人気ブログランキング | 話題のタグを見る

1990年から旅したヨーロッパのイロイロな街と20世紀末の下北沢を、写真と文章で紹介していきたいと思います。


by KaZoo

419「チェコの若い女性は、自然で元気で笑顔がとても素晴らしすぎるのだ…!」チェコ、クトナー・ホラ

2010年6月上旬、スイスのチューリヒから始めた36日間の長旅の序盤。チェコの首都プラハ3連泊中の2日目、落ち着きのない僕はプラハから列車に乗ってクトナー・ホラという小さな街を目指した。なまじユーレイル・パスなんて持っているから、毎日使わなきゃ損だというセコイ気持ちが強くなってしまう。これが問題なのだ。だからと言ってやめられない。何たって知らない街をフラフラさすらい歩くのは楽しくてしょうがないからだ。

実は今日、プラハ本駅に着くまで僕の頭にあった行き先はクトナー・ホラでなく、2日前に滞在していたチェスケー・ブディェヨヴィツェ近郊にある街ターボルだった。ターボルはプラハの南80kmに位置する歴史ある街で、15世紀にチェコで起こった宗教改革運動の軍事的拠点だったという。何でも中世そのままの建物が残って、戦いを考えて設計された迷路のような路地が多いとガイドブックに書いてある。僕はこれに興味が惹かれた。

ターボル行き列車はプラハ9時16分発。昨晩しっかりトーマス・クックの『時刻表』で確認しておいた。そして余裕を持ってプラハ中央駅に到着。早速駅構内の発車時刻案内板でターボル行き列車の発車時刻を再確認。あれれ、乗ろうとしていた時刻にその列車がない…?何とターボル行きは1時間半近くも後の発車だ。たぶん今日は日曜日で列車のダイヤが違うからなのだろう。これは参った。予定がガタガタと崩れる。さて、どうしようか…?

ガイドブック『地球の歩き方』を見て考える。実は第2候補が決めてあった。それがクトナー・ホラだった。それともいっそ大胆に特急列車に乗って、プラハから255km離れたチェコ第2の都市ブルノまで行ってみようとも考えた。ただしブルノまでは片道3時間弱。これでは往復6時間。ちょっと遠すぎるかもしれない。それに元々僕は大きな街が好きじゃない。ということで急遽第2候補のクトナー・ホラに行き先変更。クトナー・ホラはプラハから65km。これなら楽に往復できるからちょうどいい。

クトナー・ホラは中部ボヘミアに位置する人口7万5千ほどの小都市。数時間で見て回るのにはちょうど手頃なサイズかもしれない。そうと決まれば行動は早い。開いているキオスクでミネラル・ウォーターを買い、クトナー・ホラ行き列車が出るプラットフォームへ急ぐ。こういう時に列車乗り放題のユーレイル・パスを持っているのはとっても便利だ。僕は1等車の誰もいないガラ〜ンとした6人掛けコンパートメントのドアを開けた。

しばらく待ったけど誰も入ってこない。広いコンパートメントに乗客は僕1人だけ。気分がいい。窓を大きく開け放つ。初夏の爽やかな風が入ってくる。座席に座ってしばらくすると列車は静かに走り出し、数分後には車掌が切符をチェックしにやって来た。僕がユーレイル・パスを見せると、車掌は納得した顔で軽く頷きコンパートメントのドアを閉めた。車掌が行ってしまったら後は好き放題。早速向かい合っている2つのシートを前方に引き出し、簡易ベッドのようにフラットにして寛ぐ。あ〜ぁ、楽ちんだ極楽・極楽、サイコーだ〜!

