の悲惨さを忘れないため、そのままの形で今も残されている。

夕方、アンゲラが僕たちをホテルに迎えに来た。ベルリン到着初日、僕たちが選んだ夕食は和食。せっかくドイツに来ているのだから、ドイツの料理でもいいのだけれど、僕の胃袋がドイツの食べ物とあまり相性がよくない。アンゲラもそれを知っているから素直に和食に賛成してくれた。

夕食後、近くのバーで飲もうと歩いた。途中、急に雨が強く降り出す。すでにヨーロッパを何度も旅している僕は、突然の雨に慣れっ子になっていた。多少降っても一向に気にならない。よほどのことがない限り傘などささない。とはいえ、髪の毛が濡れるのはイヤなので、バンダナを頭に巻いてそのまま歩いた。

都市としてのベルリンの起源は13世紀前半に遡る。1701年にプロイセン王国が誕生し、ベルリンはその都に昇格。その時、人口はわずか3万弱だったという。東西ドイツ統合以後、首都機能がボンから移転し、旧東ベルリン地域の再開発が推し進められた。そのため人口は軽く400万人を越し、さらに増えていくだろうと言われていた。

400万都市ベルリンの面積は、東京23区の約1.5倍だそうだ。狭い地域に無理矢理過剰な人間を押し込んだ東京より、ベルリンの方がいくらか暮らすのに快適かもしれないと感じる。ドイツ、正しくは「ドイツ連邦共和国」には、いろいろな州がある。ベルリンやハンブルクのように都市がそのまま1つの州という、政治単位となっている例もある。それぞれの州には独立した州政府があり、首相もいる。

ドイツは元々都市国家の集合体のような国で、実質的には19世紀後半になって初めて統一国家としての形ができた。それぞれの地方や都市に住む人々の意識は、日本人には信じられないほど強烈でスゴイものがあるらしい。それが一番よく表されているのが、ドイツのプロサッカー・リーグである「ブンデス・リーガ」だろう。どの街にも伝統のあるサッカー・クラブがあり、さらに熱狂的なサポーターがいる。その有名な例が、以前香川真司が所属していた北ドイツルール地方のドルトムントだろう。

アンゲラに会った翌々日、彼女の友人ヨアヒム(仮名)が僕たちをフィルハーモニーでのコンサートに招待してくれた。彼は僕たちのためにチケットを買っておいてくれたのだ。もう1人ヨアヒムの友人で、以前パン・アメリカン航空でCAをやっていた女性も一緒だった。パン・アメリカン航空…!なんて懐かしい名前だろう。その昔、TBSテレビで『兼高かおる世界の旅』という番組があって、確かそのスポンサーがパン・アメリカン航空だったと記憶している。

海外でクラシック・コンサートに行くのは初めて。もちろん日本でも滅多に行く訳ではない。さぁ、困った…!僕たちは旅の途中。スーツなどフォーマルな洋服など持ってない。恐る恐るヨアヒムに「コンサートへの服装はどうしたらいい…?」と聞く。彼はニコッと笑って「今のままのラフな格好でOK…!」と言ってくれた。クラシックのコンサートだからといって、ドイツでは特別に畏まって聞くものではないらしい。実際にコンサート・ホールに行ってみると、長髪でパンクっぽいヤツとか、鼻ピアスとかスキンヘッドの若者もいたのでこっちが驚いたほどだ。

その夜の指揮はアシュケナージ。曲目はドヴォルザークの『交響曲第5番』。クラシック・ファンなら「ブラヴォ〜!」と言って大喜びするだろう。だけど僕たちには「猫に小判」。大変に勿体ない。といって僕は、クラシック音楽を全く聞かないわけではない。ラジオCM制作という仕事柄、これでもちょこちょこ聴いている方なのだ。

演奏が静々と始まった。しばらくすると、その快い旋律の波にうっとり。その内、上の瞼と下の瞼がランデブー。4月下旬にアムステルダムに着いてから、旅を始めてちょうど6日目。疲れが溜まっていた頃だと思う。ちょっとウトウトしている間に演奏は終わった。喝采で拍手と歓声で目が覚める。ブラボ〜!

「どうだった…?」とアンゲラに聞かれる。

「とても“気持ちのいい”演奏だった…!」と僕は正直に答える。彼女はニタッと笑った。どうやら僕の居眠りはすっかり見られていたようだ。

コンサート終了後、みんなでブランデンブルク門近くウンター・リンデン沿いのカフェに向かう。ブランデンブルク門は東ベルリンと西ベルリンを分ける凱旋門で、1788-91年にラングハンスが造った。門の左右にある建物は衛兵詰所と税関。高さ20m62m奥行き11m。門の上部には、勝利の女神ヴィクトリアを乗せた四頭立て二輪馬車。

ブランデンブルク門のそばで、白い十字架がいくつも並んでいるのを目にした。アンゲラの説明によると、それはベルリンの壁を超えようとして命を落とした人たちの墓標だという。白い墓標はたくさんあり、左から右へ年代順に並んでいた。早速僕は写真を1枚撮る。

新しい方、つまり右から3番目の白い墓標に『19801122Marienetta Jirkowski』と書かれていた。その右隣が『1989年2月5日Chris Goeffroy』。そして1番右の墓標が最新の『198911月9日』。ベルリンの壁が崩壊した日だ。1989年2月5日、Chris Goeffroyは壁を乗り越えようとして射殺された。

後わずか9ヶ月と少し待てば、クリスはベルリンの壁を、たくさんの市民の歓喜の声と共に簡単に越えられた。たった9ヶ月と少し。しかし当時の彼は、ベルリンの壁崩壊なんて想像もできなかったのだろう。壁に囲まれた陰鬱な生活に、もうそれ以上耐えられなかったのだろう。それは多くのベルリン市民も同様だったと思う。ベルリンの壁崩壊。それはまさに「奇跡」の出来事だったのだ。



# by 1950-2012 | 2019-04-09 17:52 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

小食で偏食気味で脂っこい料理が苦手な僕が、旅先でメチャ難儀をするのは何と言っても「食」に関してだ。朝はホテルの朝食があるから何とかなる。ドイツを旅している時なら、丸っこいパンをナイフで2つに切ってバターを塗り、パンの間に薄切りのチーズやハムを挟む。コレを手づかみでパクつく。フランスならクロワッサンなんてシャレオツなパンもあって、カフェ・オレと一緒に食べられるから嬉しい。

パンの他にはホテルによって差があるけど、トマトやキューリやレタスなどの野菜。時には薄くスライスした赤や黄色のピーマンも、そのままシャキシャキと青虫のようにかじったりする。さらには、ソーセージやベーコンなどの肉加工品。ヨーロッパはさすが豚肉加工の本場だけに、これがとっても美味しい。ただちょっと塩味がきついから、血圧の高い人は要注意。

フルーツ・ジュースは朝食の1番最初に飲むことにしている。イロイロな種類がある。僕的にはトマト・ジュースが欲しいんだけど、ホテルによってはないこともある。僕が泊まるホテルはシングル1泊€60〜€70が多いから、贅沢なんて言えやしない。

朝食時の飲み物として、コーヒーも絶対に欠かせない。コーヒーは淹れる水がよくないと美味しくない。そういう意味で、アルプスに近いスイスやオーストリアのホテルで飲んだコーヒーは美味しかった。これはあくまでも僕個人の感想。フランスのコーヒーが決して「まずい!」という訳ではない。

スクランブル・エッグとかゆで卵も、あれば嬉しい。他にはヨーグルト。リンゴやバナナなどもあれば幸運。シリアルなども食べるけど、元々牛乳を飲むとすぐにお腹がピーゴロしてしまう体質だから、特に列車で移動するなんて日は極力避ける。1人旅で列車移動の時、トイレに駆け込むのは安全面から考えても少々心配なことがある。ということでよほどのことがない限り、小食で偏食気味で脂っこい料理が苦手な僕でも、ホテルの朝食に関してはOKなのだ。

昼飯はレストランが混む時間を避け午後2時近くが多い。時にはハンバーガーとかケバブで簡単に済ませる。ケバブは量もほどほどで、野菜などもタップリ入っているから栄養効率も悪くない。ただ、時によって胃にモタレる。そのためいつも、大田胃散が出番を待っている。

昼飯はもっとシンプルに、ビールと焼きソーセージだけっていう日もある。ソーセージをドイツ語では「ヴルスト(wurst)」と言う。ドイツにはそれぞれの土地にそれぞれ個性的なヴルストがある。僕的には小指サイズの「ニュルンベルガー」か、日本で言うフランクフルトよりちょっと長めの「テューリンガー」がおススメ。どちらも焼いた方が美味しい。他にはカレー粉をまぶした、ベルリンで人気の「カリー・ヴルスト」もグート!

列車で移動する日は、落ち着いて飯を食べる時間がない。列車の中にはビュッフェなどもあったりするけど、金がかかるし、やっぱり荷物のことが心配なので席を長い時間離れられない。ということで列車に乗る前、駅のキオスクでサンドィッチを買ったりする。大体買うのは、バゲットにハムやチーズ、レタス少々がはさまったタイプ。これが美味しい…!小麦の質が違うんだと思う。パンの皮はパリパリして食感がいいけど、僕は時々そのパリパリのせいで唇の周りや口の中を切って難儀する。

僕としては朝食も昼食も何だってイイのだ。だけど夕食にはちょっと気が入る。簡単に何でもいいイイって訳にはいかない。ということで、夕食時間が近づくと毎回悩んでしまう。フランスやドイツでも、和食店があれば、よほどひどいネーミングの店でない限り入ってしまうことが多い。

理由は英語以外のメニューが読めないからだ。頼んで何が出てくるのか分からないというのは冒険すぎる。しかも量が半端なかったり、脂濃かったりしたら三重苦。それなら素直に店の人に聞けばいい。とりあえず英語に関して、僕はTOEIC650点まで行ったことがある。テストを受けたのは50代半ばを過ぎてからだった。もっと若いうちに頑張っていれば、750点ぐらいまでは行ったかもしれない。

英語は適当にできるけど聞くのは面倒。メニューはチンプンカンプン。だから和食が多くなる。でも、和食は結構高い。長旅だと節約しないといけないから、毎日和食って訳にもいかない。それよりも、まともな和食店は地方の街に行ったらほとんどナイ。ということで夕食に選ぶのが、主にイタリアとインドと中国の料理。その他としては韓国とかタイとかベトナム。

イタリア語もヨーロッパ言語。当然僕は、英語以外はまるでダメ。ドイツ語だけは大学でちょっと勉強したけど、会話となるとほとんどダメ。でも不思議に、イタリア語のメニューだけは分かる。日本のイタリアン・レストランだったら、メニューも日本語とイタリア語の併記だったりする。そこで料理名のイタリア語と遭遇している。それにイタリア語はローマ字読みでいいから、カタカナで覚えた料理名も簡単に読めてしまう。

次にインドは、過去イギリスに統治されていたから、ほとんどのインド料理店のメニューは現地の言語と英語の併記だったりする。それに店の人間も英語が喋れるから会話は成り立つ。またカレーの各種スパイス群は、疲れた体に薬事効果があるようにも思える。実際にターメリック(鬱金)など、カレーのスパイスはほとんど漢方成分。

さて、中国料理はどうか…?日本人にとっては一番馴染みがあって安心。メニューだって漢字の併記があるし、ある程度の中国料理は日本でも食べているから何となく分かってしまう。ただし、料理の量はヨーロッパ仕様。日本で頼む1.5倍以上あったりするから、小食の僕は困ってしまうことも時にはある。

僕が中国料理店で注文するもの。実は種類としてはあまり多くない。トップ3はチャーハン、焼きそば、春巻き。それだけではあまりにも寂しいので、僕の場合は「北京スープ」を注文することが多い。北京スープは何と言うか酸辛湯みたいなスープ。小さ目のお茶碗に入っていて、ケチャップ味の酸っぱ辛いトロッとした温かいスープ。

北京スープでの思い出はたくさんある。例えば1997年春、フィンランド内陸部ハーメリンナ。夕食は街の中心部にある中華レストランで済ませた。注文したのはいつもの酸っぱ辛い北京スープと春巻き。日本酒の熱燗もあった。これは嬉しい。ちびちび日本酒をやりながら、太い春巻きを食べる。北京スープの酸っぱさが、旅に疲れた胃袋を優しくいたわってくれる。その辛さは、たぶん店を出た後に襲ってくる北国の寒気から僕を保護してくれるだろう。

夕食後、橋を渡って湖沿いの道をホテルへ戻った。ホテルのすぐ手前で美しい湖畔風景を眺めていると、突然背後の藪でガサゴソという音がした。暗くて何も見えない。音がした藪の中をよく見ると、何かが奥の方に潜んでいた。ビデオカメラを取り出し、目一杯ズーム・アップしてその物体を映してみる。

暗い藪の中で2つのピカッと光る小さい物体が見えた。動物の目…?光っている…!ねずみ、もぐら…?!いや待て、針のようなものが体中に貼りついている。じゃ、はりねずみか…?僕は今まで本物を見たことがない。いや、見たことがある。ロシアのアニメ作家ユーリ・ノルシュテインにハリネズミが主人公の作品があった。ロシアとフィンランド。距離も近いし、気候もよく似ている。その可能性が高い。

ホテルに戻って、バー・カウンターにいる若者にビデオを見せた。彼は「hog!」と言った。辞書で調べてみると「hedgehog」とはハリネズミのこと。なるほど納得。ハリネズミだったのだ。若者は続けて「この辺の山には蛇もいるから気をつけて」と僕に言った。こんな寒い所に蛇が…?まさか…!

次の思い出は200212月末。フランス北西部ノルマンディー地方の中心都市ルーアン。その日は土曜日だった。中心部の広場周辺のバーやカフェはどこもほぼ満員。さて、夕食。まさかルーアンに和食店があるはずもない。しばらく歩いて「アルデンテ」というイタリアン・レストランを見つけた。パスタと野菜サラダ、それにミネストローネなんか悪くない。さらにブラブラ歩き続ける。

あるブティックのドアの前に、1匹のラプラドル・レトリバーがきちんとお座りしていた。店内にいる飼い主を静かに待っているのだ。コンパクト・カメラで1枚写真を撮る。犬は微かなシャッター音に反応した。後ろを振り返る。しかし、音の出所と理由が分からない。僕の隣にパンを食べている男がいた。犬は食べ物をくれるものだと勘違い。男の前に行儀よくお座りをして、男の顔をじっと見つめた。

その後ウロウロと探し歩き、細い路地の奥に「大熊猫飯店」という漢字の看板を発見。入口のメニューを見た。メニューは全部フランス語。全く分からない。でも中華料理、何とかなるはずと思った。とりあえず店の中に入ってみた。やっぱり英語のメニューはなかった。しかたなく、いつもの酸っぱ辛い北京スープと揚げ春巻きを注文。全く芸がない。飲み物は白ワインのデキャンター。せめてこれだけがフランスっぽい。折角「グルメの国」にいるというのに、全く

この後も何度か僕は、夕食に困った時は中国料理店に入って「北京スープ」を頼んだりしている。まさに「困った時の、北京スープ」なのだ。温かくて、酸っぱくて、適度に辛くて、量的にもちょうどイイ。だけど日本の中華料理店では、理由は分からないけど、北京スープをメニューであまり見た記憶がない。





# by 1950-2012 | 2019-04-06 08:26 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

1994年夏の旅は、友人斉藤クン(仮名)と一緒に北イタリアの大都市ミラノからスタートした。と言っても到着直後、ミラノには空港と中央駅にいただけ。その後は北イタリアのトレント、ヴェネツィア、フィレンツェとイタリア数都市、さらにフランス、ドイツ、スイスの街々を巡って、再び出発点ミラノに戻るという旅程だった。

南スイスのロカルノから出発点のミラノに戻った後、僕たちはTAXIで街の中心部へ向かった。まずは帰国までの3日間宿泊するホテルを探す。そのためミラノに向かう列車内で、ガイドブック広げイロイロ検討した。条件は街の中心部に近くて便利、料金もリーズナブルでよさげなホテル。目星をつけていたホテルは、行ってみると夏休みで休業中だった。1発目から空振りってのは何とも空しいけど、何でもかんでも旅人の思い通りにならないってのが旅=トラベル=トラブルなのだ。

まだヴァカンス・シーズン真っ只中。休業中のホテルも多い。とりあえずはドゥオーモまで行き、辺りのホテルを歩いて探し回るのが賢明かもしれない。ということで、ドゥオーモ近くでTAXIを降りた。あてがあった訳ではないけど、何となく歩いているとホテルがあった。まずは空室があるか聞いてみる。OK〜!3連泊したいと言うと、ディスカウントすると言ってくれた。ラッキ〜!ドゥオーモまで歩いて5分という便利な場所。希望条件にぴったり。即決だった。

早速荷物を部屋に置いてドゥオーモ前広場へ向かった。以前ミラノを訪れたことのある友人からこんなことを聞いている。ドゥオーモ周辺には、ジプシーの子供の集団が観光客目当てにスリをしようと絡んでくるという。数人で取り囲み、隙を見て金品を盗むのだ。子供だから逃げ足は速いし、近辺の土地勘にも明るい。追いかけていくと、どこからか仲間がどっと出てきてひどい目に遭うらしい。

そう思って警戒していると、向こうからそれらしき子供たちの一団がやって来た。僕は彼らと目を合わせないよう道路の端側を歩いた。しつこく迫ってきたら、急に店の中に入ったり、早足になったりして逃げようと身構えた。作戦成功…!まるでアフリカの大地を我が物顔で徘徊するハイエナのようだ。しばらくすると、彼らは他の人間に目星をつけ離れていった。

まずは、ドゥオーモの先にあるV.エマヌエーレⅡ世のガッレリアに行ってみた。ガッレリアは上から見ると、ちょうど十字架の形をしている。2つの通路が交差する真ん中の地点に、美しいモザイクのタイルで勃起した雄牛が描かれている。ちなみに僕は牡牛座。勃起した雄牛が何となく気になって見入ってしまう。

ガッレリアには高いガラス天井があり、その下のアーケードに有名ファッション・ブティックやカフェや本屋、アクセサリーショップなどがたくさん並んでいる。ここはミラノ観光の拠点。観光客がかなりたくさん行き来している。もちろん僕たちと同じように、平たい顔をしたモンゴリアンの観光客も多い。

ちょうど昼飯時。ガッレリアの中に、何となくいい感じのスパゲティ専門レストランを見つけた。店内を覗くと、丸いカウンターの中にオープン・キッチンがあり、コックがスパゲティを客の目の前で調理していた。いろいろトッピングが選べるようで楽しそうだ。昼時も大分過ぎていたので混んでない。ということで空腹の僕たちも入ってみた。

この数日前、僕たちは北スイス、ライン河畔の小さな街シュタイン・アム・ラインで、話にならないほどひどいスパゲティを食べていた。僕が人生で食べたワースト3に入るだろう。だけど今は「パスタの国」イタリアにいる。まさか、あんな腰のない、意味なく量ばかりのスパゲティは絶対に出てこない。そう信じきっていた。

どうでもいいけど、調理している濃い顔をしたコックが、僕にはどう見てもイタリア系というよりトルコ系にしか見えなかった。極東からやって来たただのオッサンが、イタリア系とトルコ系を簡単に見分けられるのか…?と言われそうだけど、たぶん僕の勘は当たっていただろう。その頃数日間の僕の勘といったら、それはもうスゴイものだったのだから。なぁ〜んて、勝手に思ったりしていた。

目の前でスパゲティがドンドン調理されていく。はふはふはふ、くぅぅぅ・ふくぅぅぅ〜!僕たちはまるで「パブロフの犬」状態。フライパンの上で踊るニンニクの香りが、食欲中枢を強烈に「これでもか!これでもか!」と刺激し続ける。空腹の僕たちはなす術もなく、ただ料理ができ上がるのを従順に待つだけ。そして数分後、僕たちの目の前にサラがコトンと静かに置かれる。

いざ、食わん〜!ゴングは打ち鳴らされた。シュルシュルパクパクシュルシュルパクパク。おぉ、それ・見よ〜!ミラノのスパゲティは当然のごとくおいしい。アッという間に皿から消えてしまった。2日前に食べたシュタイン・アム・ラインのスパゲティと較べたら、まさに月とスッポン。本場の麺はシコシコで、小麦は由緒正しきデューラム・セモリナであった。などと大満足。

腹が満たされたら、ミラノの象徴ドゥオーモの見学となる。ドゥオーモは14世紀後半に着工して16世紀に完成。イタリアを代表するゴシック建築の大聖堂だ。その姿は重々しく荘厳華麗であり、威風堂々と見る者を威圧してくる。見あげると屋根の上が、まるで森林のように見える。小さな柱がズラーッと何本も林立しているのだ。

ドゥオーモの屋根に登れば、誰もがビックリするだろう。それらは小さな柱などではなく、一個一個独立した大理石の彫像だったのだ。その数は全部で2000を超えるというからすごい。気の遠くなるような数だ。下から見上げただけでは、きっと分からないだろう。屋根までエレベータに乗って行けるので、時間のある人は昇ってみるといい。その壮麗さと細密な彫刻技術に驚かされることは間違いない。

たぶん酸性雨の影響なのだろう。林立する彫像の中には形が崩れ欠けていたり、変色したりしている物も多数あった。僕にはそれがちょっと気がかりだった。さぞかし修復には、大変な労力と時間と費用がかかるだろう。どんな世界遺産でも、見守り保存していくのは人間しかない。

ドゥオーモの屋根に使われている材質は、すべて美しい巨大でミルキーな大理石。その大理石の大きな石板が、屋根の上にビッシリと何枚も敷き詰められていた。だけどその重さで、よく屋根が抜け落ちないものだと妙な感心をしてしまう。きっと地震の多い日本だったら、簡単に瓦解しているだろう。

さて、夏場のイタリアの朝は時々衝撃的な雷鳴で始まる。ミラノ到着の翌朝、目が覚めると雷鳴が轟いていた。気になって窓を開ける。稲光は思ったよりも遠く感じた。安心していると、突然「ガラッ・ピシャ〜ン!」と凄まじい大音量。同時に激しく雨が降り続いた。雷は近くまで移動してきたようだ。

僕はノーテンキにも、北イタリアの雷の音でもビデオに録っておこうと思った。窓のそばで外に向かってビデオ・カメラを向ける。いい感じだ、雷鳴がドンドン近づいてくる。当時僕は、ラジオCMの企画と演出をしていた。だから2度と録れないかもしれない音に夢中になったのだ。窓のそばでジッとしている。すると、本当に目の前に雷が落ちてきた。

「ピカーッ!ドシャン!ガラララビシャァーン!ピィー!ピィー!ピィー!ピィー!ピィー!」

凄まじい衝撃だった。僕は思わず、後ろに1mぐらい吹っ飛んだ。最後の「ピィー!ピィー!」という音は何か警報音のようだった。きっと雷がよく落ちるからなのだろう。外では誰も騒いでいる様子がなかった。日常茶飯事なのか。そして10分後。雨は突然上がり、街は何事もなかったような表情を取り戻す。ビデオを再生してみると、確かに目が眩むような稲光と強烈な衝撃音が残っていた。

早い時間に雷鳴で目覚めてしまった。何もすることがないので、ドゥオーモまで歩いて行ってみることにした。こういう時、街の中心部でホテルを探しておいてよかったと実感する。ドゥオーモに行ってみると、聖堂の中はひっそり静まりかえっていた。前日は観光客が多くて賑わしく、ざわめきが堂内に響いていたので、ゆったりとした気分で聖堂内を見られなかった。朝早めにやって来て正解だったのだ。

聖堂内には美しいステンドグラスがあった。朝日を受け色とりどりに輝く神々しい光の中にいると、クリスチャンでなくても神妙な気分になる。誰でもその聖なる空気に心打たれ、思わず懺悔室に入り、今までの悪行の数々を司祭様に告白したくなるだろう。僕の場合、懺悔しなくてはならないことが多過ぎて、何から始めたらいいか悩む。神よ、罪多き、平たい顔の東洋人をお赦しください。

ドゥオーモは本来、敬虔なクリスチャンであるミラノ市民の祈りの場だ。朝は通勤前の敬虔な市民たちがたくさんお祈りしている。観光客は邪魔にならないよう注意しなければならない。騒々しい話し声やカメラのストロボなどで、神聖な祈りの時を妨げては絶対にならない。それはミラノだけでなく、どこの国の教会においてもなのだ。



# by 1950-2012 | 2019-04-03 17:50 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

初めてヨーロッパを旅したのは、1990年4月下旬から5月上旬にかけて。その時はドイツだけを旅した。当時仲よくしていたドイツ人女性アンゲラ(仮名)が、ゴールデン・ウィークにドイツに帰るというので、僕は高校時代から憧れていたドイツに行ってみようという気になったのだ。

アンゲラは北ドイツの工業地帯、ルール地方ゲルゼンキルヒェンという街に実家があった。この街のサッカー・チーム、ブンデス・リーガの「シャルケ04」は、Jリーグ鹿嶋のDF内田選手が在籍していたことでも知られる。

当時、アンゲラはボーフムにあるルール大学に通う学生だった。だけど短期間休学して、日本に語学学習にやって来ていた。日本語を学んでいたのは六本木の教会。ある時、六本木のバーでアメリカ人の友人のLIVE演奏があり、その時に僕がカウンターで飲んでいたアンゲラに話しかけたのが出会いだった。忘れもしない、それは東西ドイツ統合1年前のことだ。

初めてのヨーロッパと言っても、仕事の都合で長期休暇は取れなかった。ということで、何とかヤリクリして7泊8日。ドイツ1国ということになった。まずはKALの格安航空券を18万円で手に入れる。空路は成田からソウルで乗り換え、その後アンカレッジ経由でフランクフルト国際空港に向かうという、今時ならあり得ない遠回りだった。

ドイツに到着した時はさすがに疲れ果てていた。まずは空港からTAXIでフランクフルト中央駅に向い、切符を買って南ドイツのカールスルーエに列車で向かう。この頃はまだ、便利なユーレイルパスの存在なんて知りもしなかった。必要があればその都度、面倒だけど駅で切符を買っていたのだ。

ドイツ到着当日のホテルは予約してなかった。カールスルーエ中央駅に着いたら、荷物をコイン・ロッカーにぶち込んでホテル探し。しょっぱなから行き当たりばったりの旅だった。翌日は、別の友人女性ニナ(仮名)が住む近隣のプフォルツハイムで1泊。続いて大学町のテュービンゲン、ドナウ源流と言われる黒い森の中のドナウエッシンゲン、そこから北上しアンゲラの実家があるゲルゼンキルヒェン。そして最後に、出発地のフランクフルトへと舞い戻った。

2度目のヨーロッパ旅行は、1991年春のデンマーク。これまた仲のいいデンマークの友人が、ゴールデン・ウィークにアンデルセンの生まれ故郷オーデンセにある実家に帰るというので、「これはチャンス!」とデンマーク行きを目論んだ。この時はデンマーク1国。だからレイルパスは考えなかった。

3度目のヨーロッパは再びドイツ。1991年暮れから1992年正月にかけて南ドイツを訪れた。この時も仲のいいドイツ人女性が、故郷ロマンティック街道の南の拠点アウクスブルクに帰るというので、せっかくだからと便乗。泊まる場所は確保すると言ったので、それを信じて旅立った。滞在はアウクスブルクとミュンヘン。ということで、この時もレイルパスは考えなかった。

4度目の旅も似たようなもの。それは1992年暮れから1993年正月にかけて。友人の土岐クン(仮名)と一緒に日本を旅立った。パリからブリュッセル、ルクセンブルク、ハイデルベルク、そして1990年に訪れた南ドイツのプフォルツハイム。それから再びフランスに入り、ストラスブール、パリへと戻る旅。この時こそレイルパスがあれば便利だったのに、なぜか駅で切符を買って旅をしていた。

ということで、僕は4回もヨーロッパを旅したのに、便利なレイルパスを使おうとしなかった。と言うより、レイルパスの買い方や使い方がよく分からなかったと言った方がいいかもしれない。その頃はまだワード・プロセッサーを使っていた頃。イロイロ簡単に検索なんてできなかった。僕がMac.を使い始めるのは2000年以降。それからは旅の情報集めも楽になった。

初めてレイルパスを買い求めたのは1993年春。5度目のヨーロッパだ。旅はオーストリアの首都ウィーンから始まり、リヒテンシュタイン、ドイツ、チェコ、再びオーストリアに戻り、ハンガリーのブダペストに1泊するという、長期の鉄道旅。この時は業界の大先輩、音響効果の達人である深町氏(仮名)との2人旅だった。

それまでの経験から、僕は列車に乗るたび切符を買うのが面倒だと分かっていた。ということで便利な、さらに1等車に乗り放題で快適なユーレイル・グローバルパス購入を決めたのだ。まさにヨーロッパを駆け巡る「魔法の絨毯」、ただし割高だと言う人もいるから賛否両論。

ユーレイル・グローバルパスは便利であっても、列車に乗らないと、その日の分が無駄になってしまう。勿体ない。だから僕は無駄のないよう、毎日意味なく列車に乗っていたりする。僕は列車に乗っているのが嫌いでないからいいけど、ゆっくりじっくり旅をしたい人には、そんな旅はもしかしたら忙しすぎて耐えられないだろう。

そんなこんなで5度目の旅以降は、ユーレイル・グローバルパスを使うことが多くなった。ちなみにユーレイル・グローバルパスを発行する組織「ユーレイル」(Eurail)とは、オランダのユトレヒトを本拠地とし、ルクセンブルクに登記されている企業「Eurail Group G.I.E.」のこと。ユーレイル・グローバルパスをはじめとする、ヨーロッパ各国の鉄道パスを発行している。

そういえばレイルパス使用後、アンケートを送った先が確かユトレヒトだった。お返しにノベルティをもらったけど、アレは今どこにいったのだろう…?さらには2000年春。旅の途中アムステルダムでショルダーバッグを盗まれ、ユーレイル・グローバルパスも失って気落ちしていた時、レイルパスの再購入をしたのもユトレヒトの中央駅だった。ハッキリ言って、あの時は助かった。

一口にレイルパスと言っても、実は多種多様なバリエーションがある。僕が使っている、ヨーロッパほぼ全域をカバーする「ユーレイル・グローバルパス」や各国別のパス。「ユーレイル・リージョナルパス」や「ユーレイル・セレクトパス」のように2〜5カ国の隣接した地域を周遊するパス。2〜6人が同一旅程で乗車する時に割り引かれる「セーバーパス」や、26歳未満の若者向けの「ユースパス」などもある。

ユーレイル・グローバルパスは通用日連続タイプで[15日・21日・1ヶ月・2ヶ月・3ヶ月間]の5種類。毎日列車に乗らないのならフレキシー・タイプがオススメ。10日間の有効期間内に5日間、または2ヶ月の有効期間内に1015日間の利用日が選べる。基本的に乗車できるのは1等車。だけどユース用(1227歳)のパスは2等車限定。他にも、60歳以上の「シニアパス」もあるらしいけど、残念ながら僕はまだ使ったことはない。

ユーレイル・グローバルパスはヨーロッパ28ヶ国で利用できる。アイルランド、イタリア、オーストリア、オランダ、ギリシャ、クロアチア、スイス、スウェーデン、スペイン、スロベニア、チェコ、デンマーク、ドイツ、ノルウェー、ハンガリー、フィンランド、フランス、ベルギー、ポルトガル、ポーランド、ルーマニア、ルクセンブルク、ブルガリア、スロヴァキア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、トルコ。ヨーロッパの国はほとんど網羅しているけど、なぜかイギリスだけは使用できない。通貨もそうだったけど、イギリスってイロイロと面倒な国だなぁって思う…!