列車は面白味に欠ける田園風景の中を走り続ける。それでも僕は車窓風景をボ〜ッと眺めながら大いに楽しんでいる。ただ列車に乗っていることが子供みたいに好きなんだと思う。やがて1時間ほどでクトナー・ホラ本駅に到着。近くにクトナー・ホラ・ムニェストという駅もあるから間違えやすいとガイドブックに書いてあるので注意した。

列車を降りた。妙に人の気配が少ない駅だなぁ…!それが偽りのない第一印象。とはいえ駅舎はレンガ造りで見栄えは決して悪くない。たまたま日曜日で時間が早いからなのだろう。クトナー・ホラで降りた乗客のほとんどは観光客。多くもないけど少なくもない。僕は他の乗客の後について駅を出た。たぶん多くの人々が向かうのは旧市街方面。道を間違えないよう再度ガイドブックの地図を見て確認した。

クトナー・ホラは過去にプラハに次ぐほどの繁栄を謳歌したという。13世紀後半に良質の銀が発見され街は急速に発展する。その後に王立造幣局が設立され、この街で造幣されたグロシュ銀貨は当時のヨーロッパに広く流通したそうだ。しかし16世紀に銀が採れなくなり、途端に街は衰退していく。さらに三十年戦争を経た1726年に造幣局は閉鎖。街の輝きは一瞬にして失われてしまったという。

駅から歩き始めて10分も経たない内に、デイパックと接しているTシャツの背中がグッショリ濡れてきた。喉も渇いてくる。見上げると空は真っ青。気温はどんどん上がっていく。歩き回るにはちょっと辛い1日になりそうだ。バス通りに出た。道の左右には団地のような集合住宅がズラ〜ッと並んでいる。僕の知るヨーロッパって感じの風景ではない。かつての社会主義国の香りがプンプン匂う。何とも無味乾燥と言っていい風景。といって日本の大都市近郊だって、似たような集合住宅が連なる味気ない風景が広がっている。

20分近く歩くと正面遠くに教会が見えた。ガイドブックの地図で調べる。聖母マリア大聖堂だ。そろそろ旧市街に入ったって感じがする。左手に警察のオフィスがあり、表にかっこいいパトカー1台が停まっている。車種は日本ではあまり見かけないチェコ国産のシュコーダ。子供みたいだけど、僕は外国の警察車両を見るのも好きなのだ。シルバー・グレーのボディに青と橙色のライン。そして大きく「POLICIE」の文字。なるほど、チェコ語では「POLICE」ではなく「POLICIE」と言うのか。知らなかった。

旧市街の中心パラツキー広場に行くとツーリスト・インフォメーションがあった。まずは街の地図が欲しい。ツーリスト・インフォメーションの地図はペラペラ1枚のA4紙。裏には英語の説明が入っていた。地図を渡してくれる時、若い女性スタッフが笑顔で主要ポイントにボールペンで印を付けてくれた。本当は無地のままの地図が欲しかった。しかたがない。彼女は親切心で印をつけてくれたのだ。

女性スタッフが付けてくれた見所はイタリアン・コート、フラーデク鉱山博物館、聖バルバラ大聖堂と、さっき前を通り過ぎたセドレツの聖母マリア大聖堂の4つ。とりあえず僕は一番近いイタリアン・コートへ向かうことにした。パラツキー広場を出ようとすると、妙に人なつっこい1人のオッサンが近寄ってきた。どちらかというとスラブ系というよりラテン系という感じの濃い顔。何だか怪しい感じがする。見ると手にA5サイズの紙切れを持っている。道行く観光客に愛想笑いを振りまきながら手渡していた。当然僕にも紙をくれる。

何だか妙なオッサンだなぁ…?そう思った後もらった紙の裏を見た。何とピッツェリアの広告と両替店の広告。紙に表示してある両替通貨は4種だけ。USドルと欧州通貨のユーロ、そしてかつての社会主義国のお仲間ロシアとウクライナ4つの通貨だ。オッサンの紙には€1=25コルナとなっている。果たしてこのレートがおトクなのかどうか…?まぁ、おトクってことはないだろうと思う。