今まで僕がユーレイル・グローバルパスを使って、1回の旅で列車に乗った最長距離は、2013年初夏の36日間6,161kmだ。36日と言っても、僕が持っていたのは1ヶ月通用するパスで、最初の6日間は面倒だけど駅で切符を買った。この時はスイスから旅を始め、リヒテンシュタイン、オーストリア、チェコ、ドイツ、フランス、ベルギー、オランダと駆け巡った。たぶん、ふふふ、元は取れたような気がする。



# by 1950-2012 | 2019-03-31 09:38 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

僕はヨーロッパを旅する時、到着日と大都市滞在日はホテルを予約するようにしている。特に到着日は絶対に予約が必要。旅の初日から、泊まるところがなくて右往左往なんてしたくないからだ。実は過去に、到着日にホテルが見つからなくて青ざめた経験がある。それは1997年春オランダ。飛行機の都合で到着時間が遅くなり、列車で大学町ライデンに着いたのは、駅のツーリスト・インフォメーションが閉まるギリギリの時間だった。

4月下旬は観光シーズンまっただ中。ホテルを探し始めた時間も遅く、結局ライデンでもアムステルダムでもホテルはフル・ブッキング。最終的にデン・ハーグで空室を見つけてもらい、何とか1泊することができた。だけどホテルが見つからなかったらどうなっていたか…?僕は一瞬だけど“野宿”も考えた。

次に大都市。大きくて有名な街でホテルを探すのは面倒。ツーリスト・インフォメーションも混んで時間がかかるから、事前に予約するようにしている。でも、人口10万人以下の街だったら、中心部である旧市街も駅からそんなに離れてない。ホテルを見つけるのも簡単。僕は駅から歩きながら、ホテルをシラミつぶしに空室があるか聞いて、さらには部屋を見せてもらう。

ホテルが決まってないってことは「Like free as a bird.」って感じ。その日、どの駅で降りて、どこに泊まろうが、全く「鳥のように自由気まま」なのだ。確かに自由気ままではあるけど、真冬とか雨降りなど、気象条件が悪い時は泣きたくなることもある。そんな辛い思い出が、実は過去に2度ほどあった。

最初は20031月上旬。フランス北西部のノルマンディーとブルターニュを旅した時だ。まず到着当日はパリで1泊。当然予約した。ロケーションは便利なモンパルナスで、フランスなのに「デンマーク」という名のホテルだった。この時の旅の主目的は、ノルマンディーで映画『プライベート・ライアン』の撮影地を訪れることだった。その後は、観光客でごった返す人気のモン・サン・ミッシェルを避けてブルターニュへ。

ブルターニュでの主目的は、謎の多いカルナックの巨石群を見ること。そのための拠点として、僕はヴァンヌという街に3連泊しようと考えた。ヴァンヌは1世紀頃ローマ帝国の支配を受け、周辺には2000年近く前に造られた円形闘技場もある。

列車でヴァンヌに着くと少し雨が降っていた。ガイドブックの地図を見る。駅のそばに数軒ホテルはあるけど、できることなら中心部がいい。ヴァンヌでは3連泊するつもりだった。僕はリュックのキャスターをカタカタ言わせながら歩き出した。小雨だから、多少濡れたっていい。ヨーロッパの人々を真似て傘はささない。

しばらく歩くと、意地悪く雨が徐々に本降りに変わった。「Oh、カツオ風味の本降り〜♪」なぁんておどける。まずい。非常にまずい。このまま濡れていると風邪をひく。そんな時、運よくホテルを発見。助かった。ドアを開けようとすると、ガッシリ鍵がかかっていた。時は1月上旬。フランスではヴァカンスとか年末年始、営業を停止するホテルが多いと聞く。諦めるしかない。でも、まずい。さっさとホテルを探さないと本当に風邪を引く。悪くすると風邪どころでなく肺炎になる。

とりあえず、ツーリスト・インフォメーションまで行けば何とかなるはず。地図が雨に濡れないようにして場所を確認。ツーリスト・インフォメーションは駅から遠い。場所はヨット・ハーバーのそば。でも、行くしかない。坂を下る。黙々と濡れながら歩く。傘をさせばよかったけど、今さら傘を出しても意味がない。すでにコートはびしょ濡れ。

何とかツーリスト・インフォメーションにたどり着いた。ドアを開ける。カウンターの女性がビクッとした表情で僕を見た。それはそうだろう。黒いフェルト帽を目深にかぶったびしょぬれの怪しい東洋人のオッサンが、帽子の庇から水滴をポトンポトン垂らしながら突然入ってきたのだ。

「すいません、ホテルを探しているんですが…?」

係の女性は笑顔で、この街のホテルが載っている地図をくれた。

「ここから近くて、お薦めのホテルはどこですか…?」

彼女はツーリスト・インフォメーションからすぐ近く、ヨット・ハーバーに面した「マリーナ・ホテル」を教えてくれた。礼を言ってすぐ向かう。マリーナ・ホテルは2つ星で1階がカフェ。フロントはカフェで兼任している。カウンターにいる男に空室があるか聞くと、店を仕切っている40代の女性が応対してくれた。

「今日、泊まりたいのですが、部屋は空いていますか…?シングルで、できればバス・タブのある部屋がいいのですが…?」

部屋は空いていると言う。ラッキー!部屋を見たいと言うと鍵を渡してくれた。階段を上がって部屋を見に行く。部屋は清潔。窓を開けるとヨット・ハーバーが見える。眺めもいい。バス・ルームも広い。しかも1泊€45.75で格安。文句なし。一旦部屋に鍵をかけて階下へ降りる。

「部屋はOKです。できることなら、明日と明後日も泊まりたいのですが…?」

Non〜!」

明日・明後日は土・日。予約が入っているという。

「他に空き部屋はありますか…?」

「残念だけど、ないです…」

「どこか他にいいホテルを知りませんか…?僕はこの街にはどうしても3連泊したいんですけど…?」

「あぁ、キリヤードがあるわ。あそこなら空いていると思う」

彼女はツーリスト・インフォメーションでもらった地図で、キリヤード・ホテルの場所を教えてくれた。

「すいませんが、部屋が空いているか電話で聞いてもらえませんか…?」

僕の図々しい申し出を彼女は快く聞いてくれた。

「部屋は空いているって。あなたの名前は…?」

「はい、セキです。エス・イー・ケイ・アイ、SEKIです」

これで3日間の滞在はOK。続けてさらに図々しくお願いした。

「すいません。TAXIも呼んでもらえますか…?」

ということで、雨の真冬のホテル探しは無事に終了。僕は幸運だったかもしれない。もしかしたら一生における、フランスで起こりうるすべての親切と幸運を、この時に使い果たしてしまったかもしれない。なぜならそれ以降、僕はフランスであまりいい目に遭ってないからだ。なぁ〜んて言っちゃって、ゴメン…!

2度目の雨の真冬のホテル探しは、2007年2月下旬ドイツだった。旅も終盤、2日後にはフランクフルト国際空港から帰国するという時。帰国前日は空港に近いマインツにホテルを予約してあるけど、前々日だけはホテルを探さなければならなかった。最初はフランクフルトから近い、木骨作りの家並みが美しい街リンブルクに1泊しようと考えた。リンブルクには1997年春に1度泊まったことがある。

とりあえずリンブルクに向かう。駅に到着すると小雨。傘をさすほどではなかった。懐かしい家並みを見ながら歩いている時、ふと今まで行ったことのない街に1泊するのもいいかなと考えた。そうだ、ヴィースバーデンに行ってみよう…!リンブルクから列車に乗ってしばらくすると、雨が本降りに変わった。あらら、ツイてないなぁ…!

午後3時半過ぎヴィースバーデンに到着。辺りはすでに暗くなっている。この街はライン河畔にあり、中部ドイツのヘッセン州の州都でもある。バーデンと言うぐらいだから、日本人の大好きな温泉がある。ゲーテやワーグナー、ドストエフスキーも訪れたことがあるというぐらい有名な温泉保養地。

降りがドンドン強くなっていく。雨の中で地図を広げたくない。だから、列車の中で地図をしっかり見て記憶しておいた。駅前から続くバーンホーフ通りに数軒ホテルがある。仮にそれらが満室だとしても、その先の市庁舎手前にツーリスト・インフォメーションがある。そこまで行けば大丈夫だろう。ただしツーリスト・インフォメーションまでは駅から1.2km近く。ちょっと遠い。

ヴィースバーデンは人口27万人。市庁舎のある中心部までかなり離れている。実はホテルが簡単に探せるほど、こぢんまりとした街ではなかったのだ。折りたたみ傘を広げて歩き出す。50mぐらい行くと、反対側の道路の奥まった所にホテルの看板。道路を横断していくのも面倒。まだこの先に数軒ある。黙々と前へ進む。できることなら1泊€50とは言わないにしても、€70近くには抑えたい。

ホテル「クラウン・プラザ」の看板が見えた。いかにも高そうな名前と雰囲気。その先にも飾り気がなくていい雰囲気のホテルが2軒。まずはそっちから聞いてみよう。ドアを開けて、フロントにいる初老の男に聞いてみた。

「すいません、今晩部屋は空いてますか…?」

「フル・ブックだ。向かいにもホテルがある。たぶんあっちなら空いているかもしれない」言われるまま向かいのホテルに行ってみると、そのホテルもフル・ブック。

「向かいのホテルなら、空いているんじゃないかな…」

フロントの若い男が、さっきのホテルと同じことを言う。どうやらこの日は政府関係のVIPが来ているらしく、どのホテルも関係者の宿泊や警備上の問題があって空室がないようだ。やばい…!

「実は、向かいのホテルでも同じことを言われたんだ。参ったな、どこか空いていそうなホテル知らない…?」

僕は困り果てた顔で若者に聞いた。彼はアテがあるらしく、早速受話器を取り上げ電話してくれた。

「€98だけどいい…?」

いいも悪いもない。もう雨の中を歩き回りたくない。ホテルは過去に何度も泊まったことのあるビジネスホテル風の「ibis」。まぁ、いいか。地図をもらった。歩いていくにはちょっと遠い。TAXIで行きたいと言うと、すぐそばに乗り場があると教えてくれた。

そうしてIbisホテルに無事チェック・イン。部屋に入って濡れた衣服を着替える。テレビでは野生の猪に襲われた主婦のニュース。そういえば2007年は亥年。日本でも野生の猪に襲われたニュースをよく見た。英語では亥年を「Year of the PIG」と言う。PIGの年か、何だか余りかっこよくないな。

ホテルは「コッホブルンネン」という、源泉が湧き出る公園の真ん前。落ち着いてから、ホテルを出てコッホブルンネンを見にいく。公園の真ん中に直径5mほどの円盤状のオブジェがある。そこからひっきりなしに湯が湧き出ていた。辺りに真っ白い湯気がたちこめている。この匂いは…?まさしく温泉…!触れてみると結構熱い。舐めてみると、ちょっと塩っぱい。はは、やっぱ温泉だぁ…!

夕食後、少し飲みたくてバーを探した。ホテルへの帰り道にいい雰囲気の店を発見。カウンター席が空いていた。嬉しいことにビールの種類も多い。カウンターの向こう側には、スペインから観光でやって来たカップル。楽しそうに飲んでいる。

ホテルに戻ったけど、まだ少し飲み足りない。ということで、フロント脇のバー・カウンターでビールを飲む。テレビではサッカー中継。フランクフルト対オッフェンバッハ戦。この時、フランクフルトには日本代表FW高原が在籍していた。前半終わって0対0。ビールを飲み干して部屋に戻る。

することもなく、サッカー中継の続きを見る。高原のゴールを見たいなとちょっと期待。すると、後半に入って高原が華麗なボレー・シュートを見せた。GOAL〜!続いて2点目も入れる大活躍。僕は「ヨッシャー、タカハラー!イイゾー、タカハラー!」と大声で叫んでしまった。



# by 1950-2012 | 2019-03-28 17:54 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

カメラを持ってヨーロッパの街を歩いていると、僕は常に見るモノ何にでも反応してしまう性癖がある。それはまるで、そこらの池に潜むダボハゼのように食らいつく。例えば目の前で動くモノ、いや、動かないモノでもコトでも、とにかく気になるモノ&コトなら何にでもパクリ!だからフィルム・カメラを使っていた当時、帰国後の現像代とかプリント代のことを考え、シャッターを押すことを少々セーブしていたと思う。

何にでも興味を持つ僕だけど、対象物をある程度決めて写真を撮ってもいることもある。例えば自転車。なぜか街角に何気なく停めてある極々ふつうの自転車が、僕には気になってしょうがないのだ。それも特別オシャレだとか変てこりんな格好をしたものでなく、ただただ普通の自転車に僕は時々惹かれる。

自転車は物静かに、街の風景の中に、あるがままの姿で佇んでいるだけ。何かを特に強く主張しているわけではない。だけど僕は、時々自転車が何かを語りかけてくるように感じてしまう。そんな時はレンズを向けて、じっくりファインダーの中の自転車を愛でてから、おもむろにシャッター・ボタンを押す。これが密かな愉しみ。そうやってヨーロッパの街角で出会った自転車の写真が、旅を重ねていくうちに少しずつ増えていった。

僕はどちらかというと、最新の機能的で高速走行できそうな、有名ブランドの高価な自転車に全く興味がない。自転車の持ち主にも関心がない。そして、自転車が道を走っている姿にもあまり興味が湧かない。

僕はフレームがぶっとくてゴツゴツした、何となく無愛想な働き者の自転車が好きだ。頑丈で飾りなんかなくて、大きな荷台でやたら荷物をたくさん運んでくれそうな、馬種で言えば「競走馬」のサラブレットではなくて、北海道の重そうな橇を引く「輓曳(ばんえい)競争」の荒馬みたいな自転車。

そんな一癖も二癖もありそうな自転車たちが、例えばひと仕事終え、体を休めているっていう感じ…?持ち主のことなど気にとめず、ただひたすら沈思黙考しているって感じ…?心静かに風景の中で、ただ埋没することを楽しんでいるって感じ…?う〜ん、言葉では上手く言えない。何たっていつも、相手(自転車)の方から、急に「ね、ね、こっち、こっち…!」って感じで声をかけられるのだから。

いろいろな街で、いろいろな道で、自転車は僕に声をかけてきた。フッと思い出しただけでも、フィンランドの首都ヘルシンキのアンティーク・ショップの店先に駐めてあったゴッツい自転車。ドイツのロマンティック街道ローテンブルクで見かけた、美しい花で飾られたちょっとオシャレな自転車。同じくドイツ南部の黒い森近くの大学町、フライブルクの小さな橋の上でパンクして、物憂げな表情を見せていた自転車。どれも年老いて頑固一徹な職人のような雰囲気を醸し出していた。

もちろん、そんな頑固者みたいな自転車ばかりではなく、時にはオランダやデンマークなどで見かける木製の特注荷台がついた自転車とか、場合によっては何の変哲もない市販の自転車にだって目が向いてしまうことだってある。たぶん自転車のいる風景に、僕が何か特別なものを感じてしまうからだろう。そうなってしまうと、シャッター・チャンスはドバドバァ〜ッ!と広がってしまう。

そうそう、フランスのロレーヌ地方のナンシーで撮った写真。この街はアール。ヌーヴォーで有名なんだけど、旧市街を歩いている時に見かけた自転車とワンコの2ショットがよかった。あるカフェの店先に自転車が駐めてあって、その傍らでワンコが物憂げな表情で座っていたんだ。僕は思わずシャッター・ボタンを押した。ワンコはただ飼い主を静かに待っていただけなんだろうね。僕には時間がとっても柔らかく優しく過ぎているって感じがしたんだ。

以前はフィルム・カメラだったから、いくらダボハゼっぽい僕でも撮影枚数はセーブしていた。でも、デジカメに替えた2008年以降、僕はとにかくやたらバチバチパチりとシャッター・ボタンを押し続けている。それがいいかどうかは分からないけど、帰国後に「あぁ、アレも撮っておけばよかった…」などという後悔はほとんどなくなったことだけは確かだ。



# by 1950-2012 | 2019-03-25 18:01 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

1997年春。友人の斉藤クン(仮名)とオランダからベルギー、ルクセンブルク、ドイツ、デンマーク、そして再びオランダへと戻る周遊の旅に出た。デンマーク滞在は、北ドイツのハンブルクから列車で国境を越え、ユトランド半島南東部の街Koldingコリングに移動しての1泊のみ。レイルパスで列車に乗りまくってヨーロッパをウロウロ。いかにも僕好みの「忙しない」旅だった。

コリング滞在の翌日、再び国境を越えてドイツに戻った。ハンブルク中央駅で列車を乗り換える時、突然「どうせなら、たまにはガイドブックに載ってない街に泊まってみたい」と思った。ということでトーマス・クック『時刻表』の鉄道路線図を見て、ヴィルヘルムスハーフェンという街を目指すことにした。

ハンブルクからブレーメンに移動しローカル線に乗り換える。目指すヴィルヘルムスハーフェンは終点駅。まずは駅到着後のホテル探し。と言って、地図はおろか街の情報は何もない。駅前でTAXIに乗った。とりあえず街の中心部まで行けばホテルが見つかるはず。運転手は怪訝な顔をした。そして「この街には、そんな中心部のような場所がない」と言う。

それまで僕が訪れたドイツのどんな小さな街でも、とりあえず市庁舎とか教会が集まる旧市街とか中心部らしい場所はあった。だから、中心部を目指せばホテルが数件あって何とかなる。経験上そう考えたのだ。参った、この街にはそんな中心部らしき場所がないのか…?じゃ、どうやってホテルを探したらいいのか…?

「どこかホテルを知らない…?」

「知ってるホテルがあるから、行ってみよう…!」

運転手がそう答えた。ちょっと不安はあったけどまかせてみることにした。しばらく走ってから1軒のホテルの前で停車。運転手は空室があるか聞きにいった。だけど「Nein」満室だった。では、もう1軒。TAXIはパン屋の前で停車した。

「パン屋…!なぜ…?あいつ、パン買いに行ったの…?」

しばらくすると運転手が出てきた。そして笑顔で「OK!」のサイン。何と、パン屋の2階と3階が宿泊施設になっていたのだ。これはドイツでよく見かけるホテル・ガルニなのだろう。ちなみにホテル・ガルニは、レストラン設備がないホテルで朝食用の食堂がある。外から見ればどうしたってパン屋で、絶対にホテルには見えない。

とりあえず部屋を見せてもらう。階段を上がると、1階からパンを焼いた美味しそうな香りが漂う。思わず腹がグゥゥ〜と鳴る。パン屋の2階はどんな部屋か…?不備があったり、不満を感じたら、僕たちは即刻「Nein!」と言うつもりだった。ドアを開ける。広さや設備に問題はない。しかも料金は超格安でリーズナブル。断る理由などない。と言うより、他にホテルがあるかどうかすら分からない。即決だ。

気持ちよく寝られる清潔なベッドがあって、料金が安ければ問題なし。もしも問題があるとすれば、この街に見るべきものが少なさそうということぐらい。それを承知で、敢えてガイドブックに載ってない街までわざわざやって来たのだ。分かってやっているのだから、文句を言ってはヴィルヘルムスハーフェンに失礼だろう。

階下に降りOKのサインを出す。チェック・インの手続きが終わると、パン屋のオヤジが翌朝の朝食時間を聞いた。何たってパン屋で食べる朝食。出来立てホッカホカのパンに期待がかかる。その後部屋に戻って調べたら、翌朝はかなり早い時間の列車に乗らないといけないことが分った。せっかくの朝食は無理だ。その旨を伝えると、オヤジは残念そうな顔をした。

ヴィルヘルムスハーフェンはニーダーザクセン州、人口8万人ほどで北海に面した港町。19世紀から軍港として栄え、1956年以来北大西洋条約機構(NATO)の海軍基地が置かれている。港のコンテナ取扱量は、ハンブルク、ブレーマーハーフェンに次いでドイツ3位だという。地名はドイツ帝国の初代皇帝ヴィルヘルム1世にちなんだものだそうだ。

ホテルを出て街を散策する。初めての街は発見がたくさんあって楽しい。だけど、ヴィルヘルムスハーフェンでは、これと言って面白いモノとは出会えなかった。教訓=ガイドブックに載っている街には、観光客を納得させるそれなりの風景と情報が詰まっている。とはいえどんな街も、大いに楽しむのが僕の旅。現地の人に「え〜っ、何でこんな所に来たの…?」という顔をされるのが、実は愉快・痛快なのだ。

ところで、せっかくのヴィルヘルムスハーフェン滞在。この時の旅ではビデオばかり回していたから写真は撮ってない。残念だ。今となっては、1枚も残ってないのが何だか哀しい。あぁ、撮っておけばよかった…!

話は変わって2013年初夏。ドイツからデンマークを3週間旅した。帰国便はコペンハーゲンの国際空港からと決まっていた。それで帰国前日は、空港まで列車ですぐに移動できるスウェーデン南部の街マルメにホテルを予約。でも、前々日はホテルの予約をせず空けておいた。行き当たりばったり、気まぐれにスウェーデンのどこかの街に行きたいと考えたからだ。

帰国前々日、アンデルセンの生まれ故郷デンマークのオーデンセから列車に乗った。まずはコペンハーゲン中央駅経由で国際空港駅へ向かう。そこから乗り継ぎのいい列車を捕まえようと考えた。スウェーデンでの行き先は未定。最初はマルメに近い大学町ルンドを考えた。ルンドは以前、日帰りで訪れたことがある。もう一度街をゆっくり見たかった。でも、今まで行ったことのない街にも行きたい。ということで数日前から、ガイドブックや時刻表を見ながら検討を続けていた。

マルメから東にある海沿いの街に興味があった。列車の連絡がよかったら、思い切ってイスタという港町に行ってみようと考えた。もしも東行き列車の連絡が悪かったら、逆にマルメから方向を180度変えて西という手もある。ルンドからさらに先にある海沿いの街にも行ってみたい。以前PCで検索したことのあるハルムスタッドという街が気になっていた。

コペンハーゲン手前の駅に、煉瓦造りの大きな建物が隣接していた。駅名は「南デンマーク大学」。あらら、駅がそのまま大学なんて珍しい…!南デンマーク大学は、オーデンセ大学が南デンマーク商科大学、南デンマーク工科大学、南ユトランド大学センターと統合してできた大規模な総合大学だそうだ。英語で多くの授業が開講され、毎年1,500人以上の留学生が学んでいるという。

やがて列車はコペンハーゲン中央駅を出て、海上の長い橋を走って国際空港駅に近づく。1等車両出口付近にたくさんの大きなバッグが山積みされていた。何で…?見ると、アラブ系の家族が荷物とともに出口付近を占領していた。それにしても大量だ。簡単には出られないかもしれない。参った…!

空港駅に到着。アラブ系の荷物をかき分け多くの乗客が降りる。僕も彼らの後に続いた。さぁ、乗り換えだ。列車の発車案内電光掲示板を見る。ヨーテボリ&ヘルシンボリ行き列車がすぐに出る。これだ…!あわてて発車ホームに走る。ということで、行き先は呆気なく西に決定。

とは言え、まだ行先駅は決まってない。大学町のルンドにするか…?それとも、行ったことのないハルムスタッドにするか…?しばらくして自分が乗っている車両の行き先が、ハルムスタッドの手前であることに気づく。やがて列車はルンドに到着。よし、面倒だ。今日はルンド滞在…!列車を降りてホームへ。なぜか列車はドアを開けたままで発車しない。なぜだ…?僕はヨーテボリ行き車両の前に立っていた。あれ、どうして…?なぜ、ドアが閉まらないんだ…?ここで決心がグラつく。

「今がチャンス、乗れ、オッサン、愚図愚図するな〜!」

もしかしたら神様が、そう言っていたのかもしれない。僕はまた列車に飛び乗った。その後すぐにドアが閉まる。これでいいのだ…!なぜか、バカボンのパパのように意味なく自分にそう言い聞かせる。最後の最後の瞬間にどんでん返し。たまには自分自身だって欺かなきゃ、人生なんて面白くないさ。

ハルムスタッドは初めての街。ガイドブックに載ってない。地図もない。さて、吉と出るか…?凶と出るか…?陽光うららかなスウェーデン南部を列車はひた走る。このまま乗っていれば、スウェーデン第2の都市ヨーテボリまで連れて行かれる。居眠りはできない。眠気を我慢して、何とかハルムスタッド駅に無事到着。

まずはホテル探し。駅前にベスト・ウェスタン系の大きなホテルがあった。どうせなら街の中心に近いホテルがいい。だけど地図はないから街の中心が分らない。ヨーロッパでは普通、駅の大きな出入り口がある方が街の中心を向いている。今までほとんどそうだったから間違いない。

しばらく歩くと川にぶつかった。対岸は何となく開けた感じ。教会の尖った塔も見える。たぶん、あそこが街の中心部。ハルムスタッドはスウェーデン南西部、ハッランド県の県庁所在地で人口は約5万5千人。スウェーデンでは小さな街ではない。

橋のそばに「Scandic」の看板が見えた。ひょっとしたらホテル…?以前スウェーデンを旅した時、そんな名前のホテルを見ている。でも、あれは大きなビル。できれば小さくて家庭的なホテルがいい。ホテルってのは、探している時に限ってなかなか見つからない。チェック・イン後、街をブラついていると、なぜか必ずよさげなホテルが数軒見つかったりする。

聖ニコライ教会のある広場に辿り着いた。ここが街の中心部。とりあえず広場を中心にグルッとひと回りする。だけどホテルは見つからない。しかたない、さっきのScandicへ行ってみよう。空室はあるかと聞くと、若くて可愛いレセプションの女性が、笑顔で「あります」と答えてくれた。料金を聞くと1泊シングルで1,450SEK。ちょっと高い。だけど、もうホテルを探してうろつくのもイヤだ。ということで即決。

カード型の鍵をもらって部屋に入った。ちょっと狭い。料金の割には高かったかもしれない。落ち着いてから宿泊料金を計算。1,450SEK×12円=17,400円。まぁ、目の玉が飛び出る金額でもないけど、今回の旅では最高金額。料金には25%近い高額な税金も含まれている。とにかく北欧は何もかもが高い。くそ…!