イタリアン・コートはかつての造幣局。チェコでは13世紀まで何種類もの硬貨が流通し混乱していたという。そんな時にイタリアのフィレンツェから貨幣鋳造の専門家を招き、プラハ・グロシュ銀貨を製造したのがこの建物なのだそうだ。そんな理由でイタリアン・コートという名が付けられた。建物は造幣局であると同時に国王が滞在する邸宅でもあったという。そのせいかもしれないけど堂々とした姿をしている。

次の目的地フラーデク鉱山博物館へ向かう。フラーデク鉱山博物館まではちょっと距離があった。裏道みたいな細い通りを行くと、向こうからやって来る観光客の一団とすれ違う。どうやら鉱山博物館手前の聖ヤコブ教会から出てきたようだ。この辺りの通りは飾り気がなく普通で雰囲気がとってもいい。まさにチェコの地方都市に来たって実感する。もしかしたら日曜日でなく平日だったら、もっと人が少なくてよかったかもしれない。

しばらく先に行くと左側は深い崖。見下ろすと谷までの急勾配はほとんどブドウ畑。この辺りのワインはどんな味がするのだろうか…?そんなことを考えながら歩いた。崖に沿った壁を背に若い女の子が1人、サングラスをかけて静かに座って本を読んでいる。彼女の背後には何本もの尖塔が印象的な世界遺産の聖バルバラ大聖堂。不思議なコントラストに僕は思わずシャッター・ボタンを押した。

3つ目の観光ポイントであるフラーデク鉱山博物館に辿り着いた。ここはかつて街の砦だったという。15世紀にずる賢い地方役人の手に渡り、役人はここで隠れて銀の精錬を行い秘密裡に私服を肥やしたという。全く役人というヤツらは、どこの国でも私利私欲を貪る腹立たしい存在だ。博物館の地下には今でも坑道があるらしい。僕は軽度の高所&閉所恐怖症だから、金を払って何も嫌いな狭い場所に潜り込む気はない。ということでパスする。

さらに進むと世界遺産の聖バルバラ大聖堂がどんどん大きくなってくる。思わず立ち止まって見入ってしまう。何とも見事なほど堂々としている。大聖堂の建設は1388年に始まったという。最初の設計者はペトル・パレルーシュの息子ヤン・パレルーシュ。ちなみに父親のペトルはプラハの聖ヴィート大聖堂やカレル橋を設計した人らしい。設計後に聖バルバラ大聖堂はフス戦争や度重なる資金不足で工事は中断。だけど何とか資金を調達して1558年ひとまず完成したという。

聖バルバラ大聖堂は後期ゴシックを代表する建築物。何と言っても印象的なのはフライング・バットレスと呼ばれる、天に突き刺すような尖った塔「飛梁」かもしれない。僕も今まで数多くの教会建築を見てきたけれど、この飛梁という形は初めて見るような気がする。これは緊張感を煽り圧倒的な存在感を見せる効果があるという。そう言われてみれば確かに僕はちょっと緊張し、胸をときめかせながら大聖堂に近づこうとしている。

大聖堂の手前左側に小さな礼拝堂がある。なぜか礼拝堂の屋根の上にはポーズを決めて座る若い金髪女性。こっちを向いて笑顔を見せている。別に僕に笑顔を見せているわけじゃないと思うけど、思わず僕もつられて微笑んでしまう。チェコに入ってからまだ4日目だけど、僕はチェコの若い女性を見ていて、何だか自然でマイペースで笑顔が素晴らしいと感じている。

大聖堂の名称である「守護聖人バルバラ」の語源は「バルバロスbarbaros」で、元々は「わけのわからない言葉を話す他民族」を指す古代ギリシア人の言葉だそうだ。英語の「バーバリアンBarbarian(野蛮人)」は派生語で、未開人とか蛮人といった侮辱的なニュアンスを含んでいるという。後に聖女バルバラが救難聖人の1人として信仰を集めて以来、その名はマイナス・イメージを喚起させることがほとんどなくなったというのが定説。