チェック・イン後、街歩きを始める。地図はホテルでゲットできた。といっても、あまり情報があるとはいえない変てこりんな地図。ワンコみたいに鼻をクンクンさせて歩いた方がよさそうだ。まずは中央広場(Stora Torg)に建つ聖ニコライ教会から見て行く。壁に丸いステンド・グラスがある。円を7面に割ってデザインされ、それぞれに宗教的に意味合いを持つ絵柄と、青と赤を基調とした色彩は鮮烈。

教会を見てしまったら、後は街をブラつくだけ。ウロウロ歩いて面白いと思うのは住宅街。狭い街路の両側に立ち並ぶ家々。色も形も統一感があるわけじゃないけど、日本の住宅地に見られる妙な不統一さはない。スッキリしている。家は質素で無駄な飾りがない。外壁は煉瓦造りが多いけど、木造の家も少なくない。

しばらく先に昔の城門Norre portがあった。門の先は「Norra Katts park」で公園。スウェーデン語で「norre-」は「北」のことらしい。まさか「野良・猫・公園」ってことか…?公園内に「Kattfotens katthem」という木造の大きな建物を発見。看板の両脇には可愛いニャンコの写真。これは捨て猫の収容施設かな…?

城門の脇にプレートがある。図解入りで、昔ここに城門と城壁があったことが分る。今は公園となっている場所に濠が三重に掘られ、五稜郭のような角形の城郭が築かれていた。プレートにハルムスタット市のマークがある。面白い。3つのハートの上にそれぞれ王冠が乗っている。街角で見かけたゴミ箱にも3つの王冠のハートマーク。3つの王冠は、スウェーデン王国の現在の国章だという。

ガイドブックに載ってない街もイロイロあって面白い。時には予期せぬ素晴らしいモノ・コトに出会えたりもするけど、反対に何もなくて落胆することだってある。いつもいつもガイドブックに載っている街ばかり訪れたって面白くもない。だから多少ギャンブルでも、時には突然列車を飛び降りてみたくなるのだ。



# by 1950-2012 | 2019-03-22 22:15 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

先日3月18日午前、オランダ中部の都市ユトレヒトで銃撃事件があった。ニュージーランドでの銃撃事件の直後だったから、またテロ…?と驚いてしまった。ユトレヒトでは3人が死亡し、5人が怪我をしたという。事件はトラム(路面電車)の中で起こった。現地警察はトルコ出身の30代の男が事件に関わったとして写真を公開し、行方を追っていたが、どうやら逮捕されたようだ。

オランダ国営放送は、撃たれた人の証言として「犯人が『アラー・アクバル(神は偉大なり)』と叫んでいた」と伝えた。やはりテロか…?その後のニュースでは、家族関係のいざこざが原因だという情報も、やはりイスラム過激派という情報も出ている。事件現場はユトレヒト中央駅から1.5kmほど離れた住宅街で、集合住宅が並び移民も多く住んでいる地域らしい。

ユトレヒトはオランダ第4の都市で、僕も2000年春と2010年初夏に訪れている。街を運河が流れ、大学があるせいか若者たちの姿が多く、落ち着いた雰囲気のいい街という印象が残っている。ロケーションとしては、アムステルダムの約30km南に位置し、絵本『ミッフィー』の作者ディック・ブルーナ氏が生まれた街としても知られる。

僕が初めて訪れた2000年春。実は旅の始め、ユトレヒトに滞在する予定は全くなかった。ではなぜ、ユトレヒトに滞在したか…?理由は5月1日アムステルダム中央駅手前の駅で、これは僕の気にゆるみが原因だったのだけれど、貴重品の入ったショルダー・バッグを電車内で盗まれたからだ。その盗んだ相手はアラブっぽい顔をした移民系の3〜4人グループ。僕は列車の窓越しに、直にその1人と顔を見合わせ会話までしている。

人種とか宗教で差別する気持ちはないけど、オランダを含めヨーロッパの多くの国では、合法であろうと違法であろうと、とにかく中東やアフリカからやって来た移民の姿を年々数多く見かける。彼ら移民系の多くが、宗教や法律の違うヨーロッパの諸都市で、現地の生活習慣などに順応しているのであれば何の問題も起きないのだろう。しかし、現実はそう簡単じゃないようだ。

迫害や飢餓などから逃れてきた移民1世は、安全で清潔なヨーロッパで生活ができることに喜びや感謝を感じているようだけど、その子孫にあたる移民2世や3世の若者たちは、人種や宗教や教育によって生じる差別や格差に反発しているとも聞く。もしかしたらその発露のひとつが、過激な「イスラム国」などの戦争行為として現れているのかもしれない。

2000年春、多くの貴重品を盗まれた僕は、元々アムステルダムに滞在する旅程で5月1日から3日までホテルを予約していた。盗まれたモノの中には、パスポート、クレジット・カード、現金、買ったばかりの(結構高かった)カメラ、ユーレイル・グローバルパス、帰りの航空券などがあった。旅を続けるために必要なものばかりだ。

この時の旅は3週間の予定だった。旅はまずパリで飛行機を乗り換え、南フランスのトゥールーズから始まった。その後、フランスを北上し再びパリへ。その後ベルギーを経てオランダに入国。そんな最中に遭遇した盗難事件だった。旅はまだ10日近くも旅程が残っていた。さらに旅を続けるため、僕は失ったものを取り戻す工夫をしなければならなかった。そのひとつが、自分自身を保証する旅券=パスポートだ。

盗難翌日、必要書類を集めて日本領事館のあるデン・ハーグに向かった。本当なら忌まわしい出来事のあったオランダからすぐにでも出たかったけど、外国人(この場合は日本人の僕)はパスポートなしでヨーロッパを行き来できない。帰国便はドイツのフランクフルト発。当然身分を保障するものがないのだから、行き来だけでなく帰国だってできない。何はなくともパスポートだけは必須だった。(注:2019年の現行法では、確か紛失したパスポートは再発行ではなく、新規に現地で再度申請するようになっていると思う)

書類を提出後、領事館の女性スタッフにユーレイル・グローバルパスも盗まれたと話すと、彼女は「もしかしたら、ユトレヒトの中央駅で手にレイルパスを入れることができるかもしれないわよ…」と教えてくれた。助かった。もう一度ユーレイルパスを手に入れることができたら僕の旅は復活する。

領事館を出たのは5月2日の午後2時過ぎ。それからデータを日本に送っても、日本との時差は7時間。外務省はすでに業務終了。翌5月3日の憲法記念日から、日本はゴールデン・ウィークに突入。もちろんデン・ハーグの領事館も祝日で閉館。パスポート再発行は、どんなに早くても翌週月曜日の5月8日午前になる。

アムステルダムのホテルは5月3日までの予約。延長してもいいけど、忌まわしいアムステルダムにもうこれ以上いたくない。では、4日からパスポートが再発行される8日まで、どこでどう過ごすか…? いろいろ考え、以前TVで見た『うさぎのミッフィー』の作者ディック・ブルーナがユトレヒトに住んでいることを思い出し、ユトレヒトに滞在することに決めた。 

8日は午前早めに日本領事館に行き、パスポートをできるだけ早く手に入れたい。それなら前日7日はデン・ハーグに泊まりこむのがベスト。ということで、僕は5月4〜6日はユトレヒトに3連泊、7日はデン・ハーグに1泊することに決定。本当なら最悪な状況だったのに、僕は何だか楽しそうにイロイロ画策していたのだった。

5月4日、ユトレヒトで最初の夕食。中央駅に近いビルの鉄板焼き店に入った。働いているウェイトレスは全員フィリピン人。和食レストランなので、彼女たちは和服めいたユニフォームを着ていた。だけど丈が妙に短い。浴衣みたいで、マジックテープの帯で簡単に着られるようになっている。着物はつんつるてんで帯も胸高、着物を見慣れている日本人の僕には、落語に出てくる「与太郎」のように映った。

鉄板焼きのコックも妙だった。眼鏡をかけた中国人だ。チューヤンという中国人タレントに似ていた。彼は野菜や肉をドンドン焼く。そして焼き上がるたびに、笑顔で「召し上がれ〜」と僕に言い続ける。不思議なイントネーションの日本語だった。そんな時は「さぁ、どうぞ、お召し上がりください」と言ってほしかった。つんつるてんの和服といい、変な日本語といい、とにかく妙な店だった。

翌日は「今日は」という名前の和食レストランに入った。ユトレヒトでの残りの2日間、僕はその店に通いつめた。寿司カウンターの板前は香港出身。僕たちは英語でいろいろ話をした。彼は寿司の技術を東京で学んだと言った。話を聞くと、彼もアムステルダムのトラムで、やはり移民系の窃盗団に囲まれ財布を盗まれたことがあると言った。東洋人は狙われやすいのかもしれない。

パスポート再発行前日の5月7日、予定通りデン・ハーグ中央駅そばのホテルにチェック・イン。調べたら建物内に和食店があった。その日の夕食、和食店で板前から恐ろしい話を聞いた。ある時、彼はクルマを路上に駐車したらしい。30分ほどで戻ってくると、何とタイヤ、ホイール、カーステレオがごっそり盗まれたという。犯人は移民系グループだったと板前は言った。

本当に「アッ!」という間の出来事だったらしい。タイヤとホイールのないクルマは、何とも間抜けに映っただろう。そんなことは日常茶飯事。2000年当時とは言え、現地の日本人だけでなくオランダ人も、移民系の窃盗犯には手を焼いていたのだ。そんな状況はますます悪化しているという。

僕は幸運にも2000年以来、とりあえずヨーロッパでは犯罪に遭遇してない。過去に悲惨な目に遭っているから、それなりに心の準備ができているからだろう。だからと言って、全く隙がないわけではない。ふっと気が緩んだ時には、また同様な目に遭ってしまうと思う。ただ仮にこれから何かあったとしても、事件後の対処法には経験があるだけ少しマシかもしれない。



# by 1950-2012 | 2019-03-19 21:37 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

フランスに「ペタンク」(pétanque)という遊びがある。日本人にはあまり知られてないゲームだけれど、フランスを旅していると公園に老人たちが集まって、ワイワイガヤガヤ重そうな鉄の球を投げて遊んでいるのをよく見かける。初めてペタンクを知ったのはTVの番組だと思うけど、実際にこの目で見たのは、2000年春に南フランスのトゥールーズを訪れた時だった。

2000年5月12日。僕は50回目という節目の誕生日を迎える。そのため長期休暇を取り、記念すべき誕生日は何としてもヨーロッパの街で迎えたい。それが願いだった。そして、オフィスのスタッフに無理を言って3週間の休みを取った。と言っても、僕がそのオフィスの代表だったから、僕の長期休暇に誰も「NO!」とは言えなかった。ごめんなさい。

4月下旬、成田から出発。パリで飛行機を乗り換え、最初の寄港地である南フランスのトゥールーズを目指す。途中、飛行機が何度も乱気流にもまれた。離陸してすぐサンドイッチを配りだしたCAたちも、後部の席に戻りシートベルトをしたまま全然動かなくなった。過去に経験したことのない強烈な揺れに、僕は正直言って「もうダメか…!」と覚悟したほどだ。スタッフにWAGAMAMA言って長期休暇を取った罰が当たったのかもしれない。

それでも乱気流を何とか切り抜け、飛行機は無事トゥールーズに着陸。だけど、預けたリュックが出てこなかった。一難去ってまた一難。何ともつまらないトラブルが僕を待っていた。以前から、パリのシャルル・ド・ゴール空港の荷物管理は評判が悪いと聞いていた。時には荷物が無くなるとの噂も出ていた。まさか、盗まれた…?

調べてみると、リュックは次の便に乗せられたという。そういえば、パリでの乗り継ぎがあまりにもよすぎた。だから預けたリュックがうまく乗ったかどうか、ちょっと気にかかっていたのだ。心配がドンピシャ当たった。しかたない。バッケージ・クレームの係員に、その夜宿泊するホテルの名前を告げて空港を出た。リュックは後でホテルまで届けてくれると言った。

とりあえずTAXIでホテルへ向かう。リュックはホテルのフロントのスタッフトの行き違いなどがあって、結局その夜は僕の手元に届かなかった。リュックにはパジャマや歯ブラシなど、日常生活の品々が入っていたので本当に不便をした。そんなトラブルが、節目である50歳の誕生旅行で起こった。全く「トラベル」=「トラブル」だね。

翌早朝、リュックも何とか戻って気分もリセット。さぁ、これから3週間の長旅が始まるゾ〜!と気負い込んだ。体はかなり疲れているはずなのに、いつもの性悪な時差ボケのため、妙に朝早い時間に目覚めてしまう。しかたない。カメラを手に散歩に出かけた。春の朝は空気も冷たく爽やかで、緩んでいた身も心もシャキ〜ッ!と素晴らしく緊張する。

ホテルを出て、街を流れるガロンヌ川を目指す。ガロンヌ川はピレネー山脈を源とし、この街で方向を変え北西の方角に流れ大西洋に注いでいる。大きな橋のそばには、世界遺産となっているミディ運河への入り口となる流れもある。ここからフランス中の運河を縦横無尽に旅できたら最高だと思った。

再び旧市街の路地をブラつく。トゥールーズは独特の建築的外観を持つ建物が多い。そのため「バラ色の都市」(la ville rose)と呼ばれる。普通、フランス都市では近隣の山から石を切り出して建築資材に使用する。しかし、この周辺には資材に適した石がないため、焼いたテラコッタ・レンガを積み重ねて資材としたらしい。その色合いから「バラ色の都市」という名が生まれたのだそうだ。

と言いつつも、ロマンティックな「バラ色の壁」には、目障りと言っていいほど落書きが目立つ。写真を撮る側としては、ついつい大きなため息が出てしまう。落書きはトゥールーズだけでなく、僕が訪れたヨーロッパのほとんどの国のほとんどの街で見られた。美しく趣のある旧市街の風情もこれでは台無し。どうにかならないものか…?

ウロウロ歩いていると、小さな広場にぶち当たった。そこには数人のオッサンたちが集まり、何やらゲームに興じている。それは「ペタンク」だった。ペタンクはフランス発祥の球技。プロヴァンス地方の方言「ピエ・タンケ(両足をそろえて)」という方言が由来だそうだ。その名の通り、マジな顔をしたオッサンが、膝をピッタリ閉じてかがみながら的を狙っていた。

簡単に説明すると、テラン(コート)上に描いたサークルを基点として、木製のビュット(目標球)に金属製のブール(ボール)を投げ合って、相手より近づけることで得点を競う。ちなみにブール(ボール)は、直径7.058cm、重さ650800g。材質はステンレス鋼や鋼鉄などの金属製。

ゲームには「トリプルス、ダブルス、シングルス」3つの形式があるそうだ。例えば「トリプルス(トリプレットtriplette)」は、3人対3人で各自2球のボールを投げる。「ダブルス(ドゥブレットdoublette)」は、2人対2人で各自3球のボールを投げる。「シングルス(テタテットtête à tête)」は、1人対1人で各自3球のボールを投げる。ルールを多少かじったからと言って、ゲームがすぐに分かり面白く見られる訳ではない。

フランス語は全く分からないから残念だけれど、ゲームに興じているオッサンたちのハチャメチャな言い争いは絶対に面白いはず。ということで、僕は街角でペタンクをやっているグループを見かけたら、彼らの邪魔にならないようにそっと遠くから見させていただくことにしている。

そうだ、思い出した…!トゥールーズでペタンクをやっているオッサンたちを見た数日後、僕はオランダのアムステルダムの公園でも、ペタンクをやっているオッサンたちを見ていた。ペタンクはフランスだけの遊びではなく、他のヨーロッパの国々にも普及しているのかもしれない。

さて、日本ではどうか…?僕は今までペタンクをやっているオッサンたちを、見たことも聞いたこともない。ひょっとしたらフランス大使館のオッサンたちとか、おフランスかぶれの初老の遊び人が、こっそり公園の片隅でやっていたりするかもしれない。ゲートボールも悪くないけど、新し物好きな人たちには、この際だからのペタンクを奨めたいなどと考えている。

2000年以後、僕がペタンクを見たのは2007年2月。場所は南フランス、プロヴァンスのアルルの公園だった。古代ローマの円形競技場やヴァン・ゴッホゆかりの場所を訪ね歩いて駅に戻ろうとした時、川沿いの公園で、何組かのオッサンたちがペタンクに興じているところに偶然出くわした。

きっと強烈で卑猥な言葉が飛び交っていただろう。オッサンたちは下卑た笑い声を周囲に振りまき、まるで悪ガキみたいにゲームにのめり込んでいた。善良そうな老人男女が参加している日本のゲートボールと違い、ペタンクに興じていたのは、一癖も二癖もありそうなオッサンばかりだった。

僕がフランスで見たペタンクに興じていたオッサンたちは、決して年老いたアラン・ドロンのような「カッコいい」オッサンではなく、くたびれはてたジャン・ギャバンのような「いぶし銀」みたいなオッサンが多かった。ということで、僕は希望する。どうせなら悪態とペタンクが似合う、Rock大好き不良老人になりたい。あっ、もう既になってる…!



# by 1950-2012 | 2019-03-16 08:06 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

僕はかなり小食で、ちょっと偏食気味なところがある。基本的に大盛りはダメ。脂っこいのも苦手。レバーやウニは完全NG。好き嫌いも少なくない。無理して食べると、寝ている時に吐き気を催してしまうことすらある。2003年春、南ドイツ“黒い森”の中の小さな街、ドナウ河の源流と言われるドナウエッシンゲンを再訪した時がそうだった。

最初にドナウエッシンゲンを訪れたのは1990年春。僕にとっては、記念すべき初のドイツ(同時に、これが初のヨーロッパ)の旅だった。その時に、僕はいつものいい加減な「まぁ、いいっかぁ…」が出て、ドナウ河が始まる地点を見忘れた。言ってみれば、その地点こそがドナウ河の源流。見ておくべきだった。そして旅を終えて帰国。すると「あぁ、あの時行っておけばよかったなぁ…」と後悔する。

ということでリベンジ。2003年春、ドナウエシンゲン再訪。今度はドナウ河が始まる地点、つまりブリガッハ川とブレーク川が合流する場所を絶対に見るつもりだった。ホテルはガイドブックを見てFAXで予約。今ならメールかホテルのサイトで簡単にできるけど、当時の僕はMac.を使いこなせてなかった。

予約したホテルはOchsenオクセン。英語で言えば「OX」雄牛。旅を始めて4日目。体はちょっとヨーロッパに慣れてきたけど、少々疲れがたまり始めていた頃。ヨーロッパ到着後、春とはいえ夏のように日差しがきつく、汗をタップリかく日々が続いていた。ホテルにチェック・イン後、早速例の2つの川が合流する地点を目指す。ここまで来るのに13年もかけてしまった。

合流地点にはフライフィッシングをする人がいた。僕が到着したその瞬間、タイミングを合わせたかのようにフィッシュ・オン。きっとあの魚は、シューベルトが作曲したピアノ五重奏曲イ短調『鱒』のブラウン・トラウトに違いない。なぁんて勝手に想像してほくそ笑む。ということでドナウエッシンゲン再訪のミッションは、無事に完了した。

ウロウロと街を歩きながらホテルに戻る。思ったよりも疲れていた。部屋に入ってベッドに横たわると、足の筋肉がジワジワし始める。日本にいる時はあまり歩かないから、旅に出ると必要以上に歩いて足に疲れを感じてしまうようだ。まだ旅は始まったばかり。足に湿布薬を貼るほどではないけど注意が必要だ。ここのところ、旅も後半になると筋肉痛がひどくなる。

エアコンなんてない部屋には、モヤ〜ッとした重たい空気が淀んでいた。早速窓の取っ手を真横にし、縦長の窓を全開する。レースのカーテンが踊りだし、涼しい空気がファーッと部屋に流れ込む。おぉ、快適〜!汗ばんでいたのでシャワーを浴びる。すかさず気分がリフレッシュ。途端に喉が渇いて、冷たいビールが欲しくなる。

1階のレセプションまで下りて「ビールが欲しい」と言うと、若者が「1.5ユーロです」と言った。1.5ユーロ渡すと、若者が自動販売機にコインをガチャコンと入れてビールを取り出した。ビールは以前来た時にも飲んだ「フュルステンベルク」というブランド。この街特産の地ビールだ。ちなみにフュルステンベルクは、この周辺を治めていた領主の名前だったと思う。フュルステンベルク家の敷地内には、コンコンと水が湧き出る「ドナウの泉」があり、それがドナウの源流だと言う人々もいる。

部屋に戻って、ビールを飲みながらテレビを見る。TVでは自転車のロード・レースを中継していた。他のチャンネルではサッカーの特集。ベッドに横になって見ていたら、そのままZZZZZ…居眠りしてしまう。やっぱり疲れていたのだ。目覚めると、すでに午後8時過ぎ。夕飯にはちょっと遅い時間だった。ホテルを出て、レストランを探し歩くのも億劫だと感じた。ホテルのレストランがまだ開いている。ということで、たまには宿泊先のレストランで食事をするのもいいだろうと考えた。

レストランのドアを開ける。客の数人がギョッとした顔で僕を見た。確かに田舎町の小さなホテルのレストランに、ちょっと怪しげなモンゴリアンのオッサンが入ってきたのだ。多少驚かれてもしかたがない。それにこの時、アジア各地ではSARS騒動が起こり、こっちのTVでも連日ニュースになっていた。彼らが驚いたのは、きっとそのせいだったのかもしれない。もしかして僕がマスクなどしていたら、驚きはもっとスゴいものになっていたかもしれない。

空いている席に腰掛けた。メニューを手に取る。予想していた通り表記はドイツ語。とりあえず味わいとか調理方法が分かっている料理を頼むしかない。ドイツ語で「Suppe」はスープ。メニューにハンガリーのグャーシュ・スープがあった。それなら味が大体分かる。以前ブダペストで食べているから大丈夫。ということで、まずはグャーシュ・スープを頼んだ。

それ以外、メニューにある料理は何だか全く分からない。何たってチンプンカンプンのドイツ語で、しかも読みにくい手書きのメニューだ。とりあえず野菜サラダも追加。サラダならどうにか食べられる。後はパンでもかじっていれば、僕の小食の腹には充分な量になると思う。

グャーシュ・スープには牛肉が入っていた。ホテルの名前は「オクセン」つまり雄牛。牛肉が入っていてもおかしくない。できれば控えめに小さいのが2〜3切れでよかったのに、スープには大振りなのが10切れ近くも入っていた。しかも、よく煮込まれ固くなっていた。僕は牛肉の塊を、何度も何度も顎が疲れるまで咀嚼し、ワインと共に勢いよく胃に流し込まなければならなかった。これは僕にとって苦行難行だった。

その夜のこと。限度量を超えた牛肉を食べたせいか、消化が悪くて胃の中がムカムカしていた。すると急に吐きそうになる。嘔吐しそうになった瞬間、僕は図らずも息を吸い込みそうになった。やばい!まずい!危うく肺に嘔吐物を吸い込むところだ。

すぐさま飛び起き、急いでトイレに駆け込む。そして、胃に溜まったものを便器に吐き出す。落ち着いたところで、ミネラル・ウォーターを飲んで胃洗浄する。ふぅ〜!思わずため息が出る。しばらくすると、また吐き気が襲ってくる。吐き出しては、ミネラル・ウォーターを飲んでまた胃洗浄。その繰り返しが何度か続く。いい年こいて、何をしてるんだか…?哀しくなる。

やっぱりダメだ。合わない食べ物は、やはり僕の胃には合わない。もう少し注意しなければいけない。旅先で寝ている間に、自分の嘔吐物で「窒息死」なんて情けないことになってしまうかもしれない。気を取り直して、温くなったミネラル・ウォーターを飲む。水はスルスルーと、空っぽの胃袋へ気持ちよく流れ落ちる。はぁ〜、参った…!思わず溜息が出る。

考えてみれば旅はまだ始まったばかり。これから先、何を食べながら旅を続けたらいいのか…?そんなことを考えると寝つかれなくなる。点けっぱなしのTVでは、ドイツ人らしい若い娘が裸になって踊っていた。おやおや…!それは有料番組でなく、朝の5時までやっている「Live 9」という普通の番組。昼間は昼間で、深夜とは全然違うマジメな番組を放送している。夜中はオッサンのための「裸天国」になるらしい。

ヌードとヌードの合間にCMが流れる。携帯電話の電話番号の連呼と、妙に妖しく色っぽいお姐さんたちが画面に向かって舌なめずりしながら誘いかけてくる。たぶんテレホン・セックスのCMなのだろう。ヨーロッパはセックスに関して、何ともおおらかで肉欲っぽくて挑発的だ。日本とは大違いで、食事同様量感タップリで繊細さに欠けるように感じる。やっぱり、和食がいい。日本の女性がいい。

セクシーCMの電話番号は「0906」で始まる。ちょっと驚いた。日本で「090」で始まるのは携帯電話番号だ。似ている。といって、ドイツやオーストリア国内でどこかのスケベなオッサンがかけた電話が、日本の誰かの携帯電話につながるわけは絶対にない。なぁんて、どうでもいいことを考えてしまう。旅の始まり、こんな空しい時差ボケがしばらく続くのがちょっとばかり辛い。
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# by 1950-2012 | 2019-03-13 20:19 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

さてさて6度目のバス振替輸送は2003年春、ドイツからルクセンブルクの国境を越えようとしている時に起こった。ライン河畔の街コブレンツで列車を乗り換え、ドイツ西部の街トリーアへ向かう。トリーアからルクセンブルク行き列車が出る時刻は、トーマス・クックの『時刻表』を見てしっかり確かめておいた。

駅到着後、ルクセンブルク行き列車が出るホームへ向かう。列車が停車していた。だけど、行き先はルクセンブルクではない。何かあったのか…?ホームに貼ってある時刻表を見て確認。何となく事態が妙なことになっている。突然の運休か…?念のために駅構内に入る。駅構内の列車発着表示板は正確で信用できる。それに何かあれば新しい情報が刻々と表示される。

列車発着表示板を見ると、やはりルクセンブルク行き列車は全く表示されてなかった。鉄道事故でもあって、急遽取りやめになったのかもしれない。すでに5〜6人並んでいるインフォメーション・デスクの列に、僕もとりあえず並んでみる。列前方で利用客が説明を受けている。ドイツ語だから何を言っているか分からない。だけど、いつもの直感が働いた。やはり運休のようだ。

理由が分かったけど、この日はルクセンブルクにホテルを予約してある。僕は何としてもルクセンブルクへ行かなければならない。もうすぐ僕の番という時、2人の若者が列に割り込むように入ってきた。すかさず僕は若者たちに英語で言った。

「列を作れ。みんな並んでいるんだっ…!」

若者たちは不満げな顔をしたが、おとなしく列の後ろに並んだ。前にいた女性が僕を見て「よくぞ言ってくれた!」というような顔をした。僕の番が来た。すでに何人かの説明を聞きかじり、事態は少し飲み込めていた。やはりルクセンブルク鉄道が突然ストライキを始めたらしい。

僕は何としてでもルクセンブルクに行きたかった。ルクセンブルク以後の予定が全部決まっているからだ。ルクセンブルクの次はベルギーのゲントで2泊。その後再びドイツに戻り、アーヘンで1泊。さらにライン川沿いのブラウバッハという小さな街で1泊。ホテルはすべて日本を発つ前に予約してある。

インフォメーション・デスクで聞くと、トリーア駅前からルクセンブルク行きのバスが出るという。当然だ。どうしてもルクセンブルクへ行かなければならない乗客は、観光客の僕だけではないはずだ。もしもバスがなかったら、きっと僕はTAXIを拾ってルクセンブルクに行くだろう。ただし、料金がいくらかによる。僕だってそんな無駄遣いをしたいとは思わない。

インフォメーション・デスクでもらった紙には『金曜日0300から翌日土曜日の030300まで…』とか『ルクセンブルク行きのInterCityはトリーアまで…』とか『4台のバスがルクセンブルクまで出ています…』とドイツ語で細々と印刷されていた。完璧ではないけど書かれていることぐらい少しは分かる。何たって何度もドイツを旅している。中退したとはいえ、大学ではドイツ語を第二外国語として選択した。さらに、数人のドイツ人女性ともつき合ったこともある。

バスを待つ間、並んでいる若者に英語でイロイロ質問してみた。何たってインフォメーション・デスクでもらったのは、ドイツ語で書かれた紙きれ1枚。いくら何でも情報不足では心細い。若者は親切に答えてくれた。バスは時間になればここにやって来る。ストは今日1日で終わるという。

1時間ほど待つとバスが駅前に入って来た。ルクセンブルクへ行く人々がバス停に集まり出した。今までルクセンブルクとトリーア間を2度ほど列車で通過している。今回は運よくというか、ルクセンブルク・トリーア間を初めてバスで移動できる。それはそれとして、何だか嬉しいような気もする。

トリーア市街を抜けたバスは森を抜け、ルクセンブルクへ通じる広々としたハイウェイに出た。何だか分からない内に国境を越え、なだらかな田園と丘陵地帯を走り続ける。バスの気持ちいい揺れのせいか、それとも連日の歩き疲れのせいか、僕はウトウト居眠りを始めた。気がつくとバスはルクセンブルク国際空港に近づいていた。

続いて、7度目のバス振替輸送は2010年初夏。この時の旅はスイスからリヒテンシュタイン、オーストリア、チェコ、ドイツ、フランス、ベルギー、オランダと駆け巡る36日間の長旅だった。長旅だから、その間にはいろいろと「トラブル」も起こる。

旅も3分の1を過ぎた頃、チェコからドイツに向かう。プラハ発の列車は、ミュンヘン行き国際列車「Albert Einstein号」。敬愛する天才物理学者の名がついた列車でドイツに入るなんて何とも幸福。ユーレイル・パスを持っている僕は、早速1等車に乗り込んだ。パスに日付と行く先を書いていると、アジア人の若者がやって来た。

「ここに座って大丈夫ですか…?」

若者は僕のそばの席に座ってそう聞いた。

「1等の切符を持っていれば大丈夫だよ。どこから来たの…?」

「シンガポールから来ました。大学生です。これからミュンヘンに行くんです」

僕は思った。たぶん若者は2等の切符しか持ってないはず。いずれ車掌が来れば強引に2等車へ移動させられる。そんな光景を今まで何度も目にしてきた。そんな屈辱的な目に遭うのは、どっちかというと有色人種が多かったような気がする。最初から2等車に乗ってれば、そんなイヤな目に遭わないのにと思う。

車掌がやって来た。当然の如く若者は「2等車に移れ」と言われた。しかし、グズグズやって移ろうとしない。車掌は僕の所にやって来た。そして、途中からバス輸送になるようなことをドイツ語で言った。英語で質問すると、車掌は困った顔をした。急に僕の前から去り、しばらく後に英語が話せる乗客を連れて戻ってきた。

プルゼニュの先の駅からバスに振替輸送になるのだそうだ。理由は線路工事。そして国境をバスで越えた後、ドイツ側の駅でまた列車に乗り換えるのだと言う。それならしかたがない。別に急いでいる訳じゃないからOK

乗換え駅に到着すると、信じられないほど大勢の乗客がバスに乗り込もうとしていた。僕も乗り遅れないようバスを探して乗り込んだ。バスが発車する。これはこれで楽しい。何たって列車で移動したら見られない、チェコの田園風景が見られるからだ。

隣の席の男女が大きな声で話していた。男はイギリス人で女はドイツ人。女は英語がそんなに流暢ではない。男はお構いなく英語で話しかけ「イギリスはいいぞ」と何度も女に自慢していた。けっ…!国境が近くなったのか、道路脇にイロイロな店が並んでいる。パスポートはノー・チェック。何となく家の形が変わったことで、ドイツに入ったことを実感する。

初めて名を聞くドイツ側の駅から再び1等車に乗り込む。例のシンガポールの若者が同じ車両に入ってきた。彼は笑顔を見せて僕に挨拶する。僕も軽く挨拶を返す。列車が走り出してしばらくすると、屈強なドイツ鉄道の車掌が現れた。そして若者は、今度も2等車に追放された。

さらにその数日後、またまた急なバスの振替輸送。これで8度目だ。今度はドイツの小さな田舎町ミルテンベルクで。と言っても、ミルテンベルクなんて誰も知らないだろう。それが普通だ。ガイドブック『地球の歩き方』でも1/2ページしか紹介されてない。ミルテンベルクは先史時代からの歴史ある街。オーデンの森とマイン川を渡る戦略上重要な場所として知られる。

マイン川はローマ帝国とゲルマン民族との天然の国境になっていたという。この街が初めて文献上に記録されるのは1237年頃。日本では鎌倉時代だ。この街は中世の昔から、マイン川を渡る重要な場所のひとつだった。ミルテンベルクでは1泊の予定。ホテルは飛び込みで探す。1軒目がフル・ブッキングで、少し先の「Riesen」というホテルを教えてもらう。行ってみると1階のレセプションは無人、『ご用のある方は3階へ』というプレートがあるだけ。しかたない。エレベータで3階へ上がる。

エレベータのドアが開く。老婦人2人が食堂で楽しそうにテレビを見ていた。一瞬の間があり、やっと客に気づく。僕はこの時、老婦人たちはきっと英語なんか喋ってくれないだろうなと覚悟した。

「グリュス・ゴット!」

まずは挨拶。

「ツィンマー・フライ…?」

知ってるドイツ語の単語を並べて聞く。老婦人は笑顔で「ヤー!」と答えてくれた。料金を紙に書いてもらう。数字を言われても、たぶん僕には分からないからこの方法が賢明。朝食付き€55BINGO〜!でも部屋を見てみたい。あまりにもひどい部屋だったら他を探すつもりだった。

やや狭い屋根裏部屋だけどこぢんまりとしていて清潔。印象は悪くない。だけどどこにもテレビがない。サッカーのワールド・カップが始まって以来、ここ数日僕の楽しみはテレビ観戦だった。この日は午後1時半からホンジュラス対チリ戦。4時からスペイン対スイス戦。8時半から南アフリカとウルグアイ戦がある。思わず女主人と目が合う。向こうは屈託のない顔で笑っている。

「グート…!」

呆気なく笑顔に負けた。これからまたホテルを探すことを考えたら当然だ。せっかく予算内のホテルが見つかったというのに、そんな面倒なことはしたくない。テレビぐらいなくたって何とかなる。それよりも早くカメラをぶら下げて街探検をしたい。そんなこんなで、念願のミルテンベルクで1泊。僕は大いに満足した。

翌朝、余裕を持って駅に向かう。あいにくの雨。駅前広場には、前日も出ていた「West Franken Bahn」と書かれた屋台がある。駅員が朝から道行く人に何か語りかけている。観光イヴェントではなさそうだけど、僕には関係ないことだと知らんぷりを決めた。

駅の時刻表で列車の出発時間を確認。空いているベンチにデイパックを置き、濡れたウィンドブレーカーをバンダナで拭く。しばらくすると、さっき屋台にいた駅員が隣の乗客夫婦に何か語りかけている。奥さんはビックリした表情を見せた。あれ、何か起こっているようだ…?駅員は僕の所にやって来た。

「どこへ行くんですか…?」

たぶんドイツ語でそう聞いたのだ。質問の「wo」、つまり英語の「where」に当たる言葉が聞き取れた。僕は「ハイルブロン」と行き先を答えた。僕だって多少のドイツ語なら分かる。だけど、あくまでも多少。口惜しいけど、その後の質問には「????」って表情を見せるしかなかった。

僕がドイツ語を話せないと分かると、駅員は途端に困った顔になる。ちょっと間をおいて切符売り場に行き、僕を手招きして呼び寄せた。どうやら切符売り場の女性に通訳を頼もうとしているようだ。

「ハイルブロン方面の列車は運休です。途中駅までバスで行ってください…!」

そういうことだったのか。すると切符売り場の女性はPCに向かって何かを打ち始めた。途中の乗換駅とその後の列車の連絡情報をプリントアウトしているのだ。事情が飲み込めた僕を見て駅員の表情も途端に緩む。そして駅前広場に駐車しているバスをしきりに指さしている。急いでバスに乗り込む。僕が座席に座った途端、バスはエンジンをかけ勢いよくミルテンベルク駅を出発した。



# by 1950-2012 | 2019-03-10 08:55 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

4度目のバス突然振替輸送は真冬。それは20011231日大晦日。英国スコットランド北部の中心都市インヴァネスから、西岸のカイル・オブ・ロハルシュという小さな街に行く列車だった。インヴァネスを出てしばらく走ると、なだらかな丘陵地帯へと入る。おぉ、これがハイランドか…!思わず意味もなく感銘。

線路脇には野生だろうか、鹿が雪の中に何頭もいた。走り去る列車を大きな目で涼しげに見送っている。ある1頭が高いフェンスを越えてしまったらしく、必死に飛び越えようともがいていた。腹にフェンスの太い針金が当たり、うまくいかない。傷ついていなければいいけど、人のいない場所でどうやって救ってあげられるか…?動物愛護の精神が強いこの国で、偶然にもそんな悲しい光景を見てしまった。

約1時間後、列車はある駅に停車。すると、雪のため終点のカイル・オブ・ロハルシュまで運行できず、バスによる振替輸送になると緊急アナウンスがあった。オ〜、マイ・ブッダ…!ツイてない。停車したのは、雪が降り積もった人家のまばらな全く寂れた小さな駅。周りの人家は、見回すところわずか2・3軒程度。全く他には何もない。バスが来るまで車内で待つようにと、巡回している車掌に言われた。僕はやや不安になって恐る恐る車掌に聞いてみた。

「このままカイル・オブ・ロハルシュまで行って、僕は今日中にインヴァネスに帰れるのでしょうか…?」

無理だったら、このままインヴァネスに戻ろうと決めていた。Mr.ブーンによく似た顔の車掌は事もなげにこう言った。

「大丈夫、5時にカイルの駅からバスが出る。それに乗れば、インヴァネスには帰れるはずだ」

よかった。このまま引き返すのも何か空しいと思っていた。とりあえずここまで来たら前進あるのみ。車掌の言葉を信じ、振替輸送のバスに乗り換え、とりあえず目的地カイル・オブ・ロハルシュまで行ってみようと思った。そして無事に目的地到着。最大の目的である、海辺に建つロハルシュ・ホテルの写真を撮って大満足。

そしてインヴァネスへの戻り。僕は余裕を持って、帰りのバスが出る駅の待合室でバスを持った。乗り込んでやや前側の座席に座る。若者3人と老婆が1人乗り込んできた。乗客は僕を入れて全部で5人。バスは発車して、しばらく走ってから小さな駅に停車。僕以外4人の乗客はそこで全て降りた。バスには僕以外、運転手となぜか乗っていた彼の5歳ぐらい息子…?そして車掌だけ。

乗客は僕1人。つまり、バスは僕だけのために走るのだ。何とも贅沢。駅を出て走り出すと坂道が続く。道路は広くなく、除雪も完璧とは言えない。バスは時々スリップしながら後退し、勢いをつけてそれを乗り越えながら前へ前へと力強く進んだ。

だけど、ついにある地点で立ち往生。勾配がキツ過ぎたのだ。雪のない季節なら何でもない坂だけど、路面は凍結している。バスは何度か後退し、勢いをつけて坂道を越えようとした。なかなかうまく越えられない。坂道のピークの手前で必ずスリップし、どうしてもそこを越えられないのだ。頑張れ…!思わず心の中で激励する。

苛立つ運転手は助走のため、後退する距離をどんどん伸ばしていく。そして何度もトライする。しかし、坂道は意地悪く邪魔をする。道幅だってそう広くない。路肩から外れたら危険だ。何度かのトライの後、さすがに僕は覚悟を決めた。スコットランドを出発するのはどうせ明後日。余分な日が1日ある。仮にバスが立ち往生し、今晩この辺で泊まることになっても、明日インヴァネスに戻れば何とかなる。

死んだ爺さんの口癖ではないけど、こうなったら「嫁に行った晩だ」の心境。バスには運転手も彼の息子も車掌もいる。誰か携帯電話ぐらい持っているだろう。電話をすれば助けだって来るだろう。僕は最悪な状況を考えて気を紛らわした。そして何度目かのトライ。それが失敗した時、車掌と目が合った。 

「とにかく、ここは運転手にまかせようぜ…!」

暗黙のアイ・コンタクトを交わす。車掌もそれなりに覚悟を決めたようだ。たぶん15回目ぐらいだったと思う。バスがついに坂道を越えた。僕と車掌は大声で叫び手を叩いた。運転手も大声で叫んだ。彼の息子も甲高い雄叫びを挙げた。だけど油断は禁物。まだこの先、もっと手強い坂道が待っているかもしれない。バスはドンドン坂道を登っていく。時々不気味にスリップしながら、力強くグングン登っていく。

バスが順調に走り出した。僕は少し眠くなりうつらうつらした。そして無事に乗り換え駅に到着。すぐさま列車に乗り込んだ。途中で車掌と目が合う。僕は彼に小さく言った。

「ラッキーだったね…!」

車掌も同じ事を考えていたらしくニコッと微笑んだ。1等車の乗客は僕1人だけ。車掌がやって来た。あわててレイル・パスを取り出そうとしたけど、彼がOKという仕草をした。車掌が隣の車両に行ってしまう。僕はデイパックから、数時間前カイル・オブ・ロハルシュのリカー・ショップで買ったモルト・ウィスキー「タリスカー」を取り出し、キリッ!と封を開けてグビッ!とラッパ飲みで一口呷った。ちなみに僕が訪れたカイル・オブ・ロハルシュの対岸スカイ島には、タリスカーの蒸留所があった。

その数日後、僕はまたバスの振替輸送に遭遇する。これで通算5度目。今度は同じ英国でも、スコットランドから南下してイングランドでの出来事。僕はビートルズ誕生の地リヴァプールで2連泊した。高校時代からRockバンドをやっていたので、リヴァプールには他の人以上に強い思い入れがあった。

リヴァプール到着前、運よくガイドブック『地球の歩き方』に載っていた阿部サンという日本人ツアー・ガイドに連絡できた。たった1人だけの、しかも日本語の「マジカル・ミステリー・ツアー」が可能になったのだ。阿部サンにビートルズゆかりの場所をゆっくり案内してもらい大いに満足。そしていよいよ、大英帝国の首都ロンドンを目指す日となった。

リヴァプール・ライム・ストリート駅に行ってみると、日曜日早朝のせいか、構内にもプラットホームにも人影はあまりなかった。確認のため、列車発着表示板を見る。あれ、ロンドン行きが運休…?参ったな。とりあえず途中の駅まで行き、そこからロンドン行きに乗り換えるしか方法がない。スタッフォードというバーミンガムに近い街に行く列車がある。とりあえずそれに乗ってロンドンに向かうことにした。

1等車に席を取り、ボ〜ッと発車の時間を待つ。本当なら駅構内の売店でミネラル・ウォーターを買いたかったけど、日曜日のせいで売店は閉まっていた。やがて列車はノソノソと動き出す。列車はマンチェスター経由後、一気に南下してスタッフォードに向かう。

スタッフォードが近づくと車内アナウンスがあった。聞き漏らすまいと集中。アナウンスのヴォリュームは小さい。非英語国民である外国人の僕にとって、聞き取りができないということはある種死活問題になる。しかも社内アナウンスは、BBCのアナウンサーのような聞き取りやすい英語ではない。デビッド・ベッカムの英語みたい。聞き取れない、全く最悪な状況。

アナウンスが終わった。何か問題が起こったのか…?ちょっと心配。きっと列車を降りれば何か分かる。僕はお気楽に構えた。やがてスタッフォードに到着。乗り換え列車の時刻を調べる。しかし、よく分からない。たむろしているスキンヘッドの、一見フーリガン風な若者たちに恐る恐る聞いてみた。彼らもよく分からないと言う。駅舎の方で聞いてみたらと教えてくれた。見かけとは違い、結構優しいヤツらだ。

駅舎に切符売り場があった。早速聞いてみる。切符売り場は、ガラスの下の方に、客とお金や切符のやりとりをするための狭い空間が開いている。僕は狭い空間に向かって、切符売り場の女性に聞いてみた。

「ロンドンへ行きたいのですが、列車は何番ホームから出るのでしょうか…?」

彼女が答えようとした時、頭上から駅アナウンスがひどく割れたような大音声で響いた。そのため女性が何を言っているのか聞き取れなかった。彼女は駅の外の方を指さして、僕に大声で指示した。

「急いで行って〜!」

訳も分からず外に出てみた。すると何台かバスが停まっていた。もしかしたらそれに乗れということか。近くにいた鉄道員に聞いてみる。その通りだ。バスによる振替輸送に変わったのだ。急いでバス乗り場まで行く。たぶん僕が乗るべきバスだったのだろう、列車の乗客を乗せた2台目のバスが発車した。すでに1台目はその前を走って駅を出ている。まずったかな…!

乗り遅れたと思った。バス停で誘導している人が、その後にあるもう1台のバスに乗れと指示した。僕はバスのそばまで行き、大きなトランクルームにリュックを入れてバスの運転手に聞いた。

「ミネラル・ウォーターを買う時間はありますか…?」

「そんな時間はない。早く乗れ〜!」

乗り込むとバスはすぐに走り出した。乗客は僕1人だけ。駅でウロウロしていたため、本当なら走らないでもよかったバスまで繰り出されたというわけ。申し訳ないという気持ちと、この国の鉄道がなっていないのだから、俺の責任じゃないよと言う気持ちが交錯した。

バスはその前に出発した2台の後について行く。スコットランドでも、バスは僕1人だけのために走った。英国ではこれで2度目。何だか申し訳ない。することがないから、車窓に流れるイングランドの田園風景を楽しむ。冬なのに牧草地は緑豊かだ。牛たちはのんびりと草を食んでいる。家々はこぢんまりとつましくも清潔だ。まさに素晴らしい牧歌的な風景。

道路が2車線に広がった瞬間、僕が乗っていたバスは前を走る2台のバスを追い越した。つまり1番最後に乗った僕が、1番先頭に立ってしまったのだ。運転手は運転が巧みというか荒いというか、とにかくスピードを出す。さらにバスは、何台もノロノロと走る乗用車も追い抜いていった。うひょぉ〜!

バスはさらにガンガン飛ばし、後続バスとの距離をドンドン広げていく。むふふふ、いい気分だ…!やがてNuneatonという小さな街の駅に到着。バスから降りて、トランクルームからリュックを取りだす。運転手には丁寧にお礼を言う。彼はクールに笑った。その笑いの理由はたぶん、他の2台のバスの運転手に対するものかもしれない。この後仕事を終え、その2台のバスの運転所にパブで自慢げに話すのだろう。

「どうだ、お前ら見たか〜!1番最後に出た俺がトップだった。さぁ、2人とも俺にビールを1パイントずつ奢れ、だははは…!」

もしも僕がその場に居合わせたら、僕は何よりも一番最初に運転手にビールを1パイント奢るだろう。そしてニタニタ笑いながら、彼の自慢話に耳を傾けるだろう。バスの突然の振替輸送も悪いことばかりではないのだ。ふふふ。



# by 1950-2012 | 2019-03-07 17:36 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

旅の途中、いい気持ちで列車に揺られていたら、なぜか緊急停車。しばらく待っても、なかなか動かない。変だな…?と思っていると、突然「機関車が故障のため、ここからバスの振替輸送になります〜!」なんて車掌のアナウンスが時にあったりする。旅慣れていたり、過去にそんなバス振替輸送なんて経験していればいいけど、初めてそんな突発的な状況に遭遇したら、本当パニクって困っちゃう。

僕が今まで旅したのはほとんどヨーロッパだけど、過去にそんな突発的で危機的状態に陥ったことが何度かある。自慢じゃないけど、思い出せる限りでは8度も。今となっては笑って思い出せるけど、実際にそんな目に遭った時は、一瞬にしてドヨォ〜ンと落ち込んでしまったものだ。

初めて突然のバス振替輸送を経験したのは2000年春。南フランスでだった。世界遺産の城砦都市カルカッソンヌに1泊後、僕はローマ時代の円形闘技場が残るプロヴァンスのニームで列車を乗り換え、岩山の上に礼拝堂が建つ世界遺産のル・ピュイ・アン・ヴレイを目指していた。

ル・ピュイ・アン・ヴレイは、スペイン大西洋岸にあるキリスト教の聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへと続く「聖地巡礼」出発点のひとつ。ちなみに「サンティアゴ」とはスペイン語で「聖ヤコブ」のこと。フランス語では「サン・ジャック」と言う。2005年公開のフランス映画『サン・ジャックへの道』は、ル・ピュイ・アン・ヴレイから聖地に向かう若者の巡礼旅の話。

さて、ニームから乗った列車はマルセイユ発パリ行き急行。5分遅れて発車した。まぁ、フランスで5分遅れなら御の字と言える。有り難いことと思わなければならない。1時間ほど走って、列車は山の中の小さな駅で途中停車。普通ならすぐに発車するはずなのに、なぜか停車したまま動かなくなった。そのまま10分経過。停車時間があまりにも長過ぎる。

周りの乗客はザワザワし始めた。列車からホームに降りたり、機関車のある前方へ歩いていく者もいた。僕もホームへ降り、前方の機関車のある方へ行ってみた。機関車はディーゼルで、白い煙というか湯気を大量に噴き出していた。突然の故障らしい。しかたがない。座席に戻って、とにかくのんびり待つしかない。急ぐ旅ではない。車掌がやって来た。乗客に何か説明している。車掌は僕の席までやって来ると、英語で話しかけてくれた。

「どこまで行くのですか…?」

「ル・ピュイまでですが…!」

「この列車は故障したので、ここからは臨時バスに乗って、最寄りの駅まで移動してほしい…」

え…?目が点になった。まさに「トラベル」=「トラブル」。文句を言ったってしかたがない。とりあえず列車を降り、リュックを引きずりながら小さな田舎の駅前に移動。すでに乗客が列車から降りてきて、ワイワイガヤガヤと騒いでいた。やがて、バスが何台か駅前に入ってきた。みんなそれぞれバスに移動し始める。僕はどのバスに乗ればいいのか…?行き先はみんなバラバラだ。ちょっと分からなくなった。

何人かに英語で尋ねてみる。しかし、合点のいく返事をしてくれない。バスに乗り込もうとしている人たちも、実はよく分かっていないのかもしれない。車掌を探そうと思ったけど、辺りに全然見あたらない。しかたなくバスの運転手に聞いてみた。1台目の運転手は「違う!」と素っ気なく言って手を振った。続いて、2台目の運転手にも聞いてみた。

OK、ル・ピュイなら、このバスで途中駅まで行き、そこからTAXIだ…!」

運転手の言葉を信じ、リュックをサイドの大きなトランクにぶち込む。車内はかなり混んでいたけど、運よく空いている席を見つけた。まずは一安心。その後、運転手に言われた通り途中駅でTAXIに乗り換え、僕は無事に目的地ル・ピュイ・アン・ヴレイにたどり着けたってわけ。当然、途中のTAXI代はフランス国鉄が払ってくれた。

人生2度目のバス振替輸送も、同じくフランスで、今度は2001年夏だった。この時は友人の斉藤クンと一緒(仮名)で、パリからウィーンまで、レイル・パスを使って移動するという長旅だった。旅の前半、スイス国境に近い湖畔の街アヌシーへ日帰りをした。そして帰りにアヌシー駅で列車に乗ろうとしたら、発着表示板にお目当ての列車の表記がなかった。変だな…?と思って探していたら、突然のバス振替輸送に変わっていた。1年前に経験していたから、この時は落ち着いて行動することができた。

その数日後、またまた突然のバス振替輸送。3度目はオーストリアで。ウィーン連泊中の2日目、僕たちはドナウ下りに出かけた。ドナウ下りの船は、ウィーンから上流にあたるメルクから出る。僕たちは列車で朝早く出てメルクに向かった。乗船場に着いてみると、すでに数組の観光客が船を待っていた。乗船場から見上げると、世界遺産のメルク修道院が崖の上にそそり建っている。

ドナウ下りのハイライトはヴァッハウ渓谷。河畔には小さな美しい街が連なり、ぶどう畑が川縁から丘の上まで続いている。まさに絶景。決して青くはないけれど、ヨハン・シュトラウス2世作曲ウィンナ・ワルツ『美しく青きドナウ』の河畔風景に僕たちは魅了された。

船に揺られて、クレムスというローマ時代からの歴史ある小さな街で下船。折角だからとワイン博物館に立ち寄る。この辺りで穫れるワインの味はどうだろう…?試飲ぐらいできるのではと期待していたけど、僕たちが訪れた博物館には試飲する場所はなかった。全くの肩すかしである。

ウィーンに帰ろうと列車に乗る。クレムスを出て1駅か2駅過ぎた頃、列車が突然停止したまま動かなくなった。あれ…?と思っていると、車掌がやって来て、何やらドイツ語で説明している。Wow、突然のバス振替輸送だ…!すると乗客みんな素直にゾロゾロと列車を降り出した。しかたなく僕たちも、みんなの後について列車を降りる。すると、駅前の広場にバスが1台停車していた。

バスに乗り込むと、ちょうど学校の下校時間とぶつかっていたらしく、高校生のような若者でビッシリ満員だった。折角オーストリアまで来て、満員バスに揺られるなんてツイてない。ちょっと文句の出るところだ。でも、バスの中には可愛い現地の女子高生が数人いたので、それはそれなりに楽しくないとは思わなかった。

まぁ、オッサンなんてそんなものだ。バスはウィーン近郊の田園を、線路沿いに幾つかの駅に停車しながらのんびり走った。僕たちはウィーン連泊中だったから、その日はデイパック1個という身軽さだった。大きなリュックを引きずっての移動中だったら面倒だったと思う。前回のアヌシーも日帰りでデイパック1つで身軽だった。まぁ、考えてみれば、ツイていたと言えるかもしれない。



# by 1950-2012 | 2019-03-04 17:38 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

カメラ片手にヨーロッパの街を歩いている時、僕は気になるモノ・コトのほとんどを、ファインダーを覗いて写し取ってしまいたくなる。と言っても、フィルム・カメラで写していた頃は、帰国後に現像代とかプリント代にやたら金がかかるのでセーブするようにしていた。

2008年秋の旅立ち直前、僕はそれまで嫌がっていたデジカメを買うことに決めた。何たってフィルム・カメラでは、1回旅に出るとフィルムを30本以上使うし、帰国後の現像やらプリント代に数万円かかるのが辛かったからだ。デジカメならフィルム代も現像代もプリント代もナシ。金がかからない。ということで、旅立ち直前に買ったのがルミックスのDMC-LX3だった。

ルミックスを選んだのは、ただ単に「LEICA」のレンズがついているという理由から。それまで僕は贅沢にも、M2、M4、M5と、中古だけどLEICAを3機種持っていた。実は大きな声で言いたくないけど、20世紀末は銀座辺りを徘徊する中古カメラ・ファンの1人だったのだ。LEICAを持っているからと言って、木村伊兵衛氏のような写真が撮れる訳じゃない。ただ高級機を持っているというだけの自己満足。多くの人は、それを「宝の持ち腐れ」と言うかもしれない。

実はこの頃、LEICAの他にもレンジファインダー・カメラを数機種持っていた。例えばNIKONS2とS3。さらにLEITZ Minolta CLCONTAX a。まさにマニアだったのだ。デジカメ全盛の今から思うと、何とお金を無駄遣いしてしまったことか…!カメラは出番なく、家のカメラBOXの中で塩漬けになっている。デジカメを使いだしたら、フィルム・カメラに戻れなくなってしまった自分が情けない。

デジカメを手に入れる前、ヨーロッパの旅にはAFAEで使い勝手のいい一眼レフを持っていくことが多かった。例えばNIKON F4とかF100。夜間撮影用には、ポケットにスポッと入るISO1600という高感度フィルムを入れたコンパクトなミノルタTC-1。時には予備として、レンジファインダー・カメラをバッグに忍ばせることも。実際にアイルランドを旅した時には、一眼レフが突然故障してNIKON S3を使ったこともある。

そういえば2006年1月下旬。極寒のドイツを旅した時。僕はそれまで1度も旅に連れて行かなかったCONTAXaをバッグに入れたのだ。理由は旧東独のイエナに立ち寄ろうと考えていたから。イエナは「ツァイスのレンズ」で世界に知られる大学都市でもある。

カール・ツァイスが1846年、顕微鏡レンズの工房を開いたのが、イエナの光学都市としての始まり。1867年にはエールンスト・アッペも仲間に加わる。物理学者・天文学者であるアッペは、進歩的な社会思想の持ち主だった。工房を拡大して工場生産に乗り出す一方、多くの技術者を養成したのだった。

CONTAXaは僕が生まれた1950年代製。同世代ということで、何となく強い愛着を感じている。装着している50mmレンズには「Carl Zeiss Jena」という刻印がある。つまりイエナに行くってことは、カール・ツァイス・レンズの里帰り。僕はカール・ツァイス・レンズを装着したCONTAXaと一緒にイエナの街を歩きたかったのだ。端から見ればアホらしい話だけれど、当の本人は結構大マジだった。

僕のCONTAXaのボディには、なぜか理由は分からないけど「Zeiss」の文字部分だけ削られた形跡が残っている。それはカメラ上部と裏蓋の2カ所。上部は金属製だから、粘着性の強い樹脂か何かを塗りつけて文字を隠している。裏蓋は硬質のビニール製で、ナイフか何かで削られている。「Zeiss」 の下の「Ikon」はどちらも元のまま。不思議だ。なぜだろう…?