これで聖女バルバラがクトナー・ホラの銀鉱山で働く坑員たちの守護聖人になった理由が何となく理解できた。そういえば確か数日前に訪れた、オーストリアの世界遺産ハルシュタットの岩塩鉱山も守護聖人が聖女バルバラだった。仮に「聖女バルバラ」を英語表記すれば「Santa Barbara」となる。サンタ・バーバラといえば、アメリカ西海岸カリフォルニア州の有名な街の名前でもある。ひょっとしたらあの辺にも鉱山があったのだろうか…?

世界遺産の聖バルバラ大聖堂の中へ入った。まずは首が疲れるほど高い天井と色鮮やかなステンドグラスが目を引く。Wow、すごい…!思わず言葉を失い魅入ってしまう。天井にある沢山の窓から光が入り込むせいか、今まで見てきた数多くのゴシック建築の大聖堂よりも明るく華やかな感じがする。主祭壇の「最後の晩餐」の彫刻が何とも素晴らしい。3枚連作で飾られているステンドグラスはまるでミュシャの作品みたいだ。いや、もしかしたらミュシャの作品かもしれない。

堂内をグル〜ッ見回すと、黄金の彫刻に彩られたパイプオルガンが目に入った。こんな華麗なドームでパイプオルガンが演奏されると、一体どんな音色を響かせるのだろうか…?思わず気になった。といっても簡単に演奏が聴けるわけじゃない。帰りに期待を込めてスーベニア・ショップを覗いてみた。何と嬉しいことにパイプオルガンのCDがあった。早速1枚購入する。早く聞いてみたいけど僕は旅に再生機は持って来ていない。帰国してからの楽しみがまた1つ増えた。僕は望みのDCを手に入れ、やたら満足して聖バルバラ大聖堂を出た。

419「チェコの若い女性は、自然で元気で笑顔がとても素晴らしすぎるのだ…!」チェコ、クトナー・ホラ_f0360599_00202699.jpg
しばらく歩いてから聖バルバラ大聖堂を振り返った。見事な姿に再び心を打たれる。側面から見た時の大聖堂は、生け花の剣山のように大小の尖塔が印象的に目立っていた。それが真正面から見ると整然として穏やかな表情にしか見えない。写真を何枚か撮った。何となく去りがたい気分になっている。僕はしばらくその場に立ち尽くし大聖堂をボ〜ッと眺めた。空気は思ったよりも乾いているけど、初夏の日差しは痛みを感じるほど強い。だけど風は爽やかで気分はとてもいい。

少し歩くと右手にビア・ガルテンがあった。とりあえず喉が渇いていたので、ビールを飲みながら休憩にすることにした。店内に空席はあるけど、僕は陽射しのきつい外のテラス席を選んだ。何だかこっちの方が気持ちよさそうだったからだ。椅子に座ると若い男性スタッフが注文を取りに来た。当然ビールだ。歩き疲れたせいか足がジンジンしている。血流を感じるほど足に疲れが溜まっている証拠だ。

右腕から汗ばんでいる腕時計を外した。もともと腕時計が好きじゃないからちょっとした開放感が気持ちいい。何と腕を見ると日焼けの跡がクッキリ残っていてビックリ。まだ旅も前半だというのに、僕はもうこんなに日焼けしていたのだ。何たって36日の長旅だから、終わる頃にはきっともっと日焼けしているだろう。ヨーロッパは陽射しが強くても、湿気が少なくカラッとして気持ちがいい。やっぱり、ヨーロッパを旅するなら初夏だ…!

  (◎旅ブログ『てくてく チェコ』のバックナンバーは以下の[タグ]から検索してください!)


by 1950-2012 | 2022-12-03 00:21 | ヨーロッパ 旅 紀行 | Comments(0)