CONTAXaを買ったのは、銀座の有名な中古カメラ・ショップだった。誰が一体、どんな理由で文字を削ったのか…?普通のクラシックカメラ・マニアが、そんなことをするとは到底思えない。とすると、元々持っていた人間が、何かZeissとの間に問題があり、逆恨みで文字を2カ所削ったのか…?ってことは、ドイツ人か…?

カメラ・ボディには「Stuttgart」の文字もある。つまりボディは南ドイツのシュトゥットガルト製で、レンズは旧東独のイエナ製。僕はボディとレンズを、時期と店をずらし、別々に銀座の中古カメラショップで買い求めた。だから両方手に入れ装着した時、初めてこのカメラが無事に「東西統一」できたと勝手に思って満足していた。

レンジファインダー・カメラはマニュアル。不慣れな僕は、露光計をポケットに入れて歩かねばならない。写したいモノを見つけては、面倒だけど露出とシャッター・スピードを計算してシャッターを押す。AF・AEのカメラを使い慣れているせいか、露出計算にはちょっと手間がかかってしまう。グズグズしていると、シャッター・チャンスを逃してしまうのが辛かった。

イエナの光学博物館へ通じる道は「エルンスト・アッペ通り」と呼ばれている。この街には他にも、カール・ツァイスや有名人たちに因んだ通りや地名が多い。例えばルター・シュトラーセ、シラー・シュトラーセ、カール・ツァイス・シュトラーセ、バッハ・シュトラーセ、ヴァグナー・ガッセ、ゲーテ・ギャラリーなどなど。

お目当ての光学博物館はカール・ツァイス・プラッツにあった。博物館の前が道路を挟んで、天才物理学者だったエルンスト・アッペの廟。気を引き締めて光学博物館に入る。館内は写真やビデオ撮影など一切禁止。だけど、カメラは首からぶら下げたままでもいいと係の若者に言われる。助かった。もしかしたら、僕の「カール・ツァイス・レンズの里帰り」という遊び心を分かってくれたのかもしれない。

1階の展示コーナーからゆっくり見ていった。最初は眼鏡レンズなどのコーナー。続けて顕微鏡のコーナー。本命のカメラのコーナーはその先だった。僕は何としても「ほら、君の兄弟や親戚がここにいるぞ…!」と、愛機CONTAXaとカール・ツァイス・レンズに言ってあげたかったのだ。まるで親馬鹿みたい。

さて、話をデジカメに戻そう。2008年の旅は、パリからスタートしてボルドー、モンペリエ、ニースへ。続いてイタリアに入り、パルマ、フィレンツェ、ヴェネツィア、ヴェローナへ。そしてスイスのルガーノ、ラインフェルデンを巡って、再びアルザス地方からフランスに入り、出発地パリに戻るという鉄道旅だった。

3週間近くの長旅となると、写す写真の量も並大抵ではない。ただでさえ、帰国後の後処理に金がかかるからと、それまで写真をセーブしていた僕だ。デジカメにした途端、締めつけていた「たが」がユルユル外れてしまう。デジカメはその場で写りをチェックできる。失敗が少ないというのも嬉しい。当然、僕は気合いを目一杯入れて「シャカ!シャカ!シャカ!」と、ダボハゼのように何でも食らいつき意気揚々とシャッターを押しまくった。

旅から帰り、気合いを入れてMacの前に座る。さぁ、写真を整理するぞ〜!と思って1枚1枚チェックしてMac.にインストール。あぁ〜ら、大変…!撮っている時には気づかなかったけれど、実は大変な枚数だったことに気づく。当然だろう。仮に少なく見積もって1日50枚撮ったとして、全行程3週間は[21X50枚]=単純計算しても計1,050枚。いや、そんな枚数で済むはずもない。膨大な量に呆然とする。

そういえばスマホとかデジカメで写真を撮る時、多くの人はファインダーを覗いたりしないようだ。だけど僕はファインダーを覗かないと、何だか写真を撮った気になれない性分。それで現在3台のデジカメを持っているけど、それぞれにわざわざ専用のファインダーを取り付けている。

例えば3台の内、最後に手に入れたリコーGXR。このカメラはLEICAMマウントレンズが使用できるので即購入した。LEICA M4とM5を持っていても、最近は出動の機会もなく、ずうっとカメラBOXに入れたままだ。これでは勿体ない。できることならレンズだけでも使いたい。そう思ってリコーGXRを買ったのだ。

LEICAのレンズは、主にELMARIT-M f2.8 28mmを使用。専用のマウントにレンズを装着。そしてカメラをマニュアル・モードにし、絞りやシャッター・スピードなど思ったままに設定。考えながら1枚1枚慎重に写す。面倒だけど、これが愉しい。ただし、オート・フォーカスではないからピント合わせは自己責任。実はこれが落とし穴。とほほ、加齢とともに視力が衰えているからフォーカスが合いにくい。

カメラと連動する専用の液晶ビュー・ファインダーは、そんな視力の衰えた僕にとって救いの神となる。だからと言って、簡単にフォーカスが合わせやすくなるって訳ではない。哀しいかな、視力の衰えた目では、ピント合わせはやっぱり時間がかかる。そして撮影後にMac.の大きな画面で見て、あまりのピン甘に落胆することも時々ある。それでもマニュアルで写真を撮るのは、僕のささやかな喜びとなっている。



# by 1950-2012 | 2019-03-01 18:24 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

1992年の年末から1993年の年始にかけ、僕は友人の土岐クン(仮名)と一緒に旅を続け、南ドイツのプフォルツハイムに住む友人のアパートに泊めてもらった。年が明け1月2日、僕たちはフランスに向けて旅立つ。吐息まで真っ白に凍結してしまいそうな寒気の中、友人は駅まで僕たちを見送りにきてくれた。

次に向かうのはアルザス地方の中心都市ストラスブール。アルザスはドイツとフランスの文化がほどよく融合している地域。日本人にはあまり知られてないけど、フランス北部アルザス地方やロレーヌ地方は、過去にドイツとの間で悲惨な国境問題が起こった地域。

アルザスは以前ドイツ語圏で、そこに住む人々のほとんどがドイツ語方言のアルザス語を母語としていたという。彼らはフランス人と言っても、フランス語を書くことも話すこともできなかったのだそうだ。ドーデの小説『最後の授業』を読むと、その件に関してよく分かると思う。興味ある方は[Wikipedia]などで検索してください。

僕たちが乗った列車は、やがて国際河川ラインの鉄橋に差しかかった。よほど外気温が下がっていたのだろう、川面から湯気のような蒸気が立ち上っていた。鉄橋を渡り切ると列車は突然停止。何かあったのか…?多くの人が辺りをキョロキョロと見回す。僕だってまだ旅慣れていなかったから似たようなもの。

前に座っている人が「パスポート・チェックだ」と親切に教えてくれた。この時、僕たちはフランスのパリから旅立ち、ベルギー、ルクセンブルク、さらにドイツへと何度も国境を越えていた。内陸に国境線のない島国の民は、国境越えの度に緊張してしまう。緊張と同時に、通貨を両替しなければならないのかとウンザリもする。1993年当時はまだ、EU圏内の共通通貨ユーロ€が導入されていなかったから面倒だったのだ。

車両に厳めしい制服を着た国境検察官が入ってきた。別に何も悪いことをしているわけじゃないけど、僕は制服を着た人間を見ると妙にドキドキする。検察官は無表情に本人の顔とパスポートの写真を照合していく。腰に付けた革製のホルスターにはピストルが入っている。当然、事件が起こればピストルは発砲されるだろう。こわ…!

パスポート・チェックを終えて列車が動き出した。ホッと一安心。やがて列車はストラスブール中央駅に停車。列車を降りてまずすべきこと、それは今夜の寝床探し。ガイドブックの地図を見て街の中心部を目指し、途中によさげなホテルがあったら、空室があるかシラミつぶしに聞いていこうと考えた。

駅を出て太い通りを歩き出す。右手の建物の中に「HOTEL」の看板を発見。早速空室があるか聞いてみる。Bingo〜!さほど安くないけど、部屋は広く居心地も悪くない。2人で部屋をチェックしてから即決。これでまず寝床は確保。真冬の旅では暖かく快適な部屋と安眠できる清潔な寝床が必須。これは命に関わる最重要問題なのだ。

荷物を整理しホテルを出る。まずは旧市街をグルッと取り囲む運河沿いの道を反時計方向に歩き始める。やがてこの街の見所のひとつ、ドイツ風の家々が建ち並ぶ一角「プティット・フランス」が左手に見えてきた。家の造りは今までドイツで見てきた、太い梁と真っ白な漆喰壁のコントラストが鮮やかな木骨作り。アルザス地方がドイツとフランスの文化をほどよく融合した地域だということがよく分る。

運河沿いに歩いていると、ノートルダム大聖堂の尖塔が見え隠れする。大聖堂はこの街一番の見所だ。早速、大聖堂の尖塔を目印に、運河沿いの道から街の中心部を目指す。大聖堂が近づくと人の姿も多くなっていく。大聖堂前の広場に辿り着いた。まさに人・人・人。

ノートルダム大聖堂は、近隣のヴォージュ山地から切り出した赤色砂岩で造られている。1176年から250年の長い年月をかけて建造された。正面のファサードは、レースのように繊細な彫刻でビッシリと覆われている。ドイツの文豪ゲーテは、大聖堂を見て「荘厳な神の木」と絶賛した。

毎日1230になると、大聖堂内の大時計前に人々が集まる。それはキリストと使徒たちの人形が現れる仕掛け時計を見るため。残念ながら、僕たちが大聖堂内に入ったのは1時過ぎ。大時計の仕掛けは見られなかった。振り返ると、1314世紀当時の輝きを見せるステンドグラスが目に入った。真冬の乏しい日差しでも、その輝きは失せることなく鮮やかで神聖だ。

さて夕食の時間。本来、洋食があまり得意でない僕としては、そろそろ和食が欲しいところだった。だけど和食店など、その頃のストラスブールには何軒もありはしない。しかたがないからと言って、中華料理というのも何だか哀しい。空腹を感じつつ、旧市街をほっつき歩く。そして行き着いた店はイタリアンだった。

路地奥にあるこぢんまりとした店、その名も「ピノキオ」。イタリアンを選んだ理由は、店のMENUがイタリア語だから。日本のイタリアン・レストランのメニューは、ほとんどがカタカナだけど、中にはローマ字の表記もある。僕はそれを憶えていた。だからストラスブールのイタリアン・レストランでもメニューが読め、スパゲティとかミネストローネとか野菜サラダなど、注文も比較的簡単にできたのだ。

夕食が無事に終わった。何だか飲み足りなかった。僕たちは1軒のバーに入る。しばらくすると、カウンターで隣合せた男が話しかけてきた。僕たちは適度に話を合わせた。その内、男は僕たちに1杯ずつおごると言い出した。金に困っていたわけじゃないけど、折角の好意を無にするのも何だかと思いごちそうになった。3人で乾杯。そのままでは失礼と思い、僕たちも彼に1杯ごちそうした。それから盛り上がってしばし歓談。

男が知っている店があるから、自分のクルマで行こうと言い出した。僕たちはちょっとためらった。当然だろう。全く知らない街で、しかも寒波が襲来なんて最悪な季節に、初めて出会ったヤツのクルマで見知らぬ街を走るのだ。どこにどう連れて行かれるか分ったものじゃない。酔っていたけど僕は冷静だった。

「明日は朝早い列車に乗らなければならない。せっかくの申し出だけど、僕たちはこれからホテルに戻って、明日の準備をしなければならないんだ…」

そんなことを言って、とりあえずその場を去った。もしかしたら、彼は悪いヤツじゃなかったかもしれない。ひょっとしたら、最高に盛り上がったストラスブールの一夜を、僕たち経験できたかもしれなかった。と言いつつも、旅先ではいいことばかり起こるわけじゃない。時にはその真逆もあるから怖い。他人を意味なく信用するのは愚の骨頂。時には異常に敏感に臆病に、危険予知するのも旅の知恵なのだ。

そして、ストラスブールから10年後。2002年5月12日、僕の誕生日だった。今度はドイツのハーメルンで似たようなことに出会った。その時はひとり旅。ローテンブルク2連泊後、僕は北上してメルヘン街道の主要都市ハーメルンへ向かった。この街は童話『ハーメルンの笛吹き男』で世界中に知られる。

笛吹き男、ドイツでは「ネズミ捕り男」という。有名な童話だけど、実際にあった話だという。東部ヨーロッパへの移住が起こり始めた激動の中世、1284626日。130人の子供たちが忽然とこの街から姿を消した。その理由は、子供の十字軍、東部移住説、舞踏病、疾病による死亡、あるいは野獣に食い殺されたとか、溺死などなど諸説あるらしい。

夕食後、昼間見つけた雰囲気のいいアイリッシュ・パブに向かった。パブの外観の装飾が美しいので写真を撮っていると、1人の男が突然現れドアの前に立った。男はジェスチャーで「俺を写せ!」と言った。しかたなく1枚撮ってやる。満足したのか、男はパブの中に入っていった。僕は元々そのパブに入るつもりだったので、男が入った後に続いた。

男の名前はアレキサンダー。僕より若い。アレキサンダーと握手して、僕は自分の名前を言い、この街の美しさを褒め称えた。さらに、ちょうどこの日が誕生日だと彼に伝えた。すると、アレキサンダーはスパークリング・ワインをバーテンに注文。僕の誕生日を祝ってくれるといった。いいヤツだ。

店内にいる他の2人の客とバーテンと全員で乾杯し、みんなで僕の52回目の誕生日を祝福してくれた。こんなサプライズはない。嬉しかったアレキサンダーはギネスを1杯飲んだ後、別の店に飲みに行こうと僕を誘う。僕はちょっと疲れていた。

「ごめん、明日は朝早くホテルを出るので遠慮するよ…」

といっても、それは半分口実。初対面のヤツと全く初めての街で、知らない店へ行くのが面倒だと直感したのだ。いくら誕生日を祝ってくれたヤツでもだ。もしかしたらアレキサンダーは、現代の「笛吹き男」かもしれない。僕は気づかぬうちに川まで導かれ、溺れ死にさせられるかもしれない。その前に財布を盗まれるかもしれない。

日本から写真と、何かお礼の品を送ると言って、アレキサンダーに住所を教えてもらう。帰国後、彼に写真と、和太鼓と津軽三味線のCD2枚を送った。アレキサンダーはラストネームを「エンゲルハート」とメモに書いた。エンゲル、天使の心か。CDを送ってから数週間後、郵便物は宛先不明で戻ってきた。なるほど、そういうことか…!



# by 1950-2012 | 2019-02-26 00:08 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

2004年春、僕はスウェーデンの首都ストックホルムから急行で約1時間の距離にある大学町ウプサラにいた。連泊2日目。もっと北へ行ってみたい…!内陸で列車の連絡の良さそうな所はどこだろう…?ガイドブック『地球の歩き方』とトーマス・クックの『時刻表』を交互に見ながら検討。ハッキリ言ってこの時間が、僕にとっては「至高の時」と言ってもいい。

しばらくページを繰っていると手頃な街が見つかった。ダーラナ地方のレクサンドだ。ウプサラからは列車で2時間とちょっと。距離的にそんなに遠くない。レイル・パスを持っているからもっと遠くまで行ってもいいけど、列車に乗っている時間があまり長くなり過ぎるのは避けたかった。往きはいいけど、帰りが長過ぎるのは結構辛いのだ。レクサンドはちょうど手頃な距離にあった。

レクサンドLeksandsはスウェーデン語で「レイク・サイド」という意味があるらしい。まさに湖に面した小さな街。街のあるダーラナ地方は、スウェーデン人に言わせると「最もスウェーデンらしい」と言われるそうだ。夏至祭で有名な観光地だと、ガイドブックに紹介されている。

なるほど、スウェーデン人にとっては「心の故郷」のような土地なのか…!これは行ってみなけりゃならないな。レクサンドのあるシリアン湖周辺の村々には、今も民族的な伝統が残っているという。ガイドブックによると、100年ほど前のスウェーデンがまだ貧しい農業国だった頃を偲ぶことができるらしい。

レクサンドの見所は、ガイドブックにもその姿が紹介されている白樺に囲まれた美しい湖畔の教会。お〜ぉ、素晴らしい…!教会のそばには、ダーラナ地方最古の野外博物館もあるらしい。よし、行ってみよ〜!さて、レクサンドの地図はガイドブックに載ってない。地図がないのがちょっと不安だけど、今までいつも何とかしてきた。きっと今回も大丈夫だろう。こういう時、全くお気楽B型性格は決断が早い。

ウプサラからローカル列車に乗って2時間とちょっと。無事にレクサンド駅に到着したけど、駅は何と閑散とした無人駅だった。だからといって何の不便もない。帰りの列車の時刻を知りたいと思い、時刻表を探したけど駅のどこにもそんなものはなかった。

もしも列車を乗り過ごすと、無人駅でどの位待たされるか分からない。それが不安だった。でも、無いものは無い。しかたなく、トーマス・クックの『時刻表』で帰りの時刻をチェックする。お気楽B型性格とはいえ、シッカリするべき所は結構シッカリしているのだ。

駅前に街の地図があった。例の湖畔の教会への道順はかなり簡単だ。駅から真っ直ぐ行って、メイン・ストリートにぶち当たったら左に行き、さらに次の道を右に曲がるだけでOK。駅から500mちょっと行った所に、ツーリスト・インフォメイションのオフィスもある。まずはこの街の地図手に入れる。念のため、ツーリスト・インフォメイションまでの道順を紙にざっと書き写す。

天気は上々。サングラスをかけなければ目を開けてられないほど眩しい。火曜日とはいえ、小さな街なのにたくさんの人が溢れていた。街角のアイスクリーム店の前には長い列ができている。なぜか知らないけど、僕にはヨーロッパ人はいつも何か食べているように見えてしまう。

お目当てのツーリスト・インフォメイションはすぐに見つかった。早速街の地図を手に入れ、湖畔の教会を目指す。教会はツーリスト・インフォメイションから続く白樺の並木道を通ってすぐの場所にある。しばらく行くと並木道が続く。右手に広い窪地の広場があった。たぶんメイ・デーに飾ったと思われるメイ・ポールが1本、ポツンと広場の真ん中につっ立っていた。眩しくて目がくらみそうな、青い空と白い雲と緑の広場の鮮やかな自然のコントラスト。何とも清々しく心地いい。

教会の手前に野外博物館があった。いくつかのスウェーデン風古民家が小さな集落のように集められている。近くの広場では中学生らしき一団が集まって、何やらミーティングのようなことをやっている。野外博物館の中に入った。無料だ。たぶんボランティアなのだろう、2人の女性がのんびり掃除をしている。何とも、時間がゆったり流れているという感じだった。

いよいよ湖畔の教会。北欧では珍しい、黒いタマネギ型のドームが特徴的だ。日射しの強い屋外から、バロック様式の教会の中に入った。肌が急にひんやりとし、滲んでいた汗がスゥーッと引いていく。教会の中はひっそりとしている。しばらくすると目が仄暗さに慣れてきた。

入口に教会の来歴などを数カ国語で書いたパンフレットがあった。指定された金額を払い、英語で書かれた1部を手に入れる。さらっと読んでみた。教会の最古の部分は13世紀に建造されたらしい。すごい13世紀か、結構古いんだ…!何だか居心地がいいので、しばらくベンチに座って寛ぐことにした。

教会の前には美しいシリアン湖が広がっている。教会横手は広い墓地になっている。ある家族がちょうどお墓参りにやって来ていた。穏やかな時間が流れている。木々はたくさん生い茂り、湖から吹いてくる柔らかく涼やかな風に葉をそよいがせている。頬に風を感じながら歩いていると、気分はとても爽快。

野外博物館まで戻ると、近くに緑の広場でペタングのような遊びを数人の男女が楽しそうにやっていた。広場の先に、湖へ降りていく細い道を見つける。湖畔の遊歩道をゆっくり歩くと、犬を連れた老夫婦とすれ違った。湖畔には所々にベンチがある。ベンチで横に座って本を読む女性が1人。静かな空気に包まれ、読書するのも気持ちよさそうだ。北欧人はこうやって、お金をかけずに穏やかな時間を過ごしている。

遊歩道の先に大きな橋が見えた。橋の先に船のレストランが2隻係留されている。休日にはたくさんの客を乗せて湖をクルージングし、美味しい魚料理などを食べさせてくれるのだろう。1隻の船名は、昔の国王「グスタフ・ヴァーサ」だった。

グスタフ・ヴァーサ=グスタフ1世。1509年から1514年にウプサラ大学に学び、1518年から翌年にかけてスウェーデン独立派の貴族としてデンマーク軍と戦って捕らえられる。1520年、ストックホルムでデンマーク王クリスチャン2世によるストックホルムの血浴が起こると、脱出してダーラナに帰り1521年にこの地方の農民を率いて反乱を起こし成功。スウェーデンの摂政となることを宣言し、1523年スウェーデン国会によって国王に選出された。

腕時計を見る。列車がやってくる時刻が近づいていた。そろそろ駅へ戻ろうと考える。と言っても手持ちの時刻表で調べただけだから、突然の変更などがあって予定通りに来るかどうかも分からない。とりあえず間に合うよう駅へ向かって歩き出す。戻る途中に、赤い壁の木造の家並みが数軒あった。ちょっと道草して写真を何枚か撮る。

スウェーデンでは木々の緑に映える赤い壁の家をたくさん見かける。そしてこの辺りダーラナ地方のお土産としても人気があるのは、伝統民芸品「ダーラヘスト」という木彫りの赤い馬。木造の家と木彫りの馬に共通する、この特徴的な赤い色は「ファールン・レッド」と呼ばれる。

ファールン・レッドは世界遺産にも登録されている、近くの「ファールン鉱山」から採掘された顔料のこと。元々はレンガ造りの家を真似て、木造の家を富の象徴に見せるため使われ始めたという。顔料は酸化鉄などから作られ、防腐効果があり耐久性が上がるためスウェーデン各地に広がっていったそうだ。

ファールンで産出された鉄や銅から抽出された副産品は、現在でも顔料として利用されており、ファールー・レッド(en:Falu red)と呼ばれる顔料は、国内的にもよく知られており、木造建築の塗装に用いられている文化的にも重要なものである。地名でもあるファールンは、今日では、ダーラナ大学がある都市として知られている。

そうだ、思い出した。2000年1月早々、僕は北欧アイスランドとノルウェーを旅したことがある。何もかもが凍り付く極寒の季節に、北欧を旅しようなんて全く「偏屈」と言うかただの「物好き」としか言いようがない。善良な人々はきっとワイハ〜(Hawaii)など暖かい場所でヌクヌクしているのだろう。

首都オスロからスカンディナヴィア山脈を越え、半島西岸のベルゲンを目指して列車に乗った。オスロ市外を抜けると、車窓に映るのはただただ真っ白な雪景色。アクセントとしては濃い緑色の針葉樹林と、真っ赤に自己主張する可愛らしい木造の家だけだった。その家こそスウェーデンではなかったけれど、もしかしたら「ファールン・レッド」の家だったかもしれない。

さて、話を戻す。僕は余裕を持ってレクサンド駅に戻った。プラットフォームにはすでに数人の乗客が列車を待っていた。やれやれと思ってプラットフォームに一歩足を踏み入れたまさにその瞬間、左手の方からちょうど列車が入ってきた。時間を計算して行動したわけではないけど、結果としてピッタリ間に合ったのだ。何かちょっと得をした気分。ふふふ、しあわせ…!



# by 1950-2012 | 2019-02-22 20:01 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

2010年6月中旬。ベルリン近郊ポツダム再訪。最初にポツダムを訪れたのは1997年春。その時は、一緒に旅していた日本人の旅トモ・斉藤クン(仮名)と、ベルリン在住の友人アンゲラ(仮名)と彼女のルームメイト・ヨアヒム(仮名)が一緒だった。最訪の2010年はひとり旅。僕はICインターシティに乗ってマルティン・ルターゆかりの街ルターシュタット・ヴィッテンベルクから、首都ベルリン中央駅に向かった。

ベルリンは乗り換えだけ。本当の目的地はポツダム。ホテルは2連泊の予約済み。それ以降の7日間、ホテルの予約はなし。次にホテルが予約してあるのは、国境を越えてフランスのメッス。しばらくの間、僕は本来の「風来坊」に戻る。

ベルリン中央駅から、ポツダム行きREレギオン・エクスプレスに乗った。発車までの間にキオスクでウィスキーを買う。ミネラル・ウォーターも買いたかったけど、デイパックがズッシリ重くなるのでやめた。

ポツダム駅に到着。駅はショッピング・センターになっていた。駅前の風景も以前来た時と全く違う。あれから13年も経っていた。以前はショッピング・センターなんてなかったと記憶している。とりあえずプラットフォームの階段を上がって駅の出口を探す。周りはファストフードやいろんな店が並んでいる。

駅を出て、地図を見ながら歩き始めた。ほどなくハーフェルト川の橋の上に到達。右手を見ると、川縁に船が1隻係留されている。遠目でハッキリ見えないけど、何だか船体に「THEATERSCHIFF」と書いてある。あぁ、なるほど「劇場船」か面白い…!劇場船はライン河などでよく見かける、荷物運搬用の縦長の川船に似ていた。川船が劇場だなんて愉しすぎる。いいね…!

しばらく行くと、人通りの多いブランデンブルク通りに出た。さてと、ホテルはどっちかな…?地図を広げる。ブランデンブルク通りに平行するグーテンベルク通りをちょっと行って、何本目かの道を右に曲がった所だ。ちょっと行くと妙な和食店を発見。寿司バー「Happy Sumo」とは…?いくら何でも安易でひどいネーミングだ。

予約したホテルは「Walhalla」で、2泊シングル朝食抜き€110。1泊€55だから予算以内。周囲を探すけど、ホテルらしい看板が見当たらない。看板はないけど「Walhalla」というバー&レストランはあった。たぶん、ここだろう。中に入って聞くと、レセプションは奥だと言う。奥へ続く階段を数段上がってドアを開けた。ガラス張りのオフィスらしき部屋の中に男が1人。書類に夢中で下を向いていた。僕にまだ気づいてない。

「すいません。予約をしてあるSEKIと言いますが…?」

男はやっと気づいた。予約帳を引っ張り出して調べ始める。

「あぁ、はい。201号室ですね…!」

鍵をもらって階段を3階まで上がった。201号室は中庭に面した部屋。ドアを開ける。風が吹き抜けないせいか空気が淀んでいた。当然だけどエアコンなんてない。部屋は広く、かなりの余裕がある。ゆったり目のダブルベッドも心地よさそうだ。アンティ−ク調のクローゼットはでかくて使いやすそう。これで1泊€55なら嬉しい。

落ち着いたところで、デイパックにカメラを突っ込んでホテルを出た。メイン・ストリートのブランデンブルク通りは大混雑。陽射しは強烈で、天空から遠慮なくズケズケジリジリと降り注いでいた。痛っ!暑っ!て感じ。ウロウロ歩いてブランデンブルク門に行き着く。ブランデンブルク門はベルリンだけではないのだ。門の先は、サンスーシ宮殿のある公園になっている。

サンスーシ公園はかなり広い。初めて来た時は、友人たちとおしゃべりしながら歩いたけど、今回は1人で広大な公園を歩くことになる。ブランデンブルク門近くの入り口からサンスーシ宮殿まででもタップリ1km近くある。さらに奥の新宮殿まではそこから3km。つまり行って帰ってくるだけで合計8km。さらに僕はまた街の中をウロつくから、この日1日で歩く距離は計り知れない。

気合いを入れて歩き出す。まずは真っ直ぐ続く並木の連なる一本道。並木道の行き止まりを右に曲がると、視界が開け噴水が見えた。噴水の奥には階段状のブドウ棚が左右対称に広がる。さらにその奥には、高貴な黄色い装いの建物ロココ様式のサンスーシ宮殿が鎮座している。まさに「SANS, SOUCI…!」=「憂いがない…!」ということ。思わず見惚れてしまう。

サンスーシ宮殿を建てたのは、彼のプロイセン王であるフリードリヒ大王。夏の居城として自ら設計に加わり、1745年から建造が始まり1947年に完成。35歳から74歳で亡くなるまで、大王は人生のほとんどをこの宮殿で暮らしたという。

ゆっくり宮殿に近づく。ブドウ棚の階段には、疲れてへたり込んで座っている女性たちが何人もいる。歩き疲れたのだろう。でもこの辺りはまだ公園のとば口。この先、公園はまだまだ広大に広がっている。

宮殿正面に「SANS, SOUCI.」の文字が見えた。以前来た時もシッカリ見ていたけど、改めて見るサンスーシ宮殿の端正な姿に深い感動を覚える。ブドウ棚を上がった宮殿右側には、大王と王の愛した犬たちが眠る墓がある。宮殿内部には主たる12の部屋があり、それらの部屋はガイド・ツアーでのみ見学が可能。でも、€8もかかる。

宮殿裏手に回ると、半円形のローマ時代風な美しい回廊がある。サンスーシ宮殿裏手から新宮殿に向かう。途中には、2つの壮麗な館がある。並木道のはるか向こう中央に新宮殿が見えた。だけど、まだかなりの距離。全くいくら歩いてもキリがない。既に僕の足腰には軽い「憂い」が滲み出ていた。

堂々とした威容を誇る新宮殿。フリードリヒ大王が176369年に建てたバロック様式の建築だ。部屋数は200室以上ある。さぁ、ここからが戻り。来た時とは別の道を通って、ブランデンブルク門の方に向かって歩き出す。途中に広い原っぱや木立があり、所々に円形の休息所があったりする。風が心地いい。

再びブランデンブルク通りに出た。道はサンスーシ宮殿を目指す観光客で溢れ、サッサッサと気分よく通り抜けできない。人ごみの苦手な僕は少々苛立ち始めていた。トラムの走るフリードリヒ・エバート通りまで出ると、街の様相は途端に一変。人通りも少なくてホッとできる。

道の向こう、真正面に尖った鉛筆のような教会が見えた。地図には「Church of St. Peter and Paul」と出ている。ピーター、ポールとくれば、僕たち世代は「アンド・マリー」と続けてしまう。若い世代は、たぶん「ピーター・ポール&マリー」なんて知らないだろうね。1960年代に活躍したアメリカのフォーク・ソングのトリオ、略してPPM。ヒット曲としては『悲惨な戦争』『花はどこへ行った』『パフ』『500マイル』『天使のハンマー』『悲しみのジェット・プレーン』などがある。

折角だから、聖ピーター&ポール教会に入ってみた。入り口から主祭壇に向かって、通路の床には真っ直ぐ花々が敷き詰められている。主祭壇天井はドーム形。淡青色と金色をふんだんに使い、主イエスと聖母マリア、さらに多くの聖人と天使で装飾されている。椅子にちょっと腰掛け教会内をユックリ見回す。素晴らしい。パイプオルガンは仰々しくなく楚々とした感じ。外光が柔らかに注ぐ静寂の中で、聖母子像の前には沢山のロウソクが灯されていた。

地図を見ると、教会の先には「オランダ人街」があった。ドイツでオランダ人街…?この数日後、僕はオランダを訪れる予定。その前に、オランダ人街に遭遇するとは何とも因縁めいている。ガイドブックによると、オランダ人街は18世紀に祖国を追われたユグノー(プロテスタント)のオランダ人たちが住みついた街だという。

面白い。ということで行ってみた。そろそろビールを飲みたい時間。オランダ人街で軽く1杯といこうかと考える。右を見ても左を見ても、赤レンガの同じ形の家がズラーッと並んでいる。少しウロついて、よさげなテラス席のあるカフェを見つけた。椅子に腰を落ち着けると、途端にふくらはぎを中心として、脚全体にジワジワ・ジワ〜ッと血流が流れ始めるのを感じる。思ったよりも歩き疲れているのだ。

やがてグラス表面に水滴をしたたらせたビールがテーブルに届く。グラスに提督の絵が描かれた、ポツダムの地ビール「REX PILS」だ。グビッと気持ちよく、まずは軽く一口喉に流し込む。汗がササァ〜ッと引いていく。赤レンガの屋根の上に広がる青空が、ニコッと僕に微笑む。至高の時が訪れる。

ホテルへ戻る。今日はよく歩いて汗も充分かいた。まずはシャワーだ。ということでシャワーを浴びてTシャツに着替えると、気分も爽やか。生き返った感じがする。階下のバーでビールを軽く1杯と思った。階段を下りると、バーの奥の中庭にはライブ・スペースがあった。すでにギター・アンプやドラムがセットされている。きっと今夜はライブ演奏がありそうだ。これは楽しみ。

ビールを飲んだら部屋に戻って遅い昼寝。目覚めると、そろそろ夕飯の時間。ポケットにコンパクトなデジカメを入れてホテルを出た。イロイロ考えたあげく、夕食に選択したのはイタリアン。表のテラス席は避けて店内に入る。注文は白ワインとペンネ・アラビアータ。すると店の女の子が「えっ、たったそれだけ…?」という表情をした。僕は胃袋をさすりながら、八の字眉毛をして「実は、調子が悪いんだ…」と呟いた。一応ラジオCMの演出家でもあるから、決して上手くはないけど多少は演技もしたりする。

食後、腹ごなしに写真を撮りながら少し歩いた。昼間とは打って変わって風も涼しく気持ちいい。ダラダラ散歩して部屋に戻る。バス・ルームに入って面白いモノを発見。トイレット・ペーパーのホルダーが、何だか「カエル」に見えたのだ。スチールとプラスティックの簡素なホルダーだけど、何とも表情が豊か。僕はどうでもいいことに気がつく性格のようだ。

部屋でしばらくを時間をつぶしていると、何だか階下が騒々しさを増していった。ライブ演奏が始まったのだ。昼間見た、SONNERのバス・ドラムが、小気味よいリズムをズンズンドンドン刻んでいる。高校時代ドラムを叩いていた、僕の「ROCK小僧」の血がにわかに沸騰し始める。思わず階下を目指す。バーでビールを手に入れ、ライブを聞きながら飲む。1曲終わる毎に指笛で喝采する。1人だけ盛り上がっている怪しい東洋人。それが僕だった。うんうん、それでイイのだ〜♪



# by 1950-2012 | 2019-02-19 19:55 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

2003年春。南ドイツの大学町フライブルク連泊中、僕はボーデン湖畔の飛行船で知られるフリードリヒスハーフェンと、スイス北部ライン河畔のシャフハウゼンに日帰りした。その帰りみちのこと。ドイツ国境側のバーゼルBad Bf駅に着いた時、僕はフライブルク行き列車に乗り換えるのを突然やめた。なぜか…?ちょっとバーゼルという街を散歩してみようと思ったからだ。

急いでフライブルクに帰っても特別することはない。それなら初めての街を歩いてみたい。好奇心ウキウキ&冒険心ドキドキ。それが本来の僕の旅。国境のバーゼルBad Bf駅に係官がいたけど、パスポートは調べられなかった。別に僕は怪しい不法入国者でないから、それで当然だ。

駅を出て気がつく。僕はバーゼルの地図を持ってなかった。元々この日に訪れたシャフハウゼン以外、スイスの街を歩くなんて全く考えてなかった。シャフハウゼンは過去に1度訪れているから、地図なしでも大丈夫だった。まさか初めての街を、地図なしで歩いてみようなんて、全くどうにかしている。無鉄砲もいいところだ。

バーゼルBad Bf駅前には、地図がパネル貼りになって表示されていた。その地図をよく見て、自分の行きたい大体の方角を頭に入れる。この時、地図をメモっておけばよかったのに、いつもの「まぁ、何とかなるさぁ…!」が出た。全くよくも悪くも「いい加減」な性格で困る。もしも途中で道が分からなくなったら…?さっさと引き返せばいい。でなければ、誰かに聞けばいい。本当にお気楽。ケ・セラ・セラ〜♪

言ってみれば、ドイツ国境側のバーゼルBad Bf駅から、スイス鉄道のバーゼルSBB駅を目指すちょっとした冒険。自分の性格からしても、たぶん道を間違っても簡単に来た道を戻るタイプではない。迷いながらも、何とかバーゼルSBB駅に辿り着こうとするだろう。まずは中間地点にある、ライン河に架かるミットレレ橋を目指す。

歩き出してしばらくすると、ミットレレ橋への道を見失ったことに気づく。たぶんこっちかな…?いつもの「いい加減」な勘に頼って歩く。すると何ともいとも簡単に、ミットレレ橋の方角を表す道路標識を発見。やった〜!全く「案ずるより産むが易し」ってことさ。ケ・セラ・セラ〜♪

とりあえずライン河にぶつかった。ミットレレ橋を渡る。橋の上ではインラインスケートのイヴェントが開催され、多くの人でごった返していた。ライン河の川幅は、この辺りだと思ったよりも広い、この日訪れたシャフハウゼンで見た時の倍近くになっている。実は、シャフハウゼンとバーゼルの間には大きな滝がある。そのため、北海からライン河を遡ってきた川船は、バーゼルで行き止まりになってしまう。

さて、お目当てのバーゼルSBB駅は…?道路標識を探す。それにしても大胆だ。バーゼルは人口約175000人。チューリヒに次ぐスイス第2の都市。世界最大級の時計博「バーゼル・ワールド」など国際見本市も開かれるほど有名な街。地図なしで、簡単に歩けるほど小さくはないってことだ。ハッキリ言って無謀。とにかく明るい時間でよかった。

そんなこんなで道に迷うことなく、僕はどうにかこうにか目的地スイス鉄道のバーゼルSBB駅にたどり着いた。所要時間はおよそ1時間。鉄道に乗ればたった5km。短い時間だったけれど、ちょっと楽しい冒険だった。時刻表を調べると、フライブルク行きICEが今すぐ発車しそうな時間。慌ててプラットフォームまで急ぐ。だけど、すでに列車は走り出していた。ははは…!

次の列車まで30分近く時間が余る。駅前のカフェでビールでも飲もうかと思った。でも、ほんの少し待てば、すぐに列車がプラットフォームに入ってくる。始発列車はかなり早くから停車していることが多い。変な場所でイライラ待っているより、列車に乗って待っている方が安全・安心でもある。

プラットフォームでしばらく待つと、予測通りフライブルク行き列車が早めに入線した。1等車に乗り込んで発車を待つ。安心した途端、突如尿意を催した。発車時間が迫る。列車が静かに動き出す。ヨーロッパの列車は日本と違い、アナウンスなしに突然走り出す。アナウンスがないから、気をつけていないと乗り損なうこともある。

列車が動き出してからトイレに駆け込んだ。出す物を出して気持ちよくトイレから出た。すると、ドアの前にドイツの警察官男女2人がマジな顔で立っていた。彼らは何らかの目的を持って、僕がトイレから出てくるのを待っていたのだ。

「パスポートを見せてください」

男性警察官が事務的に言った。

「何しにドイツへ…?」

「観光ですけど…」

「どこへ行くのですか…?」

「フライブルクですけど…」

「荷物はそれだけですか…?」

警察官は僕がデイパック1個だけなので、旅行者にしては軽装過ぎると訝しげな顔で尋ねた。

「はい、フライブルクのホテルに泊まっているので…」

「ふ〜ん、なるほど、OK、ダンケ・シェーン…!」

何となく不満げな顔でパスポートを返してくれた。まぁ、列車が動き出すと同時に、トイレに隠れる不審者も過去にはいたのだろう。警察官が怪しむのも無理はない。僕は過去に何度か、国境を超える列車で、警察官に連行されるアフリカ系とかアラブ系の男たちを見たこともある。彼らは違法な密入国者か何かだったのだろう。おそらく僕も、ドイツに密入国しようとした中国系のオッサンと疑われたのだろう。ははは…!

バーゼルから乗った列車はRBレギオン・バーン。各駅停車だった。ICEインターシティ・エクスプレス特急だったら、バーゼルからフライブルクまではたった2駅。所要時間も大体35分。それがRBだと1時間近くかかる。まぁ、これも旅の愉しみってこと。急いで帰っても、誰かが待っているわけじゃなし。ケ・セラ・セラ〜♪



# by 1950-2012 | 2019-02-16 14:36 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

200811月初旬、フランス大西洋岸の都市ボルドー連泊2日目。またまた性悪な時差ボケのせいで、変な時間に目が冴えてしまう。しかたない。テレビをつけてボーッとする。チャンネルを次から次へと変えていく。その時、あるチャンネルが男女の「まぐわい」を映し出していた。そう、子供には見せられない「ポルノ」だ。それもモザイクなどない本物。と言って、別に有料チャンネルではない。

「あららら、これはこれは、はぁぁぁ、あららら〜!」

ひとり旅のオッさんには、大変に目にも心にも毒。しばらくボ〜ッと見てたけど、その内、脂っこいものを食べた後の胸焼けのような気分。テレビを消す。確実に目が冴えた。さて、どうする…?何を思ったか、突然洗濯を始める。この後、連泊は予約してあるイタリアのフィレンツェまでない。この辺で洗濯しておかないと、後々洗濯物が溜まって面倒になる。

旅先での洗濯は、一遍に多く洗うより数回に分けるのが効率的。旅立ち前、部屋干しのためのステンレス製ミニ・ステンレスハンガーを購入した。強い洗濯ばさみが14個付いているのでとっても便利。それまでプラスティック製のモノを使っていたけど、濡れた洗濯物に耐えられず使い勝手もよくなかった。

洗濯が終わってホッと一息。さて、どこに干すか…?当然だけど、窓の外に干すわけにはいかない。シャワー・カーテンのレールやタオル掛けなどを駆使してバスルームに干す。しばらくすると、ポタポタと水滴が落ち始める。手絞りだからやむをえない。時折、濡れしょぼった洗濯物の先端を絞る。洗濯なんか嫌いだし面倒くさいけど、こんな些細な事が結構楽しいのがひとり旅でもある。

この日は、上質の赤ワインを産するオー・メドック地区のマルゴーに行く予定。僕はかつてマルゴー産のワインを飲んだことがある。その余りのおいしさに感動した。ということで、以前からマルゴーに行ってみたいと思っていた。と言ってもマルゴーの地図はない。グーグルでプリント・アウトした大雑把な地図を持っているだけ。何か心もとない。大丈夫か…?

ボルドー駅に向かう。朝の空気は、気分をシャキーン!とするほど冷たく爽やか。マルゴー行き発車ホームは「B」だ。だけど、見える所にあるホームは全て数字。アルファベットの「B」なんてホームはどこにも見えない。たぶん端っこに追いやられているのだ。そう考えて探すと、BINGO〜!端も端、とんでもない隅っこにあった。

列車は既に入線していた。早速1等車に乗り込む。晴れているとはいえ、もう冬間近の11月。朝晩はかなり冷え込む。気を抜くと一発で風邪をひくから注意が必要。列車は走り出して、数分もしない内にボルドーの市街地を出る。すると線路の周りにブドウ畑が広がる。さすがワインの名産地と感心する。

目的地マルゴーMargauxとはどんな街か…?情報が少ないから、期待と不安が交錯する。ガイドブック『地球の歩き方』はボルドー周辺のワイン産地として、主にサンテミリオンに2ページを費やしている。サンテミリオンは人口2,400人の街。ホテルも3軒紹介されている。結構観光客も多そうだ。

マルゴーはオー・メドック地区で最高格付けの1級ワイン「シャトー・マルゴー」など、優れた赤ワインを産するワインの村として名高い。それでもボルドー駅の発車ホーム同様、ガイドブックでも何となく「味噌っ滓」扱い。情報はほとんどない。ひょっとしたら、マルゴーを選択したのは失敗だったかも…?僕は過去に、ガイドブックに出ていない街に行って大いにガッカリしたことが何度かある。

そんなこんなで、何とかマルゴーに到着。列車を降りたのは僕だけ。マルゴー駅は何と、ピュルルルゥ〜!すきま風が吹き抜けるような無人駅だった。駅舎のレンガ色の鎧戸は、ペンキが色あせ剥がれくたびれている。しばらく目が点になる。やっぱ、サンテミリオンに行った方がよかったのかな…?などと考えてしまう。

列車がドアが閉め走り去っていく。僕は1人ホームに取り残された。真っ青な空が恨めしい。駅の周りには「Bar de la Gare」という名のKIOSK兼BARが1軒あるだけ。後は閑散とした、全く普通のフランスの田舎町の駅前って佇まい。BARは営業しているようだ。帰りはたぶん、ここでボルドー行き列車を待つことになるだろう。

さて、どこへ行ったらいいか…?BARに入って聞けばいいのだけど、どうせ「英語は分かりません〜!」って顔をされるのが落ちだ。グーグルでプリントした地図には、列車の進行方向に対して右側に町並みがある。ということで、駅から垂直に延びている道を行くことにした。

しばらく行くと別の道に突き当たる。右手に「Château」と書かれた看板があった。とりあえずこっちだ。少し行くと、Bingo〜!お目当てのブドウ畑が見えてきた。3本の道が交差する真ん中の場所に、なぜかベンチが1つ置かれた小さな公園があった。老人が犬を連れて休んでいる。行き交う人はほとんどない。全く静か。それもそのはず、この日は祝日だったのだ。

さらに進むと郵便局があった。黄色い郵便自動車が真っ青な空の下で目に眩しい。郵便局の先にツーリスト・インフォメーションらしき建物。でも、ドアが閉まって中の電気は消えている。参った、全くのナイナイ尽くし。本当はこの辺りの地図が欲しかったんだけど、CLOSEDではしかたない。ツーリスト・インフォメーションのそばにワイン・ショップとチョコレートの店もあるけど、どちらも閉まっている。

見回すと、周囲はほとんどブドウ畑。高い建物や山がないから空がとても広く感じる。しばらく先に分かれ道が見えた。道はそれぞれブドウ畑を縫うように延々と続いている。近くにシャトーらしき建物も見える。中に入って見学できるなら見学したい。でも、シャトー入口の鉄扉は固く閉ざされている。

この時、真っ青だった空が突然灰色に変わった。風が一瞬にして冷たくなる。まさか突然の雨…?予定を繰り上げ駅に戻るしかないか…?折角マルゴーに来ているのに何てことだ…!ワイン1杯も飲めないで帰るなんて余りにも哀しすぎる。とりあえず雨が降り出すまで、もう少し街をウロついてみよう。

少し先の道で、若い高校生ぐらいの女の子がバス停でニコニコしながら話していた。どこへ行くバスだろう…?ボルドー行きなら乗っていこうか。彼女たちがこっちを見た。田舎町で日本人が珍しいのか、ちょっとビックリした後、笑顔で手を振っている。思わずオッサンも手を振って応える。

バス停の先に「CAVEl’Avant Garde」と書かれた青い看板を発見。えっ、アヴァン・ギャルド…?ワイン・ショップにあるまじき凄まじい店名。でも、店が開いていたらラッキー。だけど、どうせ閉店だろうな。諦め半分で行ってみた。入口ドアに「OUVERT」の看板。おぉ〜、開いている…!やった、これでワインが試飲できる…!喜々とした顔で店内に入った。開店した直後らしく、若い男が忙しそうに立ち働いている。

「ワインを試飲できますか…?」

「えぇ、大丈夫ですよ…!」

店内を見回す。棚にワイン・ボトルがうず高く積まれている。全部この辺りで生産された赤ワインだ。こうなったら、もうどのボトルでもいい。とにかく試飲さえできればいいのだ。男が奨めてくれたのは、2001年もの「Chateau Haut Breton Larigaudiere」という赤ワイン。もちろんマルゴー産。

2001年のヴィンテージですが…」

自信ありげな顔でグラスに注ぐ。濃厚な、まるで血液のような赤い色。注いでくれたグラスを軽く揺らしながら香りを嗅ぐ。芳醇で馥郁たる香りが立ちのぼる。

「おぉ〜、マルゴーのワインじゃ…!」

言葉には出さないけど、心の中ではかなり興奮している。さすがに産地で飲むのは別格の味わいがある。香りを楽しんだ後、少し口に含む。口をつぐんで、空気をシュルシュルっと音を立てて吸う。口の中に豊穣の天国が広がる。うまい…!僕の相好が崩れたのを見て、店の男も笑顔になる。

試飲を終えた後、ゆっくり店内を見て回る。頭の中では、ワインを1本買って帰ろうと考えている。ただし、相手にそれを見透かされないよう何気ない顔で振る舞う。結局買ったのは試飲したボトル。お値段は€21.50(この時のレートは、€1=120円ぐらいだったから2,580円)。さほど高いというわけではない。でも、去年旅した時は€1=165円以上だった。165円なら3,548円になる。この差は大きい。

それ以上何もすることがないので、マルゴー駅に戻った。デイパックからトーマス・クックの『時刻表』を取り出す。ボルドー行きは1309分発。まだ1時間以上もあった。さて、何をするか…?駅前のバーに入って時間を潰すしかない。ドアを開ける。店内は混んでいた。祝日の昼間、客の男たちはワインやコーヒーを飲んでおしゃべりをしている。店は夫婦で切り盛りしている。彼らの娘らしき幼女が店内で遊んでいた。

「ヴァン・ルージュ・スィルヴプレ…!」

奥のテーブルに腰掛け、女主人に赤ワインをオーダーする。特別なワインではない。店で出している普通のワインだ。僕は以前からワインの産地の居酒屋で、気取りのない普段着のようなワインを飲んでみたいと考えていた。テーブルにワイン・グラスが届く。まずは、香りをゆっくり嗅いでから飲む。なかなか旨い。

朝飯を食べてなかったせいか、酔いがちょっと速いような感じがする。ちょっと腹が減っているのだ。しばらくすると、娘が僕のテーブルに再びやってきて話を始めた。当然フランス語だ。何を言っているか全く分からない。笑顔でしばらく相手をしてやっていたけど、ちょっと辛くなってきた。デイパックから旅の会話集を出し、僕がフランス語を話せないことを教えて上げる。

「ジュ ヌ パルル パ ビャン フランセ…!」

娘は必死に「フランス語は話せません」としゃべっているアジア人に同情して、母親の元へと去っていった。デイパックからノートを取り出し、ワインを飲みながら旅日記を綴る。文字がまるで、ミミズがのたうち回っているかのように捩じれている。元々字のうまい方ではない。最近は手書きでなくPCを使っているせいか、文字の書き方もどんどんひどくなっている。これでもラジオCMの原稿を書いたり、NHKの子供番組の作詞もしている。だけど、文字はひどい、下手くそなのだ。

旅から帰って日記を見ると、自分で書いたのに所々判読できない文字があったりするから情けない。だから今回は、結構気を使って丁寧に書いている。でも、他人が見たら、やはり判読できない文字が多すぎるだろう。旅日記は元々人に見せるものじゃないし、あくまでも自分のための備忘録でしかない。だからミミズが妖艶なベリー・ダンスを踊っているように、目一杯のたくっていても構いやしない。そうだよね…?



# by 1950-2012 | 2019-02-13 20:14 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

2010年初夏、僕はまたまたフライブルクを訪れた。何と、これで4度目。ドイツだけでなく、ヨーロッパで4度も訪れ宿泊した街は他にない。知らず知らずの内に、僕はフライブルクにハマっていたのだろう。2010年の旅はスイスから始め、オーストリア、チェコ、ドイツ、ベルギー、オランダと巡る36日間の長旅だった。

チェコからドイツに入って数日後。2連泊したハイルブロンの駅で、僕はこの日の行き先を決めあぐねていた。翌日はフランスのロレーヌ地方メッスにホテルを予約してある。そのため、この日はメッスに移動が楽な街に滞在したい。とりあえずはマンハイムに出てから、国境の街ザールブリュッケン行きに乗ろうと考えていた。朝方降っていた雨も上がっている。

ハイルブロンを出た列車は、ネッカー川に沿ってゆっくり走っていく。ネッカー河畔は車窓風景が美しい。次に来る時は、この路線の街に1泊したいなと考える。この辺りには、城が好きな人にとっては堪らない「古城街道」が走っている。マンハイムから始まる「古城街道」は、ハイデルベルクやローテンブルク、ニュルンベルクを経て、さらに国境を越えチェコのプラハまで続く。

この日は午後1時半から、サッカーW杯の日本対オランダの試合がある。そのためホテルのチェック・インはできれば1時頃までに済ませたい。と言いつつ、この日のホテルは未定。試合を見るためには、どこかの駅に到着後すぐにホテルを探さなくてはならない。でも土曜日。週末の列車は時刻表通りでないのが不安。1022分マンハイム到着。早速駅の時刻表で、ザールブリュッケン行き列車の出発時刻を確認。

BINGO〜!不吉な予感的中。乗ろうと考えていた列車がない。どうしよう…?参ったなぁ…!しばし沈思黙考。最善の答を出そうと考える。PING〜!答はすぐ出た。行き先はマンハイムから南へ194km離れたフライブルク。上がったとはいえ、いつでも雨が降りそうな空模様。ホテルを探すなら知っている街の方がいい。さらに折角滞在するのだから気分のいい街の方がいい。ということで、フライブルクに決定。

3年前の再再訪の時には、中央駅そばのインターシティ・ホテルに泊まった。料金はともかく、とにかく駅に近くて便利だった。と言ってもこの日、運良く空室があるかどうかは分からない。まさに賭け。それでも知らない街よりホテル探しは楽だ。194km離れていても、インターシティ・エクスプレスICEに乗れば1.5時間。1040分台の列車に乗れば1209分に到着できる。これなら余裕を持ってW杯が見られる。

列車に乗ってカールスルーエを過ぎた頃、窓に水滴がポチョポチョとへばり付き出した。とうとう降り始めた。フライブルク中央駅に到着。駅を出てインターシティ・ホテルに直行。空室がなかったらどうしようかと内心ドキドキ。他を探す覚悟はできているけど、やっぱり雨の中をウロツくのは辛い。

レセプションの若い女性に「今夜1晩空室がありますか…?」と聞くと、輝くような笑顔で「ヤァ〜!」と答えてくれた。料金は€81。以前泊まった時同様、フライブルク市内の公共交通機関が1日乗り放題のカードを手渡される。試合が終わったら、駅そばの停留所からトラムに乗って、旧市街の何時もの店にビールを飲みに行くつもりだ。

まだ試合開始時間に余裕がある。早く部屋に入って落ち着きたい。すると「禁煙の部屋はまだ清掃中で入れないんです」と言われる。さて、どうしよう…?僕はワールド・カップを見たいから早く部屋に入りたい。喫煙ルームは空いているらしい。多少はタバコの匂いがするけど、眠ってしまえばどうとでもよくなる。まずは空いている部屋に入ることにした。

駅ビルの中に、日本人の板前がいる寿司ショップがあったはず。寿司とビールがあれば万々歳。早速駅ビルで寿司ショップを探すけど見当たらない。3年経ったら寿司ショップが、何とサンドィッチのSubwayに変わっていた。あらら…!こうなったらもうサンドイッチでもいい。とにかく昼飯を買って帰るだけだ。ホテルの隣の店でビールも買った。準備万端。気合いタップリで部屋に戻り、テレビの前に陣取って昼食タイム。

この日の相手は強豪オランダ。簡単には勝たせてもらえないだろう。よく考えれば、大会開催地の南アフリカとドイツは時差なし。テレビ観戦も楽だ。日本とは時差7時間。この瞬間、我が祖国は夜の8時。もっと遅い時間帯の試合もあるから、日本のサポーターはみんな寝不足気味になっているだろう。

試合前のセレモニーが始まる。川島、駒野、中澤、闘莉王、長友、阿部、長谷部、遠藤、松井、大久保、本田、見慣れた11人の勇者の顔がある。国歌『君が代』が流れる。声に出して一緒に歌うと不覚にも涙が溢れる。いとも簡単に愛国者に変貌してしまう自分が、妙に愛おしくも哀しく可笑しい。

前半は0対0で折り返す。とりあえずはよし。やはり強豪相手に得点は難しい。このまま守りきって、どこかで得点してくれ…!しかし祈り空しく、後半開始直後の8分頃。スナイデルのシュートがゴールに吸い込まれる。しかたない、それなら逆襲開始だ。とりあえず1点取って、イーブンに持ち込めばいい。力は入るが、点は入らない。そして試合終了のホイッスル。Aha、空しい…。

試合は終わった。早速気分直しに出かける。さぁ、「ハウスブロイライFEIERLING」に行くぞぉ〜!お目当ては店内にビール醸造設備のある、黄色と緑の変則六角形の看板が目印の店。

ホテルを出る。すぐ近くに駅をまたぐ高架橋があり、その上にトラムの電停がある。待っていると程なくトラムがやって来た。1日乗車カードにはすでにこの日の日付が記入されている。パンチングは不要。サッと飛び乗り空いている席に腰掛ける。フライブルクのトラムは「LRT」と呼ばれるライトレール交通(Light Rail Transit)方式。この街はマイカーの市内への乗り入れは制限されているから、大聖堂、新旧市庁舎、大学などが集まる中心部はトラムで行くしかない。

通行人でごった返すカイザー・ヨーゼフ通りに出た。ここでトラムを降りる。お目当てのハウスブロイライFEIERLINGだけど、前回も前々回も僕は見つけるのに手間取った。そして今回もウロウロしてやっと辿り着く。理由はガイドブックの地図が、その店がある辺りまで載ってないからだ。地図があれば目印など付けて記録できる。それができないから何度もウロウロしてしまう。

店内は週末のせいかとても混んでいた。円形のカウンター中央には、ビールの醸造タンクがピカピカと輝いている。まず注文。そして、グビグビグビ〜ッ!と流し込む。くぅぅぅ〜、う・う・美味いっ…!ビールを思う存分堪能して店を出る。近くを流れる小川沿いに行くと、川の真ん中に流れに逆らうかのように何やら物体が見えた。あれっ、ワニだぞ…?石で彫られたワニの頭部が水面に顔を出していた。さすが大学町、若くてヤンチャな遊び心が至る所で弾けている。

街の東外れにシュヴァーベン門がある。この辺りは懐かしい。以前泊まった、ドイツでも最古のホテルのひとつと言われる「ツム・ローテン・ベーレン」が近くにある。ホテルの前はトラムが走るメイン・ストリート。この辺りの風景は全然変わらない。ホテルの並びに、この街のサッカー・チームのファン・ショップがあった。フライブルクはそんなに強くはないけど、ブンデス・リーガ1部の常連チームなのだ。

次に目指したのは大聖堂。ロマネスク様式とゴシック様式の織り混ざる、ドイツでも屈指の美しさを誇っている。ガイドブックに『キリスト教世界でもっとも美しい塔を持つ大聖堂』と紹介されているけど、修復中のカバーが掛けられているから喜びも半減。大聖堂の中に入った。聖母子像の周りは沢山のロウソクが明々と灯っている。幼子を抱いた聖母の眼差しは、深い慈しみに満ち溢れ訪れる人々の心を温かく包み込んでいる。壁に1体のマリア像があった。プレートに『MARIENSTATUE AUS CUSCO/PERU』と書いてある。なるほど、理由はよく分からないけど、ペルーのクスコからやって来たマリア像だ。素晴らしい…!

大聖堂を出たら、ちょっとビールが飲みたくなった。大聖堂脇の広場に面した店のテラス席に座って注文すると、ジョッキに「Ganter」と書かれたビールがテーブルに届いた。僕はすぐ「ガンター」という名に反応してしまう。以前ラジオCMでナレーターやってもらった外国人が、確かエリック・ガンターという名だった。僕の記憶が正しければ、彼はオランダ系。はジョッキにFREIBURG/BR.と書いてあるので地元産のビールだ。紋章が何ともカッコいい。

夕方で気温が一気に下り始めていた。2口ばかり飲んで、僕は震えながら店内に退散した。ホテルへの帰りにちょっと寄り道。以前入った和食店“T”が今もあるかチェック。店は旧市庁舎の裏手。表通りに看板が出ていたから営業中のようだ。ほっ、よかった…!

夕食時、歩いて和食店“T”に向かう。今夜は久しぶりにちゃんとした和食が食べられる。そう思うと足取りも軽い。店に入ると、見知った顔がカウンターの中にあった。まさか親っさんが店に帰ってきていたとは…?ビックリしたものだから、思わず声のトーンを上げて挨拶した。

「あれ、親っさんはてっきりミュンヘンにいるものだと思ってました…!」

「いや、つい最近こっちに戻ってきたんです」

この店に僕が最初に来たのは2003年5月。あれから7年経っている。まずはお銚子を注文。もう会えないと思っていた人に会えたからとっても嬉しい。熱燗でホッとしたところで食べ物を注文。酢の物の盛り合わせ、茄子の田楽、そして寿司はマグロ、イカ、イクラ、カンピョウ巻き。気分がいいから酒は進む。しばらくすると、突然親っさんがこんなことを言い出した。

「いや〜、ベルリンの方からこっちに来いってお誘いがあるんですよ…」

「へぇ、ベルリンですか…?」

「はい、ベルリン・フィルの人たちが、ベルリンにいい寿司職人がいないから困っているそうなんです」

「なるほど、ベルリンなら日本人も多いし、和食好きなドイツ人も多いからみんな喜ぶでしょうね…」

そんな話があった後、僕は最近横浜に移り住んだことを話した。すると親っさんが嬉しそうに言った。

「実は私、出身が横浜なんです…!」

「えぇっ、そうなんですか…?」

全く驚いた。話はまた盛り上がる。何と、親っさんは野毛辺りをよく知っていた。料理は前回来た時よりも、何となく全体的に質が上がったような気がした。イロイロ食べて、イロイロ話し、酒がどんどん進む。お銚子3本で気持ちよくなって店を出た。料金は締めて€67.50。ケチケチ旅行の僕としては大盤振る舞いの方だ。

店を出ると、ほてった体に夕暮れ時の風が心地よかった。またいつフライブルクに来られるか分からないけど、この次来た時、もしかしたら親っさんはベルリンで寿司を握っているかもしれない。変わるものもある。変わらないものもある。旅に出るとイロイロ考えてしまう。それにしても、フライブルクは何度来てもいい街だ…!



# by 1950-2012 | 2019-02-10 09:28 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

2007年2月。この時の旅はドイツから始めた。まず初日、フランクフルト国際空港からライン河畔のコブレンツに列車で移動して1泊。翌日はルクセンブルク経由で、詩人アルチュール・ランボーが生まれ育ったフランス北部シャルルヴィル・メジエールに移動。何とも忙しい。そして列車の乗り換えが悪く、これが結構難儀だった。

その後はフランス北東部のアルザスからプロヴァンス、さらにスイスに入って出発地のドイツに戻るという旅程。ドイツ再入国最初の宿泊地は、通い慣れたというか、僕にとって居心地のいい南ドイツの大学町フライブルクと決めた。

ちなみに、その朝まで滞在していたスイスの街は、首都ベルン近隣のフリブール。この街はドイツ語圏とフランス語圏の境。「フリブール」はフランス語で、ドイツ語なら「フライブルク」となる。つまり僕はたった1日で、スイスの「フライブルク」からドイツの「フライブルク」へ移動することになる。正確に言うと、ドイツのフライブルクは「フライブルク・イム・ブライスガウ」で、スイスの方は「フライブルク・イム・ユヒトラント」と表記されるそうだ。

フライブルク滞在は、前日フリブールで急に決めたから当然ホテルの予約はなし。到着後はまず、ホテルを探さなければならない。でも、街の中心部まで行って探すのは面倒。列車内でガイドブックを見て、中央駅隣ビルのインターシティ・ホテルに目星を付けておいた。ここがダメだったら少しずつ、旧市街に向かって空室があるか聞きながら移動すればいい。

午前中スイス国境の街バーゼルで古楽器博物館を見学してから、昼ちょい前にフライブルク中央駅に到着。この街を訪れるのは3度目。妙に懐かしく感じた。駅ビルは以前よりも大きくなっていた。ビル内をブラつくと寿司店を発見。テーブルもあるけど、どちらかというと「Take Away」中心の店のようだ。店名は「Funa寿司」。何となく中国人の店っぽい。

とりあえず小腹が空いていたので、鉄火巻きとミネラル・ウォーターを注文。しばらく待っていると、アルバイトの若い女性が「板前さんは日本人よ!」と笑顔で教えてくれた。中国人かと思っていたのでちょっとビックリ。ちょっと話しかけてみようと思った。考えてみたら、旅に出てからずうっと日本語を話してなかった。久々に日本語を話せる。それが何だか嬉しい。

「以前この街に来た時、“T”って和食店に行ったんだけど、まだ店はあの場所にあるのかな…?」

「えぇ、ありますけど。他にも安くていい店はありますよ」

「ふ〜ん、でも、中国人の店はイヤだな…!」

「そうですか、ふぅ〜ん…」

板前が何か言いたそうに口ごもった。あれ、何かあるのかな…?他にも安くていい店をススメルってことは、“T”の評判がさほどよくないってことか、それとも彼が知っている別の店を紹介しようとしているのか…?

インターシティ・ホテルに入る。フロントの女性は、ニナ・ハーゲンのようなパンクっぽいメイクをしていた。日本では考えられない。部屋はあるかと聞くとOKだった。料金は€93。できることなら€50以下に抑えたかったけど、ホテルを探し歩く気にもなれない。チェック・インすると、明日の昼までトラムやバスにタダで乗れる「フライブルク・カード」をもらった。何となく得した気分。

荷物を整理して、この街で行きつけの店へ向かう。それは店内にビール醸造設備がある「HAUSBRAUERAI FEIERLING」。この店では作り立ての美味しいビールが飲める。その前に、和食店“T”がまだ同じ場所にあるかをチェック。店は同じ場所にあった。次は営業時間。大丈夫、日曜日もやっている。これで今夜の食事の心配はなくなった。

例の「HAUSBRAUERAI FEIERLING」はマルティン塔の先を、左に曲がってちょっと行った所。だけど、簡単には見つからない。過去に2回も来ているのにウロウロ探し歩き、小さな川のそばでやっと見つけた。ここで物覚えの悪い脳みそに、[マルティン塔の先を左!]&[小さな川のそば!]と強くインプット。これでもう忘れないだろう。

これまで2度は、季節がよかったから外のテラス席でビールを飲んだ。だけど今回は真冬。店の中で飲むことにする。僕はカウンター席を選んだ。店の中に入るのは初めてだ。記念に写真を撮っておこうと思い、デイパックから高感度フィルムの入ったコンパクト・カメラを取り出して1枚パチリ。

カウンターの向こうの席に座っていた、スキンヘッドがこちらをジロリと睨んだ。おぉ〜、怖い…!スキンヘッドの頭には蜘蛛のタトゥー。やばい。目を合わせないようにしよう。でも、スキンヘッドに蜘蛛のタトゥーは、見ようによっては間抜けに見えないこともない。あ、またこっちを睨んだ。何か不機嫌そうだ。やばい〜!触らぬ神に祟りなし。知らんぷり…、知らんぷり…。

ビールをゆっくり飲んだ後、ブラブラと旧市街を散策する。街は最初に来た1994年の頃とほとんど何も変わってない。変わらないことがとても嬉しい。大聖堂でパイプオルガンのCDでも買おうと思った。だけど日曜日でミサの真っ最中。CDは諦めて、一度ホテルに戻ることにした。ということで、やっとフライブルク・カードの出番。駅方面行きのトラムに乗る。フライブルクでトラムに乗るのは初めて。何となく嬉しかった。

その夜、和食店“T”に向かう。客はまだ少なかった。前に来た時、フロア・マネージャーが「いくら手をかけても、相応の料金が取れないんですよ」とボヤイていたのを思いだす。食習慣が全く違うドイツやヨーロッパでは、本格的な和食を提供することにイロイロ問題があるようだ。

まず質の高い食材や調味料の確保。そして和食独特の繊細な調理法。日本人にとって「大盛」としか思えない食事量が普通のドイツ人。手間暇かけて提供される料理も少量で、勘定はきっと割高に感じることだろう。本格的な和食を認めてもらうのはまだまだなかなか難しそうだ。

カウンターの中では若い板前が働いていた。以前は初老の雰囲気のいい板前さんがいた。眼鏡をかけた若い日本人女性がメニューを持ってきた。よく「人当たりのいい」という言葉を聞くけど、なぜか分からないけど彼女の場合はまさにその反対。何もそんなに「つっけんどん」じゃなくてもって、僕は感じてしまった。

まずは熱燗。続いてもずく酢、煮物。寿司はマグロ、イカ、タコ、キューリとアボガドの巻物、そして味噌汁を頼んだ。忙しく寿司を握る板前さんに話しかけた。僕はしばらく使ってなかった日本語を話したくてウズウズしていたのだ。

「以前もこの店に来たことがあるんですよ。前はお年を召した板前さんがいたけど、あの方はこの店をおやめになったんですか…?」

「大将は今、ミュンヘンにいます…」

「へぇ、フロア・マネージャーのような方は…?」

「あの人は今日お休みです。あの人は今、時々板前もやっています。昼時はカウンターの中で寿司を握っているんですよ…」

「へぇ、たった4年でイロイロ変わったんですね…?」

「えぇ。あの、私、本当は和食の板前じゃないんです…!」

「えぇっ…?」

「食えないのでやってるんです…!」

「はぁ…?」

そう言われて見ると、確かに彼が使っているのは両刃の洋包丁だった。とは言え、しっかり研いでいるから切れ味はよさそうだ。きっとフランスかイタリアに料理修行しにきて、志半ばで挫折したのかもしれない。それで生活するため、しかたなく和食店で働いているのかもしれない。そう勝手に想像した。

外国で仕事をする、学んでいくってのは、なかなか大変なことなのだ。旅するだけなら、僕のようないい加減な奴でも簡単にできるけど。食事を終えて店を出た。残念だったけど、店は僕の記憶にある“T”とは少し違っていた。それもこれも時の流れ。変わるものもある。変わらないものもある。同じ街を何度も訪れると、否も応もなく、イロイロなモノやコトが見えてくるのかもしれない。

部屋に戻ってTVを見ていると、いつの間にかZZZZZ…。旅も後半、よっぽど疲れていたと見える。すぐにベッドに入る。実は昨日の夕方、突然熱が出た。体温計はなかったけど、たぶん体温は37度ちょっとあったと思う。午前中バーゼルで雨に濡れながら歩いたからかもしれない。全く旅先での発熱は怖い。まだまだ旅は後3日続く。油断は禁物だ。

いつものように変な時間に目が覚める。深夜から風がうなりを上げて吹いていたせいだ。閉め切った部屋でも聞こえるぐらいだから、強烈な風と言える。窓を開けて空を見た。雲が凄い勢いで東へ流れていく。耳障りというより不気味な風だ。中世のヨーロッパ人々は、こんな風の音と不気味な空をどのように感じていたのだろうか…?

例えば、魔王が天空から降臨して、子供たちをさらっていくとか、人の命を奪っていくように感じたりして。そういえば、シューベルトの歌曲に『冬の旅』って作品があった。たぶん高校時代、音楽の時間に聞いたことがある。それにしても眠れない。しかたなくテレビをつける。

チャンネルを回すと若いお姉ちゃんのヌード。といっても有料テレビではない。ヌードの合間に、テレフォンSEXCMが大量に流れる。昼間は普通の番組を放送しているチャンネルが、深夜はこうして一人旅の寂しいオッさんを誘惑する。はぁぁぁ〜、何だかなぁぁぁ…?どうやら熱は下がったようだ。



# by 1950-2012 | 2019-02-07 20:56 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

南ドイツ、黒い森南西部の大学町フライブルク。最初にこの街にやって来たのは1994年夏以来。その9年後の2003年春、僕は再びフライブルクを訪れた。この時はひとり旅。前日、ドイツ到着当日はカールスルーエに1泊。中央駅のプラットフォームに降り立つ。懐かしい。でも、何となく違う気がする。駅舎と駅前の風景がちょっと変わっていたのだ。

駅舎はコンクリートだらけの、日本の地方都市のどこにでもありそうな駅ビルに変貌していた。駅前に建ち並ぶ建物も、味気ないショッピング・センターのようになっていた。たった9年で様変わり。それが何だか哀しかった。中心部へ向かう通りも、どこかしら変わったように見えた。

ポスト・ホテルとコロンビ公園に挟まれた小さなブドウ園は昔のままだ。変わってない物を見つけホッとした。変わるってことは、本当にいいことなのだろうか…?とは言え、この街で暮らす人々にとって、便利に変わることは必要なことでもある。フラッと立ち寄った旅人が、あぁだこうだと文句を言うのは筋違い。

でも、心配は無用。街の中心部まで行けば、きっと100年以上、いや、もっとそれ以上変わっていない場所がたくさんある。いい物とか、いい事とかは、頑なに変えない。それがドイツだ、ドイツ人だ。駅前の風景ぐらい、ちょっと変わったっていい。大切な思い出のある場所や事柄さえ変わらなければ。僕は常々そう思っている。

予約してあるホテルまで、ちょっと距離があった。TAXIで行けば、石畳の道でリュックをカタカタと響かせなくて済むのは分かっている。絶対にその方が楽。だけど、この街は法律で中心部に自動車が入れないようになっている。TAXIで遠回りするより歩く方がいい。たとえホテルに早く着いても、部屋がまだ清掃中で中に入れないこともある。ゆっくり行くべし。のんびり行くべし。

市庁舎のあるラートハウス・ガッセまで来るとホッとする。僕の知っているフライブルクの、以前のままの風景があったからだ。歴史に彩られ落ち着いた佇まい。前回は市庁舎広場前の建物の中にあるホテルに1泊した。確かレセプションは2階で、部屋は3階だった。

今回予約したホテルは大聖堂のさらに先。街の西に位置する壮大な城門のそば。名前は「ホテル・ツム・ローテン・ベーレン」。ドイツ語で「赤い熊」という名。ガイドブックによると1120年に建造で、1311年からホテル&レストランとして使用されているというからすごい歴史だ。

ローテン・ベーレンはドイツで最も古いホテルのひとつとして知られる。チェック・インすると部屋はすでに清掃が終わっていた。すぐ部屋に入れる。これは嬉しい。フロントで金色の熊の飾りがついた真鍮製の大きな鍵を渡される。なるほど「ベーレン=熊」だ。狭いエレベータに乗って3階まで上がる。部屋はトラムが走る表通りに面していた。

シングルだから多少狭い。でも、居心地は悪そうでない。正直なところ1泊€100はちょっと高いような気もする。しかたがない。何たってドイツで最も古いホテル。人気も高いから、値段もちょっと高いのは当然。ローテン・ベーレンには2日滞在する。荷物を解いてサンダルに履き替える。そして一眼レフカメラを肩からぶら下げ、意気揚々とホテルを出た。

まずは街のシンボル大聖堂を目指す。途中に藤棚で飾られた細い通りがあった。ちょうど藤の花が開花し、通りは艶やかな雰囲気。以前もこの通りを通ったと思うけど、その時は真夏。藤の花は咲いてなかった。何という幸運。旅の2日目でこれなら幸先がいい。

しばらく歩いていると、妙な物体を空中に発見。何と、群青の空に巨大な銀色に輝く物体が浮遊していたのだ。おぉ〜っ、飛行船だぁ、スゲェ〜!ドイツは飛行船技術者ツェッペリンの国。アメリカで炎上した豪華飛行船ヒンデンブルク号事件は、20世紀初頭最大の航空事故だった。

大聖堂前のマルクト広場は、以前来た時と同じように賑わしく市がたっていた。昼時のせいか、相変わらず焼きソーセージを挟んだパンを売る店の前は長い行列。店の前を通り過ぎるといい香り。食べたいと思ったけど、並ぶのが嫌いだから素通りする。

気温はすでに20度を超え30度近く。とにかく暑い。前回、手作りビールが飲めるビール醸造設備のある2軒の店に入った。最初に行った店はマルティン塔のすぐそば。行ってみると、店はまだ同じ場所にあった。

表のテラスで飲もうとしたけど、残念ながらほぼ満席。しかたなく店内に入る。だけど、肉料理を長時間煮込んだような脂っこい臭いが充満していた。その強烈な臭いに耐えられず、サッと店を出る。もうⅠ軒のビール醸造所に行くことにした。ウロウロするけど、なかなか見つからない。最新のガイドブックの地図も、さすがに中心部から外れたその辺りまでは載ってない。

小さな川に沿ってウロウロ歩く。しばらくすると見覚えのある看板「ハウスブロイライFEIERLING」と再び遭遇。喉がググッと鳴る。時間はすでに午後3時過ぎ。かなり腹が減っていた。空腹にビール。もしかしたら簡単に酔っ払ってしまうかもしれない。しかし、ただのビールではない。おいしいおいしい思い出の絶品ビールだ。麦芽とホップと水だけで作る「純粋」なドイツのビールなのだ。

木陰のテーブルを見つける。ビアガルテンにはウェイターはいない。以前は注文を取りに来る若い女性がいた。人件費を節約しているのだ。被っていた野球帽をテーブルに置いて、デイパックを担いだままカウンターまで行く。ちょっとの間とはいえデイパックを置いて立ったら、瞬時に盗まれないとも限らない。それが外国では当たり前。

ビールがジョッキの中で、太陽の光を受け琥珀色にキラキラ輝やく。テーブルまで戻り、一気にビールを喉に流し込む。ゴクゴクゴク、プファァァ〜!空腹だから、ビールは一瞬で五臓六腑にキュューッ・キュルキュルと染み渡った。

ビールを飲んでも、やはり腹は減っている。夕食まで何も食べないわけにはいかない。マクドナルドでチーズバーガーでも食べようと考え歩き出す。旧市庁舎の裏手からコロンビ公園の方に出ようとした時、何と漢字で書かれた看板が目に飛び込んできた。あれぇ、和食レストランだ〜!

看板には「JAPANISCHES RESTAURANT SUSHI TEPPAN」と書かれている。店名は漢字一文字で“T”。ちょうど店から日本人らしい男が1人出てきた。

「何時から開店するのですか…?」

「7時からです」

スーツを着た男は癖のない日本語で礼儀正しく答えた。時間はまだ午後4時。腹は確実に減っている。とりあえずチーズバーガー1個だけ食べて、空腹を紛らわす。何たっておいしい和食のために、胃袋に適度な隙間を空けておかなきゃならないのだ。マクドナルドを出てから、ホテルに戻ってしばらく部屋でのんびりする。ベッドでTVを見てるとウツラウツラ、ZZZZZZ…。

目覚めると、時刻は午後7時ちょっと過ぎ。緯度の高いドイツの日射しはきつい。日中ほどではないけど、日が落ちると途端に気温が下がる。“T”の店内はすでに数組の客が食事をしていた。店の前で会った男が丁重に迎えてくれた。カウンターに立つ板前さんは、見たところ60代ぐらい。落ち着きのある雰囲気のいい人だ。

メニューを見た。思った通り、料理は充分納得できる物が揃っていた。前夜はカールスルーエの“将軍”という店で天ぷらを食べた。その店は板前が中国人だった。だから味の方はそこそこ。だけど今夜は大丈夫。板さんが何たって腕のよさそうな日本人。この夜は寿司を食おうと決めていた。板さんと世間話などしながら寿司をつまむ。2本目のお銚子がやってきた頃、少しいい気分になっていた。

「明日は土曜日ですけど、店は何時からですか…?」

「同じく7時からです」

「じゃ、また明日も来ます。フライブルクを出ると、きっとしばらくは、まともな和食に出会えそうもないから…」

勘定を払って外に出ると、まだ日は落ちてなかった。すでに気温は下がり少し肌寒いぐらいだった。

翌日夕方、また“T”に出かける。昨日は寿司だったから、今日は野菜天ぷらを中心にしようと考えた。当然、熱燗を真っ先に頼む。酒がちょっと進んだ頃、板前さんから話しかけられた。

「ドイツでオススメの所ってあります…?」

「えーっ、オススメですか…?!だって、板前さんはこっちに長くいるわけだから、僕よりもっといい場所を知ってるんじゃないんですか…?」

「いいえ、私たちはあまり出かけないものですから」

「なるほどね、でも、う〜ん難しいな。確かに、いろいろな所へは行ったけど。オススメとなると…?」

ドイツ在住の長い人にどう答えたらいいのだ。相手の趣味とか嗜好も分からないし、しかもフライブルクからあまり遠くない所で、オススメの街って一体どこだ…?

「ドイツではないけど、ライン河の向こうに、フランスのアルザスでコルマールって街があるんですけど、そこが結構きれいでしたね。僕としてはオススメの街のひとつなんですけど…」

「あぁ、コルマールなら行ったことあります。確かに、あそこはいいですね」

話はいい方に向かった。さて、野菜天ぷらだ。油の質がいいからカリッと揚がっている。大根おろしもきめ細かい。それだけでも嬉しいのに、旬の白アスパラガスの天ぷらも出してくれた。これはとても美味しかった。

ドイツでは「シュパーゲル」。ヨーロッパでは4月中旬から市場に出回り、6月24日の聖ヨハネの祝日で姿を消す。一般的に『ドイツの春は白アスパラガスとともに始まる』と言われるほど旬の野菜として人気がある。やはり和食店の「板さん」は、日本人の方がいいね…!



# by 1950-2012 | 2019-02-04 21:09 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

1994年夏。その時の旅はミラノから、列車で友人が住む北イタリアのトレントへ移動して始まった。それからはヴェネツィア、フィレンツェ、チンクエ・テッレのモンテロッソ・アル・マーレ。その後、トリノを経由してフランスへ入り、リヨンからブルターニュのマコン。さらにスイスのバーゼルからドイツに入り、黒い森近くの大学町フライブルクへ。

全くめまぐるしい。旅程も決めず、友人の斉藤クン(仮名)と風来坊のように気ままな旅を続けた。フライブルク到着後、中央駅を出た。まずしなければならないことはホテル探し。駅から真っ直ぐ旧市街中心部へ向かって歩き出す。しばらく行くと、旧市庁舎前広場に面した建物の中にホテルを発見。看板には「HOTEL am RATHAUS」と書いてある。とにかく聞いてみよう。空室がなければ、街の中心までシラミつぶしに聞いていけばいいだけ。

レセプションは2階。部屋は空いていた。宿泊料金もそこそこ。悪くない。だからといって即決はしない。念には念を入れ、部屋を見てから決めることにする。鍵を預かって、エレベータで部屋のある上階へ2人で上がる。ドアを開けた。部屋はきっちり整頓され、羽毛布団も気持ちよさげで申し分ない。

僕たちは納得し笑顔で即決。ドイツではどんな小さな街のホテルやガストホフにしても、ほとんど文句のつけようがないほど質が高い。といって、例外が全くないわけではない。時にはひどいホテルに当たるから用心しなければならない。そのため、部屋を念入りにチェックするのだ。

大学町フライブルクは、正式には「フライブルク・イム・ブライスガウ」と言う。この街は環境保護で先進的な取り組みをしている。日本では「環境首都フライブルク」と紹介されることもある。フライブルクは1427年まで帝国自由都市だった。1457年に設立された「アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク」(フライブルク大学)の存在により、ドイツの古典的な大学都市のひとつに数えられている。

荷物を整理してホテルを出た。歩き出して、ふと面白い物を発見。それは街の中を流れる、幅50cmくらいの「ベッヒレ」と呼ばれる水路。街の至る所に水路が流れている。それまでドイツの街をいくつか旅してきたけど、こんな小さな水路が縦横無尽に流れている街は見たことがなかった。ドイツではどんな街も、それぞれに個性的で似ているなんてことがない。それが当たり前なんだ。

自然環境にうるさいフライブルクは、自動車が街の中に入ることを法律で禁じている。市民は郊外で自動車を駐車し、トラムに乗り換えてからでないと街の中心部に入れない。黒い森に近いこの地域では、針葉樹林を酸性雨から守るため環境対策に真剣に取り組んでいる。サッカー・スタジアムの屋根もソーラー発電のパネルだそうだ。

しばらく歩くと喉が渇いてくる。ガイドブックにマルティン塔そばの手造りビールの店「マルティンズ・ブロイ」が載っていた。折角だ。名産のビールを飲まないわけにはいかない。店に入ってしばらく待つと、クリーミーな泡がたっぷり盛られた琥珀色のビールがテーブルに届いた。まずは、ソフトクリームのような肌理の細かい泡を舌でピョロロッと味わう。ほほぉ〜、滑らかな舌触り…!芳醇な香りが鼻に立ち昇る。そして、ゴクゴクゴクッと喉を鳴らして流し込む。う・う・う〜っ・うまい…!

マルティン塔の反対側には、おなじみのハンバーガー・チェーン「マクドナルド」の店も入っている。と言っても看板は目立たない。気づかなければ見過ごしてしまう。これは歴史的景観を大事にする環境保護都市フライブルクだからなのだろう。いやいや、他の都市でも似たような例はあったと思う。マルティンズ・ブロイで大満足し、再び街をウロウロ歩き始める。

しばらく小さな川に沿って歩くと、黄色い「ハウスブロイライ」という看板を発見。やったぁ〜!ここも手作りビールの醸造所だ。店名は「HAUSBRAUREI FEIERLING」。今さっき飲んだばかりだというのに、また喉がググッと鳴ってしまう。道の反対側にビア・ガルテンがある。木陰のテラス席が涼しそうだ。見ると空席がいくつかあった。当然飲まないで通り過ぎるわけにはいかない。

僕たちはビールを注ぐカウンターに並んだ。ジョッキにビールが注がれる。さっきは店内だったから、ビール独特の琥珀色が感じられなかった。ジョッキに注がれると、ビールは黄金色にキラキラ輝やきだした。早速空席を見つけて飲み始める。グビ・グビグビ・グビッ〜!酵母の香りが麗しい。日の光にジョッキをかざす。ちょっと濁っているように見えるのは、まだ酵母が生きている証拠だ。これこそ“生”ビール。

う・う・うっ…うまいっ〜!さっき飲んだマルティンズ・ブロイよりも深味のある「こく」を感じる。屋外で空気が乾いているせいか、とにかく本当にうまい。ビールはアッと言う間に体の中にしみ込んだ。まるで砂漠で水筒の水をこぼしたような呆気なさだ。木漏れ日が顔に当たる。涼やかな風が吹き抜ける。まさに至福の時。

街の中心である大聖堂に向かうと、マルクト広場には青空市がたっていた。野菜、肉、ハム・ソーセージ、チーズ、蜂蜜、ハーブ、魚の露店、さらに衣料品や木のおもちゃ。それぞれの店に人々が大勢集まっている。焼きソーセージを挟んだパンを売る店の前は長い行列。通り過ぎるといい香り。思わず腹が「ぐぅ〜!」と鳴る。気温は30度近く。表に「EIS」書かれた店先には長い列。僕たちはアイスクリームより、泡立つ琥珀色の液体の方が嬉しい。ということで、大聖堂を眺めながらビールをまた飲む。

フライブルクはその昔、ハプスブルク家の支配下にあった。そのため、街の雰囲気がどことなく落ち着いて見える。ちなみに王女マリー・アントワネットは、フライブルクからルイ16世との婚礼のためフランスに旅立ったという。そんな優雅さと歴史に満ちた街角で、2人の女性が奏でるチェロの二重奏に遭遇した。

大聖堂前の広場で、うら若き女性2人が演奏を静かに始めた。最初のうち、演奏を聞いていた人はほんのわずか。やがて時間が経つとともにたくさんの人が集まり、石畳の上に座ったりして演奏を静かに聞いていた。僕たちも彼女たちの前に置かれた楽器ケースの中にコインを入れ、石畳の上に座った。

彼女たちは楽譜を見ながら演奏していた。楽譜は見えるのだけどドイツ語。曲名が読めない。読めたとしても分からない。メロディを聴いただけでも分かる程度に、もう少しクラシック音楽についての知識を深めておけばよかった。ドイツではクラシック音楽が、日常生活の中にさりげなく存在している。もしかしたらドイツ人は「クラシック」というジャンル分けを、日本人ほどはっきり区分けしてないのかもしれない。

満月の美しいその夜。夕食後に、もう一度大聖堂に行ってみた。今度は重厚なドアの前で、1人のフラメンコ・ギタリストが演奏していた。月下のギターの調べは、とてもロマンティックで情感に溢れていた。時に妖艶な表情を見せる音色は、石畳の広場と歴史に彩られた建物の間に仄かに響いては沁み入り消えていった。

街の中心部の大きな広場まで行くと、たくさんの人が集まっていた。移動劇団のコミカルな芝居だ。芝居は子供のためのもので、会場には多くの家族連れが集まっていた。ドイツ語の芝居だから、僕たちは何を言ってるのかよく分からなかったけど、子供たちは大声で楽しそうに笑っていた。僕たちもしばらく広場に座って芝居に見入った。

全く気持ちのいい夜だ。ホテルまで戻ってくると、今度は旧市庁舎前広場でも、火噴き男のパフォーマンスなどがあって人々がたくさん集まっていた。真夏のドイツの夜は、オモチャ箱かサーカスのテント小屋をひっくり返したようで、いろいろ不思議な妖しさ楽しさに満ち溢れていた。大人たちも子供たちも、はたまた異邦人も、お伽話のような極彩色の「真夏の夜の夢」みたいな夜を体験できたのだ。



# by 1950-2012 | 2019-02-01 20:50 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

2007年2月中旬。詩人アルチュール・ランボーの故郷、北フランスのシャルルヴィル・メジエールに連泊していた。2日目のこの日は、まずランスへ行って世界遺産のノートルダム大聖堂を見る。それからルネ・ラリックのステンドグラスのあるサン・ニケ教会へ行く。そして最後に、藤田嗣治の礼拝堂を見る。その後は、エペルネーに列車で移動してシャンパンを飲む予定だった。

9時26分、シャルルヴィル・メジエール発パリ東駅行き急行に乗る。走り出すとすぐに田園風景。ランス駅到着後、ガイドブックの地図を見て大雑把な方向を記憶。ガイドブックはいつものように半分に折りたたみ、時刻表と共にデイパックのサイドポケットに入れる。さぁ、行くぞっ…!

まずはノートルダム大聖堂。途中、ツーリスト・インフォメーションに立ち寄って街の地図をもらうつもり。道に迷った時には、細かい道の名前が出ている地図の方が役立つ。ガイドブックの地図は、あくまでも参考程度にしか役立たないと僕は考えている。

駅前から緑地帯を渡り、太い通りを歩き出す。左右にはレストランが並んでいる。ランスはシャンパーニュ地方の中心都市、できれば名産のシャンパンを飲みたい。しかし、まだ朝早すぎる。しばらく行くと道の中央に塔があり、金色に輝く天使像が真っ青な空を優雅に浮遊していた。見上げれば上空には真っ直ぐ引かれたヒコーキ雲。いい天気になりそうだ。

ツーリスト・インフォメーションはノートルダム大聖堂の手前にある。歩道の中央部を注意しながらゆっくり歩く。ワンコの“糞”地雷は、道の端や植え込みのそばに落ちているから要注意。劇場が見えた。隣が裁判所。裁判所脇の細道を曲がると、ノートルダム大聖堂がまるで覆い被さるように立ちはだかる。13世紀に着工されたゴシック建築の集大成。堂々とした荘厳な姿に思わずひれ伏すモンゴリアン。

ツーリスト・インフォメーションは背後に大聖堂が控えているから、建物は何とも小さく頼りなげに見える。ドアを開けた。若い女性が応対してくれる。まず街の地図をもらう。続けてサン・ニケ教会の場所を教えてもらう。ガイドブックの地図には、残念ながらサン・ニケ教会周辺が載ってない。女性が赤いボールペンで印を書いてくれた。

「サン・ニケ教会は今、老人が管理していて突然行っても入れないですよ」と奥から男が親切に教えてくれる。

「あぁ、そうですか。ダメか…」

「今日はこの街にいるんですか…?」

「いえ、午後にはエペルネーに行こうと思ってるんです…」

「そうですか。今から電話で予約すれば午後には開けてくれると思うんですが…」

諦めるしかない。全てこっちの都合通りに運ぶわけもない。まぁ、大聖堂と藤田嗣治の礼拝堂が見られればOKということにしよう。礼を言って外に出た。

大聖堂前の広場と正面左側は現在工事中。何はともあれ、ファサードの彫刻がスゴさに驚かされる。顔を上に向けて写真を撮っていると、首の筋肉が攣りそうになる。特にスゴイのが、正面中央扉右側の壁の受胎告知など4体の像。僕は今まで沢山の大聖堂を見てきた。ケルン、ロスキレ、パリ、ウルム、ミラノ、フィレンツェ、ベルン。簡単に比べることはできないけど、やはりランスのノートルダム大聖堂は、その中でも3本の指に入ると思う。すげぇぇぇ〜!

大聖堂の中に入る。ほんのりと薄暗い。目がその暗さに慣れてくると、ステンドグラスの輝きがいっそう増す。本命のシャガールのステンドグラスはどこだ…?ゆっくり祭壇の方へ進む。振り返ると、豪奢なパイプオルガンに、ステンドグラスの色鮮やかな輝きが映っている。何とも神々しい…!しばらくその場で佇む。

シャガールのステンドグラスは、内陣中央の小祭室にあるとガイドブックに書いてあった。祭壇の後方に回る。青を基調とした色鮮やかなシャガールのステンドグラスがあった。3枚のステンドグラスは、ドイツ中部のマインツにある聖シュテファン教会の主祭壇にある物とよく似ていた。当たり前だ。作者は同一人物だ。

しばらく見とれた後、思い出したように写真を撮り始める。心の中では「これはこれで美しいけど、やっぱりマインツの方が素晴らしいな…」などと独り言を言っている。今回の旅の帰国前日、僕はそのマインツにホテルを予約してある。当然、聖シュテファン教会に行くつもり。あの感動をもう一度。それも今回の旅の主目的のひとつ。マインツではさらに、自家製ビールが飲める店に行くという楽しみもある。

シャガールのステンドグラスの向こうに女性の立像があった。聖女ジャンヌ・ダルクだ。ランスのノートルダム大聖堂は、オルレアン解放後にジャンヌがシャルル7世に戴冠式を行わせた場所として知られる。戦いの衣装をまとった聖女ジャンヌが剣を手に立っている。自信に充ちた表情だ。立像の四方は、黒いエンタシスのような柱が支えている。4本の柱の上には精巧な金細工。まるで後光が射しているように見える。

戴冠式の翌年、ジャンヌは捕らえられルーアンに送られた。そして1431年、火あぶりの刑に処せられる。その時ジャンヌ19歳。僕は200212月、火あぶりが行われたルーアンを訪れている。処刑された場所には現在「ジャンヌ・ダルク教会」が建っている。

大聖堂の外に出ると、あまりの明るさに目が眩んだ。確か、軍旗を手にしたジャンヌの像もあるはずだけど…?ちょっと左手に行くと、馬に乗った青銅のジャンヌ像があった。でも、軍旗は持ってない。軍旗は何かの理由で取り外してあるようだ。手のやり場に困っているジャンヌが何だか面白い。

次は藤田嗣治の礼拝堂。駅に向かって緑地帯をさらに右に行った方にある。かなり遠い。ノートルダム大聖堂から1.5km以上離れている。まぁ、行くしかない。そのためにランスに来たのだ。地図が分かりにくく、市場とマルスの門の辺りでウロウロしてしまう。その辺からでも礼拝堂まではまだ800m以上離れている。

Champ de Mars通りを行く。本当にこの道でいいのか…?歩道部分は狭いし犬の糞も多い。藤田は1959年ノートルダム大聖堂で洗礼を受けた。僕が見に行こうとしている礼拝堂は、シャンパン会社G.H.Mummの資金援助を受けて建てられた。内部には藤田のフレスコ画があるという。何としても見てみたい。

やがて左手にG.H.Mumm社の建物が見えた。礼拝堂はその先だ。道路を挟んで右手にはシャンパン工場がある。シャンパン会社の塀が途切れると低い石垣があり、奥に小さな礼拝堂が見えた。小さなアーチ型の門に鉄製の柵があり施錠されている。何と、中に入れない。

あれれ、参ったな、やれやれ…!ガイドブックをよく見ると、開館は『5/2〜10/3114:0018:00』で、閉館は『7/1411/1〜5/1』と載っていた。ははは、ただ今2月中旬。開いているわけないか。折角ここまでやって来たのだ。写真だけでも撮って帰ろうと思った。シャッター・ボタンを何度か押す。何か空しいなぁ、とほほのほ…!

これでランスでは肩すかしが2つ。せっかくだからG.H.Mumm社のシャンパンが飲みたいところ。工場でも見学して飲ましてもらおう。よしっ、試飲だ、試飲〜!工場の前まで行くと、この季節の見学は予約が必要とのこと。面倒だな。残念だけど諦めるしかないか。

気を取り直して駅に戻る。ちょうど昼時。列車を待つ間にキオスクでサンドイッチを買う。こんなにいい天気の日は屋外の方が気持ちいい。真っ青な空。気温も高い。これで2月中旬…?ちょっと異常気象だ。何気なく見ていると、駅建物の石壁に無数の穴があることに気付いた。

「あらら、ひょっとしてコレって、第二次大戦の時の弾痕かもしれないゾ…?すげぇなぁ〜!」

などと、オッサンはひとり興奮するのであった。



# by 1950-2012 | 2019-01-29 17:43 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

2013年6月中旬。ユトランド半島西岸、北ドイツのフーズムからデンマークのリーベに列車で向かう。北海から吹き付ける風は冷たく強い。透明度の高い青空は、まさに「天高く」気持ちがよい。途中駅で列車を乗り変える。ドイツとデンマークの国境と言っても、車窓風景はさほど変わりばえしない。当然だ。元々この辺りは、ドイツだったりデンマークだったり、国境線が一定しない地域だったのだから。

沿線には風力発電の風車が目立つ。普通の風車は真っ白だけど、中にはグレーの風車もあったりする。なぜだ…?北海から吹き付ける風は烈しく強い。どの風車もクルクルクルクル気が狂ったように回っている。だけど時々、回ってない風車があったりするから面白い。風車だって中には、サボタージュするヤツがいるのかも。

気づかない内に国境を越えた。だからと言って、強面の国境警備員がパスポートをチェックし、ポンとスタンプを押してくれる訳でもない。呆気なくデンマーク入り。友人クリスチャン(仮名)との約束は午後1時リーベ駅前。だけど僕は12時に到着。ははは、1時間も余ってしまった。さて、どうやって時間を潰そうか…?

駅構内を調べてみるけどコイン・ロッカーはない。切符の自動販売機はあるけど、駅員がいる様子もない。ユトランド半島西部の街リーベは、デンマーク最古の都市のひとつと言われるけど、人口は1万人を切る小さな街。デンマークだって総人口約550万ほどの小さな国なのだ。

ガイドブック『地球の歩き方』を開く。地図が載っているのはありがたい。駅からほぼ真っ直ぐ行けば街の中心。リーベの歴史は8世紀にまでさかのぼる。西暦845年の文献に、早くもその名が見えるというからスゴく古い。860年ハンブルク=ブレーメン大司教アンスガールは、北欧伝道の途上、デンマーク王にスカンディナヴィア初の教会をこの地に建てるよう進言。教会は司教の影響力ゆえ大聖堂となり、遅くとも948年には完成し、司教座が置かれた。

リーベ駅を出て、橋を渡ると街の中心部に行き着いた。通りを右に曲がると広場が見えた。青空を鋭く突き刺す尖塔。印象的な大聖堂が広場中央に建っている。広場では老人の音楽隊が練習の真っ最中。広場に面してホテルが数軒建っていた。その中の、元監獄だったという面白いホテルが、ガイドブック『地球の歩き方』に載っている。



  『Den Gamle Arrest デン・ガムレ・アレスト

   料:バス、トイレ付きS790DKKD890DKK

    バス、トイレ共同S540DKKD740DKK

   元監獄を改装したホテル。窓枠には鉄格子が付いていたりと、雰囲気充分。

   1階はブティックになっている夏期にはテラスにカフェがオープンする。』



のんきに写真を撮りながら歩いてると、トイレに行きたくなった。どこかいい店はないか…?駅に戻る道の角っこに、可愛い白い建物のカフェを発見。早速店内へ入る。ほぼ満席で、空いているのは窓側のカウンターだけ。とりあえずビールが飲めて、トイレへ行ければいいのだからどこでもOK。メニューを見て地元ビール「BLOND ALE RIBE BRYGMUS」を選ぶ。

「ブロンド・エール」はゴールデン・エールとも呼ばれ、アメリカなどでも最も親しまれているビールの1種。色合いはゴールドで、ラガーのようなスッキリと瑞々しい味わいが特徴。モルトの味わいは弱く、フローラ系のホップの香りが楽しめる。

ビールは瓶入り。カウンターに真ん丸っちいおデブなグラスを置き、慎重に丁寧にビールを注ぐ。なるほど黄金色が美しい。これは美味そうだ。注ぎ終えたらグラスをグイッと持って唇に近づける。フルーティな香りが鼻に心地よい。グビッとひとくち。思っていたよりも軽くない。深みのあるコクさえ感じる。旨し!大満足!

偶然旨いビールに出会い、トイレもしっかり借りた。勘定をしようとした時、ハッとあることに気づく。ユーロは持っているけど、デンマークの通貨は持ってない。しまった、参ったなぁ…!さて、どうしよう…?

「すいません、ユーロしか持ってないんですけど…?」

「大丈夫です。ユーロが使えますよ…!」

店の女性が笑顔でそう言ってくれる。助かった。

駅に戻る。しばらく待つと、駅前にマツダのワゴン車が停車。ドアが開く。笑顔のクリスチャンが顔を出した。握手して再会を喜ぶ。まずはホテルに向かう。もう予約してあるそうだ。クルマは大聖堂の方に向かっている。まさか…?ひょっとして…?クルマは例の元監獄ホテル「Den Gamle Arrest」の前で停車。

おぉ、やったぁ〜!クリスチャンは前日PCで検索し、ここなら僕が喜んでくれそうだから予約したのだと言う。とりあえずチェック・イン。レセプションは1階のブティック。鍵をもらって2階に上がった。廊下には鉄格子。なるほど、気分が出ている。鍵を開けて自分の部屋へ入る。ドアは独房っぽく、重たく、厚く、頑丈だった。

元監獄だけあって室内は簡素だ。ドアを開ける。部屋の手前右手に小さな洗面所。ベッドの上には中2階があり、テーブルと籐の椅子が2脚置いてある。窓が大きく開いているから部屋は明るい。全体に白くペインティングされているから、清潔感があっていいけど、もしもドアや部屋や壁が黒だったら、恐ろしい部屋になっていただろう。

昼食は広場を挟んでホテルの反対側にある「ヴァイス・ステュー」という、築1580年の旅館のレストランで食べることにした。レストランの2階は、8室のB&Bになっているそうだ。煉瓦の壁に木組みの梁が印象的で、外観の所々はひしゃげて歴史を色濃く感じさせる。

昼食後はクルマで近辺をドライブ。ホテルに戻ってからは、夕食の集合時間を決めて後は自由行動ということにした。僕はカメラをぶら下げてホテルを出た。まずは目の前に堂々たる姿を見せる大聖堂に。建物もパイプオルガンも素晴らしい。中世にはフランドルやイギリスを相手に、世界的な交易地として名を馳せたこの街の栄華を物語るようだ。パイプオルガンは歴史を感じさせる荘厳な造り。天まで届くようなドームが、どんな響きを聞かせるのか興味がある。

リーベは史跡と環境の保存に、全市を挙げて力を注いでいる。この街には幸せを運ぶコウノトリも飛来するそうだ。大聖堂からリーベ川に向かう。川沿いには小型船が停泊。川に沿ってしばらく歩く。路地の奥には、素晴らしく整頓された家々がギッシリ建ち並んでいる。何か雰囲気がいい。

気取りのない静かな手入れの行き届いた家並み。リーベの人たちにとってみれば当たり前の風景なのだろう。住宅が無秩序に、雑然とひしめき合う国からやって来た旅人は、ただただ感動してシャッターを押しまくる。さらに大聖堂の西側や南側の住宅街に入る。こっち側にも素晴らしい家並みが続いている。この辺りの家は13001600年代の家だという。

ハッと気がつく。そういえば、僕はまだデンマークの通貨を持ってない。クレジット・カードさえあれば何とかなるけど、やはり現金は少し持っていた方が安心。まだ数日間デンマークにいるのだし、帰りの飛行機だってコペンハーゲン国際空港から飛び立つ。デンマーク・クローナーがないのはちょっと不安だ。

どこかにATMはないか…?たぶん繁華街のどこかにあるはず。今までだって簡単に見つかった。しばらく歩いたけど、それらしきものが全然見えない。人に聞いた方がよさそうだ。聞いてみると、駅に向かう道の右側の駐車場にあることが判った。確かに駐車場周辺には、まとまって数台のATMがあった。カードを入れ、ピン・コード(暗証番号)を押して金額を選択。とりあえず2,000クローナーもあれば充分だろう。

ホテル近くに鋭角的に道が出っ張っている所があり、そこに真っ白で雰囲気のいいバーがあった。建物上部の尖った屋根に「1876」の文字。築1876年の建物だ。ちょっと入ってビールを飲みたいけど、また後でクリスチャンと一緒に来ようと考えた。初めてのユトランド半島西岸。ガイドブック『地球の熱き方』に載っている街は少ない。リーベは小さな街だけど、見るべき物はたくさんある。

夕食後、クリスチャンとさっき入ろうとしたバーへ向かった。1階はちょっと混んでいるので2階へ上がる。2階の奥は団体さんが占めていた。空いている手前の席に僕たちは座った。クリスチャンはタブレット型PCを取り出し、老眼鏡をかけて操作を始める。いつの間にか友人はオッサンっぽくなってしまった。しばらくするとクリスチャンが子供たちの写真を見せてくれた。いつの間にか子供たちは大きくなっている。長女はもう18歳。長男は15歳で、身長はオヤジとほぼ同じくらいだと言う。

ホテルに戻った。軽く酔った罪人どもは、それぞれの独房に分かれていく。確かに元監獄の部屋は面白い。だけどトイレとシャワーが共用で、部屋の外にあるのが何とも不便。僕は最近やたらとトイレに行く回数が増えた。そのためわざわざ部屋を出ていくのがちょっと億劫。とはいえ、たった1日の辛抱だ、我慢。



# by 1950-2012 | 2019-01-26 07:41 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)

セーヌ河左岸の「カルチエ・ラタン」は、パリ5区と6区にまたがる区域。カルチエは「地区」、ラタンは「ラテン語」で、つまり「ラテン語地区」を意味する。フランス語が未統一だった時代、書物のほとんどはラテン語で書かれ、大学の講義もラテン語、学生たちの討論もラテン語だった。ヨーロッパ各地からパリの学校に集まった学生たちが、当時の国際共通語であった「ラテン語」で会話した「地区」ということに地名の由来がある。

現在、カルチエ・ラタンにはパリ大学をはじめ、高等教育機関が集中し、今も昔もこの界隈は「学生街」として人気がある。1968年5月に起きた、ゼネストを主体とした学生の主導する労働者、大衆の一斉蜂起「五月革命」の時、カルチエ・ラタンは様々な反体制学生運動の中心地でもあった。

話は変わって、キリスト教を広めようとポルトガル船に乗って日本にやって来た宣教師、誰もが日本史で習うフランシスコ・ザヴィエル。彼は152519歳の時、カルチエ・ラタンの一角にあった「聖バルブ学院」に在学していた。聖バルブ学院はポルトガル王の補助で建ち、かつ運営されていたという。その頃、日本は毛利元就の初動期であり、戦国期が始まっていた。

以上の情報は、司馬遼太郎さんの著書“街道をゆくシリーズ22”『南蛮のみち1』などからの受け売り。すいません。宣教師ザヴィエルはポルトガル船に乗って日本にやって来た。ということで、彼をポルトガル人だと思っている日本人は多い。でも、ザヴィエルはスペイン国内のバスク出身。決してポルトガル人ではない。

同様に、オランダの東インド会社の医師として来日したシーボルトも、オランダ人だと思っている人が多い。実は、シーボルトはドイツ人。有名な「ロマンティック街道」の北の起点ヴュルツブルク出身なのだ。

ある時、シーボルトの日本の弟子が「先生のオランダ語はちょっと違いますね…?」と聞いたことがある。するとシーボルトはすかさず「私は高地オランダ出身ですから、ちょっと訛りがあります…!」と答えたという。知っている人は知っていると思うけれど、オランダは海抜0m以下の土地が多く、ほとんどが埋め立てで出来上がった国。先生の言う「高地」なんて、どこを探したって見当たらない。たぶん先生はジョークのつもりだったろうけど、弟子はきっと真に受けたと思う。

ザヴィエルの話に戻ろう。彼が学んだ聖バルブ学院は今、パリ第2大学(法学経済学部)の図書館に入っているという。「パリ大学」というと、すぐに「ソルボンヌ」を思い浮かべる人が多い。実をいうと調べてみるまで、残念ながら僕もその勘違いをしていた人間の1人だった。

パリ大学の起源は12世紀前半。イタリアのボローニャ大学や、イギリスのオックスフォード大学やケンブリッジ大学、さらにスペインのサラマンカ大学、同じくフランス国内のモンペリエ大学やトゥールーズ大学などと共に、1213世紀に設立されたヨーロッパ最古の部類に入る歴史ある大学のひとつ。

1257年にフランスの神学者 ロベール・ド・ソルボンが、神学部学生用のソルボンヌ寮を設立して、以降「ソルボンヌ(Sorbonne)」または「ラ・ソルボンヌ(La Sorbonne)」と呼ばれた歴史を持っている。1970年には13の大学に分割。現在の第1から第4大学までがソルボンの意思を受け継ぐ伝統的な教育を行っており、その内3校(第1、第3と第4大学)は「ソルボンヌ」を冠としているという。

ザヴィエルは現在の上智大学を設立したカトリックの団体である「イエズス会」創立者のひとり。同じくイエズス会創立者のイグナチオ・デ・ロヨラとは、聖バルブ学院で勉学に励んでいる時に出会った。ということは約500年前、若きザヴィエルとロヨラは熱き心で語らいながら、僕も歩いたソルボンヌ辺りの石畳の道を行き来していたかもしれない。そう思うと、何だかこっちの心も熱くなる。

日本に滞留することわずか2年余り。ザヴィエルは日本の人々に大きな影響を与え、さらには当時の日本について、ヨーロッパ世界への最初のまじめな報告者にもなった。彼は中国の広東港外の小さな島で死ぬが、ローマの法王庁でその人格を追慕する人が多く、1622年には「聖人」に挙げられた。面白い話がある。これも司馬さんの著書“街道をゆくシリーズ22”『南蛮のみち1』からの抜粋。



『ザヴィエルは、私どもに断りなく(?)日本国を大天使ミカエルに捧げたひとでもある。以後、こんにちでも大天使ミカエルはカトリックでは日本国の守護天使になっている。』



えっ、知らなかった…!カトリックの世界で、日本の守護聖人が大天使ミカエルになっていたとは…?それでか、フランスを旅する多くの日本人観光客が、世界遺産のノルマンディーのモン・サン・ミッシェルを目指すのは…!なぁ〜んてね。本当はそうじゃないと思うけど、ははは…!

ザヴィエルの故郷バスクには、以前から興味を持っていた。彼はピレネー山脈の麓、ナバラ王国の一城主の子として生まれた。バスクはスペインだけでなく、フランスにもまたがる大きな地域。漫画家・手塚治虫先生が愛用していたベレー帽は、誇り高いバスク男子が着用する民族の象徴とも言えるもののひとつだ。

僕は今まで1度もスペインを訪れたことがない。大した理由はない。何となくピレネーを越えられなかっただけなのだ。とはいえ、ザヴィエルの生まれ育ったバスクだけでなく、未だに数多くの巡礼者が目指す、聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラにはいつか行ってみたいと思っている。

2008年晩秋の3週間、僕はフランスとイタリアとスイスを旅した。旅の前半、大西洋岸のボルドーに3連泊した時、列車でボルドーから南へ向かい、バイヨンヌとサン・ジャンド・リュズに日帰りした。2つの街はフランスのバスク地方(フレンチ・バスク)。僕はこの目と体で「バスク」を感じてみたかったのだ。だけど僕が訪れた日はあいにくの雨。歩き疲れてヘトヘトになり、ずぶ濡れでグショグショになってボルドーに戻ったのを覚えている。それでもバスクの空気にちょっとの間だけでも触れられたことに満足している。次に機会があったら、いつかはフランスとスペインのバスク人が住む街をブラついてみたいと考えている。

そういえば以前、中野にあったRockバー「アンティグワ」で、偶然にもバスク出身のカップルと出会ったことがある。バスク人だからといって特別なことはなかった。言われてみなければ、きっとスペイン人とかイタリア人だと思っただろう。ヨーロッパに住む人々の国籍を識別するなんて難しすぎる。同様にヨーロッパ人にしたって、日本人・韓国人・中国人・台湾人・モンゴル人を識別なんてできやしない。

アンティグワは中野周辺に住む外国人のたまり場だった。店は武蔵野館の並びのビルの2階にあり、サイケデリックなジミ・ヘンドリクスとジャニス・ジョプリンの看板が目印だった。でも、もう20年近く前に閉店してしまった。現在、鎌倉に住む日本通のイタリア人の友人フランチェスコや、彼の兄マウリツィオと出会ったのはアンティグワだった。



# by 1950-2012 | 2019-01-23 07:05 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)